モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ボーイング737MAXの事故に思う資本主義の退廃

https://omny.fm/shows/asahi/695?in_playlist=asahi%21podcast

 

徒歩通勤、最近のお気に入りは朝日新聞ポッドキャストだ。記者の取材裏話が面白い。新聞やウェブの記事が「よそ行き」なのに対して、ポッドキャストで話す記者はみんなくだけた感じで、なかなか聞けない貴重な話があふれている。

 

昨日、今日と聴いたボーイング737Maxの話からは、資本主義社会の最前線を行くアメリカの負の側面が伝わってくる。記者の憶測も交り、半信半疑の部分もあるけど、自分自身がかつて航空宇宙分野の技術者として米国に駐在した時に目撃したことを思い出して、さもありなんと思うところも少なくない。

 

航空宇宙産業は世間一般からはハイテク産業だと思われているが実情はかなりローテクである。現代ではより安全が重視されるようになったことと、1つのプロジェクトに莫大なコストがかかるようになったことから、航空機のプロジェクトは決して失敗ができないものになってしまった。

 

そんな中では技術力より政治力が重要になる。何を作るか、それをどこにいるか、どこまで問題を公にするかまですべては政治によって決められる。誠実な技術者ほど心を病んでしまう。

そして資本主義が行き過ぎるところまで発展してしまった現在は、政治力も資本力、すなわち金である。

今回のボーイング737マックスの事故は、そんな病んだ航空宇宙業界のほんの一部を除き見たに過ぎない。もっと言えばそのような病理は口腔中だけの問題では無いのかもしれない。資本主義に脅かされされ続けてきたあらゆるビジネスが、ボーイング737マックスのような事件を起こす可能性は充分あると思う。付け焼き刃の対処ではなく、根本的な改革が必要だ。

 

豊かな生活にはお金は必要だけど、お金に縛られすぎると貧しい社会になる。そんなことを改めて思ったポッドキャストだ。

 

 

ボサノヴァな奴

ふと「ボサノヴァ」ってどういう意味なんだろう?と思って調べたら、ボサは隆起、ノヴァは新しい、で、「ボサノヴァ」は「新しい傾向」「新しい感覚」と言う意味なんだそう。

 

ところで日本語に「ボサッと」という言葉がある。大概は批判的な意味で、「ボサっとしてないで、何か役に立つことでもしなさい」のように言葉が続くのだけど、もしかしたら普通の人には理解できないない斬新なことをやってる人は、普通の人から見ると「ボサっと」見えるのかもしれない。

 

つまり「新しいこと」をやっている人、または、新しいことをやっている様子が実は「ボサノヴァ」の語源ではないか。これは我ながら斬新な発見だ。そういう人を、これからは「ボサノヴァな奴」と呼ぼうではないか!

 

‥なんて投稿をしている自分は、明らかに「ボサっと」しているし、何も役に立つことをしていないのではないか。

 

でもそれでいいのだ。今宵はベランダでビールを片手にボサノヴァを聴きながら、「ボサノヴァ」な時間を過ごすのだ。

ほめるスキル

Disciplineは日本語で「しつけ」と訳されるが、英語の”Discipline"には、「望む目的のために、自分の気の進まないことを実行する能力」というニュアンスがあるようだ。

人間、楽しいこととだけやっているのでは得られないものもある。時には自分にとって辛いことを行なうことも必要だ。それによって能力を高め、視野が広がり、辛かったことも辛くなくなる。完全に乗り越えることができれば、それは自分の強力な武器になる。

「良薬口に苦し」である。


ただ、形式だけの「しつけ」は、能力を高めることにつながらないだけでなく、害になってしまう。苦労でやる気がそがれ、自己の能力を高めるどころか、能力を失うことにもなりかねない。


"Discipline"のループを正しく回すためには、得た能力をつかって何かを行い、それを周りに評価してもらうことが大事だと思う。人は誰でも他人にほめられることが一番嬉しい。苦労して行ったことならなおさらだ。しかし、たいして苦労もしていないのに、ただほめられると、天狗になるだけで"Self-discipline"の能力は育たない。


結局、親であれ、教員であれ、上司であれ、誰かに"Discipline"を行なう人にもっとも大事なスキルは「正しくほめるスキル」ではないだろうか。

私の敵(茨木のり子「敵について」)

オーディブル茨木のり子の詩の朗読を聞いている。詩集の選者は谷川俊太郎さん。

鋭角な言葉。その根元を支える静かで強い意志。

僕はまだ茨木さんのいる場所まで到達していないけど、かろうじて霞の先にたたずむ茨木さんのシルエットが見える。

彼女は無言で、あなたはここまで来れるか?と問いかける。

僕の歩みは遅いけど、進んでいる方向はだいたいあっているよ、と支えてくれている。

朗読を聴きながら、そんなことを考えていた。

敵について
  茨木のり子



私の敵はどこにいるの?

  君の敵はそれです

  君の敵はあれです

  君の敵はまちがいなくこれです

 ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです


ああその答のさわやかさ 明快さ

  あなたはまだわからないのですか

  あなたはまだ本当の生活者じゃない

  あなたは見れども見えずの口ですよ

あるいはそうかもしれない 敵は…

  敵は昔のように鎧かぶとで一騎

  おどり出てくるものじゃない

  現代では計算尺や高等数学や

データを駆使して算出されるものなのです


でもなんだかその敵は

わたしをふるいたたせない

組み付いたらまたただのオトリだったりして

味方だったりして…そんな心配が


  なまけもの

  なまけもの

  なまけもの

  君は生涯敵に会えない

  君は生涯生きることがない


いいえ 私は探しているの 私の敵を


  敵は探すものじゃない

  ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの


いいえ 私は待っているの 私の敵を

 

  敵は待つものじゃない

  日々に僕らを侵すもの


いいえ 邂逅の瞬間がある!

私の爪も歯も耳も手足も髪も逆立って

敵!と叫ぶことのできる

私の敵!と叫ぶことのできる

ひとつの出会いがきっと ある。

人はすべてメタバースを持っている

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「世の中」は、唯一無二の物理的存在ではなく、
一人一人の心(意識)の中にある多様な存在なんだね。

 

人は五感を通じて外部世界の情報を取得し、脳の中に内部世界を築き上げる。人間が意識できるのは内部世界だけで、外部世界を直接知る術はない。

 

その人の内部世界は、その人だけのものであり、その人自身。人は誰でもメタバースを持っていて、その中で生きているのだ。

 

 

 

 

「魔太郎がくる!」は弱いものの分身であり、味方なのです


藤子不二雄Aさんが亡くなられて、追悼の気持ちを込めて読み返したのが「魔太郎がくる!」。

これはまったく真面目な話なんですが、僕は「魔太郎がくる!」を、今の子どもたちに読んでほしい、とずっと思ってきました。

なぜなら「魔太郎がくる!」は、いじめられっ子にとって心の支えだからです。いつかあいつに復讐してやる、と思うことで、明日を生きる希望が持てるからです。

一方、いじめっ子は「こいつ、もしかしたら魔太郎かも…」と思っていじめを躊躇するかもしれないじゃないですか。いじめられっ子にとっては、ちょっとした「抑止力」でもあるのです。

でも、「魔太郎がくる!」には残酷なシーンがたくさん出てくるのでは、って?。そのとおりです。はっきり言って、魔太郎が受けたいじめより、魔太郎の復讐の方がはるかにひどい笑。何もそこまでしなくても、って毎回思います。(当初の復讐シーンがあまりに残酷なため、後の版では書き換えられたシーンもあるらしい)

でも、そういう残酷なシーンも含めて「魔太郎がくる!」なんです。これは漫画、空想です。いじめられっ子は、現実にはありえない空想を通じて、それぞれの想像力を高めていけるのです。その経験は将来、大きな力になるはず。いじめられたら、それを何かに利用しなければ損じゃないですか。

それでも、現代では「こんな残酷な漫画、絶対だめです!復讐なんてもっての外!!」という人もいるでしょう。そういう人って、ほんと、いじめられっ子の気持ちがわかってないなー、と思うんですけど、僕の言うことはともかく、「魔太郎がくる!」第一巻の見返しに書かれた、藤子不二雄先生のメッセージを読んでください、って。

そこにはこう書かれています。

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僕たちは、子供の時から気は優しくて力なしだったので、よくいじめっ子にいじめられました。だからいじめっ子は大っ嫌いで、いじめられっ子の気持ちがよくわかります。

魔太郎はそんないじめられっ子や弱いものの分身であり、味方なのです。メラメラメラ〜!!

藤子不二雄

「魔太郎が来る」は今こそ読まれるべき漫画

子供の頃は「怪物くん」「魔太郎が来る」「プロゴルファー猿」、大人になってからは「笑うせぇるすまん」。藤子不二雄Aさん、すなわち、安孫子素雄さんの漫画には大きな影響を受けた。

当時は、相方の藤本弘さんと二人のペンネーム「藤子不二雄」だったから、どちらがどの漫画のアイデアを出したのかは知らなかったけど、あの頃から数十年がたった今でも心のなかに刻み込まれているのは、我孫子さんの漫画のほうが多いと思う(もちろん、藤本さんの「ドラえもん」にも大きな影響を受けたけど)。

我孫子さんの漫画は、子供心にも、「こんなブラックな漫画を少年誌に載せていいの?」と思うくらい、ブラックだった。幽霊や怪獣のような異世界の怖さではなく、すぐそばにいる人間の内面の闇や矛盾の恐ろしさを、子ども心にも感じ取っていたのだと思う。それは、人の世の中を学ぶ、すばらしい教科書だったと、今思う。


実は、前々から、「魔太郎が来る」を今こそ漫画かアニメにしてほしい、と思っていた。昼間はいじめられっ子の魔太郎が、夜、魔術を使っていじめた奴らに復習する。復習の手段もかなり残酷で、心にぎりぎりと刺さる。現代の「常識的な」大人は「教育上いかがなものか」と疑問を呈し、おそらく出版禁止・放送禁止の問題作になるだろう。

でも、僕は、そんな大人たちは、いじめられっ子の気持ちをわかっていない、と思う。「魔太郎が来る」は、いじめられっ子の心を癒やす友だちなのだ。「いつか復習できる」と空想することで、前向きな気持や明日への希望をもつことができる。ほとんどの子どもは、本当に復習できるとは思っていないし、たとえ本気で思ったとしても、実際に復習することはまずない。復習というエネルギーはおとなになるに連れて他のことに昇華されていくだろう。


「復習で人が傷つけられるかもしれない」なんて極めて確率の低い心配をするより、「魔太郎が来る」を読んで救われる子どもは少なくないはずだ、と希望を持つべきだし、それは間違いなく正しいだろう。


どんなことであれ、空想は子どもの本能であり、心の友だちであり、生きるエネルギーだ。


「魔太郎が来る」だけでなく、さまざまなことを経験しはじめた子どもの頃、矛盾と闇に満ちた大人の世界を垣間見せてくれた藤子不二雄Aさんとその漫画に、僕は心から感謝している。



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