モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「分断」を超えるためには

毎日、マスメディアやSNSで、さまざまな出来事が伝えられる。その中には違和感を感じるもの、怒りを覚えるものも少なからずある。いや、「少なからずある」というのは控えめな表現で、本心では、毎日そういう出来事ばかりだと思っている。


心穏やかに暮らすためには、そんな嫌な思いをする出来事は無視して、楽しいものだけに目を向ければいいとわかっている。でも、一方で、自分のいる社会の本当の姿に目を向けなくていいのか、とも思う。本当の姿を知ったところで何もできないかもしれない。しかし、それを知り、直接、あるいは間接に、感じた違和感や怒りを率直に表明することは、微力ではあるが、この社会をよりよいものにすることに貢献するはずだと思う。


そういう違和感や怒りを表明することは、軋轢を生むことも事実だ。どんなことでも多面的な見方がある。すべての人が同意見のことは、ほぼないと言っていい。だからこそ、日々様々な問題が起きるのだ。


軋轢はやがて分断をうむだろう。同じ場所・文化の中で暮らす人々が分断されるのは良くないことだ。そのことには、ほとんどの人が同意するだろうし、僕も同じ意見だ。しかし、個別の問題に目を向けた時、人々は社会全体にとってより良いこと、人類社会の大きな理想を忘れ、目の前の小さな利得に懸命になってしまう。


人類が進歩、すなわち、一段高いレベルに到達するには「正」と「反」の対立が必要なのだとすれば、一時的な「分断」も意味のあることかもしれない。しかし、永遠の分断はまったく逆の結果をもたらすだろう。


そのような「分断」をどのように乗り越えればいいのだろう。そんなことをずっと考えている。


逆説的な考えだが、僕は、さらに「分断」を進めることだと思う。そもそも、この複雑な世界を、2つや3つの考えに分けることが無理なことなのだ。ある問題に対して2つの対立する見方があったとしても、そのどちらも細かく見ていけば、さらなる「分岐」がある。それぞれはさらに細かく分岐する。それは、フラクタル図形のように続くのだ。そして最後は「個人」というものに行き着く。


結局は、生まれた国や、生活する地域や、所属する組織に縛られず、個人としてどう行動するかを考えるしかないと思うのだ。

その点で、もっとも怖いのは「考えなくなる」ということ。「寄らば大樹の陰」「長いものにまかれろ」をテーゼに生きる人が増えることは、目先の単純な答に隷属する人が増えるということだ。それは意味のない分断を生み、拡大させてしまうだろう。


日々、違和感を感じた出来事をただ表層的に眺めるのではなく、その違和感の元になった出来事に目を向けて「自分はこう思う」と考えてみることからはじめてはどうだろう。それに対して、異なる意見も出てくるだろう。その時、そこでやめずに、議論をしてみることだ。相互の理解を得るにはそのような地道なやりとりしかない。