モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

新聞が生き残るためには

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確かに「エモい」新聞記事が主役になるのはどうかと思う。しかし一方で、誰もが「エビデンス」を求めている、というのも少し違うと思う。入手がそれほど困難ではないエビデンスなら、それこそネットで調べた方が早いし、一次ソースから入手したほうが、量も質もより優れている場合もあるからだ。

新聞というメディアの価値は何なのか。僕は、普通の人々には簡単には手に入らない情報を入手する能力を持っていることだと思う(少なくとも以前の新聞はそうだった)。

新聞が生き残るためには、その「調査能力」を見直し、さらに強化し、その能力を人々に「見せつける」記事を書くことだと言いたい。必要なら時の権力にも対峙し、真実に一歩でも近づこうとする勇気と気概を持った、人々の未来のために戦う「先兵」の姿をみせることだ。

そんな、優れたジャーナリズムとしての調査能力こそが、一般の人々はもちろん、ネットに乱立する新興メディアにも、政府の下で運営される公的機関にもできないことであり、さまざまな「メディア」が登場する中で、それしか残らないのではないだろうか。(その文脈で付け加えるなら、記者クラブのような、特権的で閉鎖的な空間を作って他の新興メディアと安易に差別化しようとするのは、真実を追い求める姿とは真逆の、権力の傘を借りた情けない太鼓持ちに映るだけだ)

人々が望んているのは、大多数の普通の人々のために、あるいは人類の未来のために、真剣に戦ってくれる新聞の姿だ。それは、様々な理由で今は埋もれた、あるいは、抑圧された「声なき声」かもしれない。しかし、その声がわからない新聞なら、なくなっても仕方がないと思う。