モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

円谷プロが教えてくれたこと

togetter.com


少し前、ウルトラQウルトラマンウルトラセブンのブルーレイ・ボックスセットを買った。それくらい、「大の大人」になった今でも、円谷の作品が好きだ。

でもそれは、単なるノスタルジーではない。作品そのものというより、作品を作った人たちに関心があるのだ。その気持は歳を重ねるほど強くなっている。

監督、脚本、撮影、特撮技術…。テレビの発展期とも重なり、あらゆるものが前例のない挑戦だった中、「たかが子ども番組」を作ることに真剣に向き合っていた大人たちに「仕事」という人間にとってとても重要な活動の意義や意味を感じる。

それは、現代の仕事の閉塞感や失望感の裏返しである。当時より今のほうが、はるかに時間とお金にしばられるようになっている。本来の仕事の意義や楽しさは少しずつ奪われてきたため、ほとんどの人は「仕事とはそんなものだ」と思わされている。今、仕事を心から楽しく思い、仕事を通じて自分自身の存在意義を感じられる人が、いったいどれくらいいるだろうか。


今、現実のさまざまな制約の下で、円谷プロのような働き方をするのは難しい。でも、法律も経済も、ひとりひとりの人間が幸せになるためにあるものだ。人間にとってもっと大事なことがあるなら、それをどうすれば実現できるかを考えることが一番大事な仕事ではないだろうか。


どんなことであれ、何かに真剣に仕事に向き合った後は、何ともいい気分になるものだ。それを蝕む「怪獣」と戦う大人でありたい。

小さいことはいいことだ

今、永江朗氏の「小さな出版社のつくり方」を読んでいる。出版不況と言われる中、規模は小さいが個性的なアプローチで新しい「出版」を実現しようとしている小さな出版社を取材したものだ。

この本を読み始めたのは、最近聞いているポッドキャスト「好書好日」に永江氏がゲストで出ていて、この本を題材にしたトークが興味深かったことが直接の理由だ。もともと、小さな企業がそれぞれ違ったやり方で事業を営む社会を理想としている自分なので、「小さな」というところに強くひかれた。それに、「出版社」という業態には、以前から憧れに似た気持ちをもっていた。出版社はお金や設備よりも、働く人のセンスで勝負しているように思えることと、少し大袈裟に言うと、世の中に「知」を広げる仕事をしていると漠然と感じていたからだ。

期待を裏切らない内容だった。この本に登場する小さな出版社を営む多くの人に共通するのは、「自分たちの作りたいものを作りたい」という純粋な思いだ。そのためにあえて「小さい出版社」を選んだのだ。お金のためなら、小さな出版社は選ばないだろう。それよりも書籍を通じて、自分に正直に生きたい、みんなに喜んでもらいたいという思いは、「起業」での最も大事なことだと思う。


小さいことはいいことだ。すぐに意思決定し、すぐに動ける。何でもやらなければいけないが、それだけ多面的に考え手を打てる。組織の中の他の人のことを考えずにすむ。

これらはすべて、世の中を変えるために必要なことだ。逆に言えば、世の中を変えられるのは、小さな企業なのだ。

「起業家」という言葉への違和感

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ずっと違和感がある言葉のひとつに「起業家」というのがある。


僕はずっと、世の中の人々の多くが「フリーエージェント」=個人で仕事をする人たち、になることを夢見ているから、本来「起業」については肯定的ははずだ。でも、「起業家」という言葉は、僕の思うフリーエージェントとは違う文脈で使われる。その言葉は、「起業家」自身から出る言葉ではなく、周囲がそう名付けたものにしか思えない。もっと言えば、一儲けしようと目論んでいる投資家や、税金を投入することの正当性と証明したい行政・公的機関の視点から生まれた言葉に思えてしまうのだ。


「起業家」とはいったい何なのだろう。起業した人、なら「起業した人」で言えばいいではないか。起業を何度もやっている「起業のプロ」を「起業家」と呼ぶのだろうか?もしそうなら、そんな「起業家」は信用されないだろう。つまりは「起業家」は起業する側の人にとってほとんど意味のない肩書なのだ(投資家を騙すこと以外では)。


そんな言葉を使わなくたって、世の中には起業している人たちはたくさんいる。僕のまわりでも、飲食店、カメラマン、一人出版社、デザイナー、翻訳家など、個人で事業を営んでいる人たちは多い。そういう小さな事業者はこれまでもいたし、これからもいるだろう。

でもそんな人たちは「起業家」とは呼ばれない。なぜなら、彼ら・彼女らは将来株式を上場する計画をもっていないし、行政から補助金をもらってもいないからだ。自分の個性や特技に従って身の丈にあった事業を営んでいる、まともな人たちは「起業家」とは呼ばれないようだ。(そう自分で書いてみると、「起業家」という言葉がますます怪しげに思えてきた。)



「起業家」などというキラキラした言葉を使わずに、「自営業」、せいぜい「フリーランス」でいいではないか。(僕はそういう人たちを総称する「フリーエージェント」という言葉を好むが、日本ではあまり定着していないようだ)


わざわざ「起業家」などという言葉を使わなくてもいい、それぞれが「みんな違ってみんないい」事業を営み、そうした人たちがフラットにつながる世界が早く来てほしいと願う。

市民にとって戦争には「負け」しかない

ウクライナとロシアの軍事衝突が始まって1ヶ月以上がたった。この出来事を「侵攻」というべきか「侵略」というべきか、あるいは「戦争」というべきか、などという言葉の問題はどうでもいい。とにかく、メディアは日々変わりゆくウクライナの状況を、ほぼリアルタイムで伝え続けている。あきらかにウクライナ寄り(=西欧寄り)の視点を持つ日本のメディアが伝えるのは、プーチンがしかけた侵攻がいかに不正であるかということ、一方でウクライナの民間兵士が予想以上に「善戦」していること、その結果ロシア軍は一部で撤退を余儀なくされていること、しかし、市街では子どもたちを含む市民が犠牲になっていること、などだ。


そういう報道を見聞きしながら、心はずっと落ち着かないままだ。その理由のひとつは「戦争の犠牲になるのは市民である」という事実を、報道を通じて目の当たりにしなければならない悲しさから来ている。そしてもうひとつの理由は、メディアが何を伝え、何を伝えていなのかは、報道を見ているだけではけっしてわからない、という不信感なのだ。


この1ヶ月、多くの人々がまるで国家元首になったかのように、この軍事衝突(侵略でも戦争でもいい)の原因や行方について論じている。政治家や安全保障の専門家だけでなく、著名人やタレント、そして一般の人々までもがSNSを通じて、ウクライナの状況を題材にしてそれぞれの「政治論」「安全保障論」を語っている。


それぞれの人が自分の考えを表明するのは自由だし、ある面では歓迎されるべきことだろう。しかし、その意見は「事実」を根拠にしている、という確信を持てる人はどれくらいいるのだろう。「報道されているから」というのはまったく理由にならない。それは、ただメディアが流す「情報の波」に大きく流されながら、ほんの少し左右に泳いでいるくらいの小さな小さな「独自意見」でしかない。そんな考えを「事実に即した客観的な分析だ」と思っているとしたら、あまりにナイーブである。


メディアを通じたあらゆる情報にはフィルターがかかっている。権力からの圧力であれ、権力への忖度であれ、特定のグループの主義主張であれ、あるいは、伝達者の経験・知識の不足、不注意であれ、意図的かどうかは関係なく、あらゆる情報は
「汚染」されているのだ。そんなメディアが伝えていることを鵜呑みにするのは危険すぎる。

とりわけ、遠い場所で起きている戦争は、フィルタリング=「汚染」の絶好の対象である。情報の受け手が疑わしいと感じた情報でも、メディアを通じずに自分自身で確かめることは極めて困難だからだ。特定の人(権力者やメディア)が、伝える情報に堂々とフィルターをかけることができる戦争は、権力者にとっては最高の武器なのだ。逆に言えば、一般市民にとっては対処できない最悪の攻撃となりうる。


そんなことは言われなくてもわかっている、と言う人も少なからずいるだろう。しかし、そのような汚染された情報の中にいったん身をおいてしまえば、もはや真実を確かめる術はなくなってしまう。何も確かめられない環境で、客観的・論理的な思考を作ることはできない。情報をコントロールされた状況に入り込んでしまった瞬間に「負け」なのだ。



これまでの歴史を見れば、たとえ国家は戦争に勝ったとしても、その勝利の過程で犠牲になった市民やその家族・知人に本当の勝利はない。幸運にも人命はつなぎとめられたとしても、家や土地、自身の職場を失うかもしれない。歴史の本には「戦争に勝利した」という1行が書かれていても、その国の大多数の人は勝利を実感できなかっただろう。たとえば歴史の教科書には「日露戦争で日本は勝利した」と書かれているが、当時の日本の権力者は国家の歳入の半分近くをこの戦争に投じ、国民の多くに苦しい生活を強いながら、かろうじて勝ったにすぎない。そんな当時の人々の苦しみは、メディアによる勝利礼賛の言葉によって封じ込められ、歴史の教科書に書かれることもない。


戦争が始まれば、市民にとって勝利はない。市民の勝利は「戦争を始めないこと」「戦争に巻き込まれないこと」しかないのだ。武力による安全保障など幻想である。対話と外交、協力と貢献、その他のあらゆる非武力的手段を総動員して、なんとかして戦争という最悪のイベントを起こさせないことに、市民は全力を投じることしかないのだ。

この唯一の真実を、今回のウクライナでの出来事が人々に気づかせてくれることを願う。

「プライスレスな価値」を守ること

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以前、あるクレジットカード会社が、「プライスレス」をキーワードにしたテレビコマーシャルをやっていた。蛇足だと思うが、「プライスレス」というのは、もちろん「無料」という意味ではない。「値段がつけられない(ような価値)」という意味だ。


クレジットカード会社が「プライスレス」を訴えるというのは、皮肉なことだと思ったが、CMとしては成功だ。なぜなら、このCMは『お金で買えない価値がある。買えるものはこのカードで』というメッセージを前面に打ち出すことで、視聴者(すなわち消費者)に、クレジットカードがあればプライスレスな価値に近づけるのだ、と錯覚させたからだ。


この逆説的なCMは、世の中にある「プライスレスな価値」に気づかせてくれるどころか、さらに多くのものにプライスを付けることに貢献したのではないかと思う。


このCMは、この数十年の「資本主義の静かな拡大」を示す、象徴ではないだろうか。

たとえば、10年前、20年前、お金(それが現金であろうがクレジットカードであろうが)では買えなかったものが、今はお金で買えるようになっている。以前は値段がついていなかったものに、今は「値札」がつけられ、すべて均一・一律の価格だったものが、いくつかのカテゴリーに分けられ、価格に差がつけられるようになった。

これらはすべて、資本主義が静かに拡大し、私たちの日々の暮らしを侵食した、その現れなのだ。

マルクスの「資本論」が商品の分析から始まるように、資本主義のメインプレーヤーは「商品」である。商品が増えることは、資本主義がそのテリトリーを広げるための、すなわち、資本が自己増殖するための重要な条件だ。商品とは値札=プライスが付けられ、価値の交換に利用されるものである。資本主義が拡大するほど「プライスレス」だったものにプライスがつけられ商品化される。「プライスレス」なものが減少することは、商品化の拡大を意味し、資本主義の増殖の現れなのである。


資本主義が人々の向上心を刺激し、社会の発展に貢献した面があることは間違いない。しかし、それが行き過ぎると、格差や不平等、貧困を加速する。それはおそらく正しいと思う。


今、いったん立ち止まって、本当の「プライスレスな価値」に目を向ける時期が来ているのではないだろうか。プライスレスなものを守り、「非商品」の居場所を再び拡大させるために、何をすればいいのかを考える時ではないだろうか。

見える世界で思考は変わる

「他の人に見えている色は、自分が見ている色と同じなのだろうか?」そんな疑問を、誰しも一度は持ったことがありますよね。

仕事で映像に関わるようになって、たまに「この人は絶対自分と違う色を見ている」と思うことがあります。「ここ赤みが強すぎない?」とか「ここ色がチラついてるよね」とか言われて、「え?どこ?」となることがあったり。

老眼が進んだ自分には今や平均以下の視力しかありませんが、それだけではなくて、おそらく自分が若かった頃でもそれは見分けられなかったのではないか、と思うんですね。

違う世界が見えているのだから、違う思考になるのは当然かもしれません。「話せば分かる」という希望は捨てませんが、越えられない壁もあるのだと思います。




courrier.jp

上に立つ者には徳がなければいけない:論語と算盤

honto.jp


聴いて思うのは、人の考えることも人の問題も、百年前も今も同じだな、ということ。つまり、今でも示唆に飛んだ本。官でも民でも、上に立つ者には徳がなければいけない、とますます思う。明治の時代は、たとえば実況界のトップに渋沢のような人がいたから、大きく発展したのだろう。

断片的に眺めた程度だった論語を、一度、しっかりと読んでみたいと思った。近くに論語を教えてくれる先生がおられないだろうか。