モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

あたらしいものは思いがけず生まれる〜井上ひさし「小説と芝居について」

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昭和の庶民の文学者の代表格、井上ひさしさんの講演。1988年、昭和最後の年に行われたものだ。


第一印象。井上ひさしさんの話は、まるで即興の芝居のようだ。鋭い観察眼から得られた小さな発見や、博学に裏付けられた雑学に、あたらしいアイデアや物語がどんどん組み合わされて、いつの間にかエンターテイメント作品が生まれていく。フィクションとノンフィクションが入り混じって、話は予想外の方向にどんどん発展し、これまでにない物語が創られる。その創作課程をライブで聴きながら、聴衆はいつの間にか引き込まる。そんな風に思うのだ。


たとえば、芝居のすばらしさを伝えるため、井上さんは架空の公演を作りだす。主役は舞台の上の役者ではなく、様々な理由で芝居を見に来た観客たちだ。

ある芝居小屋でシェイクスピアマクベスが上演されることになった。客席のとある列には、お互いを知らない、何名かの人々がたまたま居合わせて座っている。一番端は、好きな女性に「自分が好きだったら芝居に来てほしい」とチケットを渡し、その彼女が隣の席に来るかどうかをドキドキしながら待っている青年。その隣は、来るか来ないかわからない彼女のための席。その次は、シェイクスピアの芝居を暗記できるほど読んで、セリフを暗記するくらい研究してきた大学の教授。今日の芝居はどうかね、と高所から見物している。その隣は芝居に殆ど来たことがないおばあさん。息子夫婦に邪魔者扱いされ、追い出されるようにチケットを渡され、演目のこともシェイクスピアのことも何もしらずにやってきた。主役を演じる江守徹の大ファンのサラリーマン。事業がうまくいかず、借金取りから身を隠すように逃れてきた経営者。その経営者は、青年の彼女がキャンセルしたチケットを買って、青年の隣に座る…。


それぞれ違う理由で芝居にやってきて、それぞれ別なことを考えていた客たちが、素晴らしい芝居に引き込まれ、芝居からなにかを与えられて、心がつながっていく。芝居が終わり、それぞれはまた別の場所に戻っていくが、それぞれの顔は芝居の前とは変わっていて、芝居の前にはなかった心のつながりができている。


井上さんの細やかでユーモアにあふれた人物描写は、まさに名人芸で、僕にはとても書き表すことはできないが、とにかく奇想天外な発想と細やかな観察に引き込まれてしまう。それぞれの人物の性格や容姿が頭の中に浮かんできて、こういう人いるよな、と思ったり、冗談のようだけど、それってけっこう人生の真髄だな、考えたり。それぞれの「登場人物」が芝居にやってきた背景を聴くだけで、もう物語にどっぷりと使ってしまった自分に気がつく。それは、絵画に例えるなら、まっしろなキャンバスにさまざまな色の絵の具が、さまざまなタッチで塗られていき、だんだんと絵の形が見えてくる。そんなプロセスに立ちっているかのような臨場感がある。井上さんの講演の録音を聴きながら、講演会場がだんたん一体になっていく様子を感じている。



博学の井上さんは、小説や芝居に関する、ちょっとした知識も教えてくれる。英国で小説が普及するきっかけとなった「パミラ」は、英国の印刷工、リチャードソンが書いたものだそうだ。当時、貴族の文化だった「手紙」が庶民にもひろまった。いわゆる郵便制度ができたのだ。自分の文字を書いた紙を集配人が集めて遠くにいる人に届けてくれる、というのは画期的なイノベーションで、多くの庶民が手紙を書き始めた。しかし、庶民は手紙の書き方がわからない。そこで、手紙の書き方についての本が当時ベストセラーだったそうだ。リチャードソンも手紙の書き方の本を書こうと思うが、すでにたくさんの本があって、よほど工夫しないと売れそうにない。そこで考えついたのが「物語」だった。田舎に住むある若い女性(その名前がパミラ)が、都会の貴族の家に女中として住み込む。そこで起きたことを、田舎の両親に手紙で伝える、という形で、物語を楽しみながら手紙の書き方を伝えようと考えたのだ。


パミラは、同じ貴族の家で働く若い青年と恋に落ちるが、家の主もまたパミラを見初め、なんとか手に入れようとする。パミラは日々の出来ごとを両親に伝えるという形で、手紙の書き方を伝えるのだが、この本を読んだ庶民は、手紙の書き方はそっちのけで、物語に熱中する。パミラは主の毒牙にかかってしまうのか、青年とめでたく結ばれるのか、パミラの恋の行方に庶民は没頭してしまったのだ(ちなみに、最後にはパミラはめでたく青年と結ばれ、その結婚式に両親を招待する手紙で、この「小説」は終わるそうだ)。


こうしてできた「小説」は、以後、英国中、さらに世界中の人々を魅了するのだが、そのはじまりは、けっして「小説というものを作ろう」として作られたのではないことがわかる。それは、他のあらゆる発明や発見をみても同じなのかもしれない。しかし、なにかが生まれる時には、作っている人も、それを評価する人も、最初にはっきりとしたフレームワークがあるのではないから、あたらしいものを作っているという意識もないだろう。これまで世の中になかったものが生まれるののだから、当たり前といえば当たり前だが、なかなか意識しにくい真実だ。



人間の知恵というのは、必ずしも目的があるわけではない。むしろ、目先の目的がないからこそ、より広く大きなヒントを与えてくれる本当の知恵になるのかもしれない。今年の会社の利益や、職場の人間関係といった、今、目先にあることに悩むのは人間の本能でもある。しかし、そういった眼前の問題を解決することだけにとらわれると、目の前の苦しみを解決するだけの人生になってしまう。そこで、ちょっとその場を離れて、少し違う視点、もっと広い視点から自分と自分がおかれた環境を見ることができればば、より素晴らしい解決策が見つかるだろう。自分の視点が変われば、それまで「問題」だと思っていたことは問題ではなくなり、探していた「解決策」も意味はなくなる。そういう意味で目先のことを忘れられたら、それはすばらしいことだろう。漱石の「則天去私」にも通ずる考え方なのかもしれない。



井上さんは講演の最後の方に、ニューヨーク公立図書館の話を付け加える。ニューヨーク市は、建替えで不要になったグリニッジビレッジにある古い図書館の建物を、ある若い演出家に貸し出すことにした(その若い演出家は、後に大プロデューサーとなるジョセフ・タップ)。貸出料は年1ドル。事実上、無料のようなものだ。しかも自由につかっていい、という条件で(というか、そういうのは条件がないというべきか)。演出家はそこにシアターを3つ作り、そこに役者や音楽家、アーティストが集まり、芝居やコンサートが開かれる。そこに市民や観光客が集まり、あたらしい文化の拠点となっていく。好評を博した芝居はブロードウェイで公演された。その一つが、あの「コーラスライン」だ。「コーラスライン」はブロードウェイでロングラン公演され、ニューヨーク以外の人どころか、世界中の人々が観にやってきた。ニューヨーク市は、観光客がホテルに滞在すると2ドルの税金を取る。その人たちが払った税金だけでも、ニューヨーク市の行政は、図書館を年1ドルで貸し出した投資のもとを取り返し、さらには市の財政の収入源を創り出した。元図書館には俳優養成所も作られ、そこから、ダスティン・ホフマンロバート・デニーロメリル・ストリープなど、やがて映画界を牽引する大スターが生まれた。


文化や芸術というものは、目先の利益につながることは少ない。お金に結びつけようとすると、ホンモノの文化や芸術ではなくなる、ということもできる。しかし、文化や芸術に価値がないわけではない。それらは、人間の奥深いところに届き、人々の集まりである社会を少しずつ変えていき、世代を超えて受け継がれる。これもまた、人類の偉大な進化の道筋ではないだろうか。芸術や文化を疎かにする社会は、いずれ滅びてしまう。



井上ひさしさんの語りは、肩の力を抜いてくれるユーモアの中に、もっと視点や発想を広げて、柔らかく発想してはいかが?そうすれば、あたらしいものは自然に生まれるかもしれませんよ、という声が聞こえてくる。奇想天外で滑稽な話に笑いながら、いつの間にか芸術や文化について考えさせてくれた井上ひさしさんは、すばらしい現代の語り部だ。

「中国近代史を読む」浅田次郎

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今朝、「オーディブル通勤」で聴いたのが、浅田次郎さんの「中国近代史を読む」という講演。文藝春秋の文化講演会シリーズのひとつで、1998年の録音だ。タイトルはやや堅苦しいが、浅田さんの明るい語りで、肩肘張らずに聴くことができる。


「受験科目ではない」という理由で歴史をおろそかにしていた僕は、大人になるにつれて「歴史を学んでおくべきだった」と後悔し、その思いは歳を取るごとに強くなってきた。後悔するなら歴史の本を読めばいいじゃないか、と言われれば、そのとおり。でも、ほとんど基礎知識がないと、どこからどうやって歴史を知ればいいのかもわからないのだ。雪玉づくりでいうと、最初に作るおにぎりのような芯がないから、転がしようがないのだ。だから大きくならない。


そういう僕には、講演会で歴史を学べるのはとてもありがたい。今回の浅田さんの講演も、知らないことばかりで、たくさんの刺激を受けた。


浅田さんは、アヘン戦争のことを「史上最低の戦争」だという。歴史に疎い僕でも、英国が中国にアヘンを売りつけて、中国人をぼろぼろにした、ということは知っていたが、浅田さんの話を聴くと、まったく大義名分も正義もない戦争なのだとよくわかる。

1800年代の清朝はとても豊かな国だった。食べ物はもちろんのこと、絹や工芸品なども世界最高峰で、他の国に頼る必要もなかった。そんな清朝と貿易をしたかったのが英国。当時、インドから持ち込んだ紅茶が国中に広まり、さらに多くの、品質のいい紅茶を清に求めた。しかし、清は豊かな国だから、英国には交換するものがない。紅茶を買うために銀が流出するのをさけるため、英国が売り込んだのが、アヘンだった。

アヘンは強力な麻薬だ。あっという間に中国に広まり、清の人々を蝕んでいった。それに業を煮やした清朝政府は、英国から持ち込まれたアヘンの引き渡しを要求したが、英国が受け入れないため、貿易を停止し、持ち込まれたアヘンを強制的に廃棄した。そのことを理由に英国がしかけたのが、アヘン戦争だ。


あきらかに、正義は清朝にある。英国のやったことは、犯罪と言いがかりでしかない。清はそれに正々堂々と抗しただけだ。しかし英国は、その後のアロー号事件(これもまた英国の言いがかりで起きた事件である)などを「理由」に、徐々に清朝を侵略し、ついには滅亡させてしまう。


歴史は、その歴史を残そうと考えた者に都合よく脚色されるものだ。場合によっては、勝利者に都合のいい、事実とはまったく正反対のことも書かれるだろう。しかし、たとえ「西洋側」にいたとしても、アヘン戦争に始まる英国の侵略戦争は、許しがたいものだ。そんな歴史を知ると、今の中国が西欧に反発することもよく理解できる。中国は西欧に貶められたのだ。過去と同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。そんな気持ちはよくわかる。


浅田さんが教えてくれるのは、ひとつの書物に書かれた「史実」をすべて「事実」だと思ってはいけない、ということ。真実を知りたければ、できるだけ多面的に、総合的に、注意深く出来ごとを見る必要がある。有名なアヘン戦争の経緯はすでに多くの人が知るところだが、他の紛争や侵略はどうなのだろうか。ニュースや「知識人」が伝えていることは真実なのか?少なくとも、巷で知られていることを鵜呑みにせず、少し天の邪鬼になるくらいに疑ってみることも必要だろう。



そんなことを、一時間ほどの楽しい講演で、考えさせてくれるのは、さすが「泣きと笑い」(と、自分で述べている)の浅田さんだ。浅田さんの語りには熱がある。中国への深い愛がある。悪く言われている友人に、こいつは根っから悪いやつではないんだ、こいつの行動にはちゃんと訳があるんだ、と、親友を思い、代弁しているように聞こえるのだ。

「勝手気まま」を取り戻せ!

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京都精華大学・サコ学長のオピニオン。全面的に同意する。


人間って本来、何も束縛がなければ、勝手気ままに行動する「個性的」な存在のはず。しかし、みんながバラバラだと社会がうまくいかないから、共通の知識やルールを学ぶ場所として学校があると思う。極端な言い方をすれば、人間が共同作業できるように「矯正」するのが学校の役目だと思う。

だから、学校に過大な自由や個性尊重を望むのは、そもそもおかしいと思う。今、人々に自由や個性がなくなっていると思うのなら、学校以外の別な場所を作るべきではないだろうか。というか、そういう場所はすでにたくさんあって、それにもう少し目を向ければいいのではないだろうか。



同じ文脈で、営利を目的とする企業に雇用されながら、過大な自由を要求することにも違和感がある。奴隷制度の時代や、明確な身分差別があった時代ならともかく、一応(と言っておくが)、民主主義が浸透し、過去に比べればはるかに自由や権利が保障された今、企業の本来の存在目的ー多数の力を結集して大きな事業を成し遂げるーことを忘れて、一方ではその恩恵に預かりながら、他方ではさらなる自由を求めるのは矛盾している。もしその契約が不公平・不公正だと感じるなら、その組織に参加しなければいいのだ。その自由は誰にも侵されることはない。

もちろん、もし、属している組織を辞める自由さえ与えられていないなら、それはまさに奴隷社会である。そういう社会なら、労働者の自由を最優先で主張し、獲得しなければならない。しかし、今の日本は違う。そう言うと、いや、表面上は選択の自由があっても、実際は経済的な不利益から組織を離れられないのだ、という反論があるだろう。その現状は理解する。組織を辞められない最大の理由は、生きる糧がなくなることだろう。そして、その点こそ、今、変えなければならないことなのだ。


働き方改革」を本気で実現しようと考えるのなら、現在の雇用制度を維持しながら、残業規制や単身赴任の廃止といった「微修正」でごまかすのでは意味がない。雇用という労働形態そのものを根本から考え直す必要があると思う。ほとんどの人が、社会人になることを、どこかの組織に雇用されること、と考えている。しかし、雇用は個人の自由を奪うことなのだ、という理解はどれくらいあるのだろうか。

本来、個人は自分の意志で働き方を選択できなければならないはずだ。その自由を一部制限して、組織に協力する。それが雇用だ。つまり、個人の自由を維持するためには、組織を離れても生きていける環境が必要になる。その前提は、個人が経済的に自立していることだ。そのような「雇用されない働き方」をどう実現するか。そのことを、社会や文化まで踏み込んで議論しなければならない時期に来ていると思う。


企業の視点に立ってみれば、被雇用者、すなわち、働き手をコントロールできなくなることは、恐ろしく感じるだろう。実際、それは短期的にはマイナスに働くかもしれない。しかし、雇用から解き放たれ、自由を得た人々は、さまざまな束縛を離れて、より広く、深く刺激しあうようになる。そうして、それぞれの持つ能力を開花させる。そういう人たちがもう一度集まってグループを作るのだ。それは現在の企業とは異なった形態になるだろう。そして、現在の企業や官僚組織とは比べ物にならないくらい大きな価値を生みだすだろう。それが本当の「生産性の向上」なのだと思う。



「勝手気まま」は、けっして社会の崩壊につながるものではない。むしろ、日本のように行き詰まった社会を救済する、唯一の「施策」ではないだろうか。学校や企業は必要である。間違いなく社会に有益なものだ。しかし、行き過ぎた学校依存、会社依存は害悪になる。今は、個人個人が、いかに「勝手気まま」に生きるかを考え、実践する時期ではないだろうか。もちろん、「勝手気まま」は人から言われてすることではないから、とても矛盾した意見であることは認めるのであるが。

音楽が街を創り、街が音楽を育てる:「渋谷音楽図鑑」

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「渋谷音楽図鑑」を一気に読んだ。期待以上に面白い本だった。


著者のひとりで、この本の首謀者?である牧村憲一氏は、渋谷を拠点に、50年以上にわたって音楽業界に携わってきた人である。牧村氏自ら目撃してきた、渋谷の音楽カルチャーの変遷は、その頃にタイムトリップして傍観しているようなリアリティがある。ここに書かれた渋谷カルチャーの歴史は、日本の音楽カルチャーの歴史ともいえる。


この本の主題は「渋谷の音楽」であるが、けっして音楽だけの本ではない。渋谷という街に関わる、3つの歴史を知ることができる、「一冊で三度美味しい」本なのだ。



ひとつ目は、「渋谷音楽図鑑」というタイトルが示すとおり、渋谷を拠点とした音楽の歴史だ。

60年代から70年代にかけて、渋谷に音楽文化をもたらした小室等はっぴいえんど、すぐその後に続く、吉田拓郎かぐや姫荒井由実。80年代に洗練された「都市型ミュージック」を発展させたYMO山下達郎大貫妙子。2000年代に「渋谷系」と呼ばれる音楽を確立した、フリッパーズギター。どの世代も、たとえ音楽に没頭するほどのファンではなくても、必ず一度は渋谷発の音楽に感化されたことがあるはずだ。

あらゆる文化の担い手は、人である。優れた才能を持った人がいなければ、文化は生まれない。あたらしい音楽を創り出す天才が現れ、彼ら・彼女らが陽の光を浴びると、そのまわりにいる「いぶし銀」のようなプロフェッショナルたちにもまた光があたる。そうして、より広く、深い音楽カルチャーが醸成されていく。どんな天才であっても、一人だけで、多数の人々に影響を与える文化は作ることはできない。さまざまな人たちの力を集まることが不可欠なのだ。人々のつながりは見えない力をもたらし、そこに化学反応をひき起こす。そうした一連の現象が、渋谷のカルチャーとして定着していく。



この本のふたつ目の主題は、渋谷という街の歴史だ。音楽というカルチャーに、デザインやファッション、商業や広告といった、より広いカルチャーが結合し、それが渋谷という街を作っていった。

東京のはずれにある、坂だらけの辺鄙な町だった「シブタニ」は、64年の東京オリンピックを契機に大きな変貌を遂げる。東急と西武というライバルがそろって渋谷に商業施設を作り、若者の「文化」の拠点を目指した。中核商業施設につながる坂道の途中に、ライブハウスやレコード店など、感度の高い若者に向けた店が生まれ、さらに意識の高い若者をひきつける。そのような街の変遷は、文化を中心とした街づくりの重要な歴史でもある。



みっつ目は、より一般的に、あたらしいものが生まれる過程の貴重な記録である。それは、人と場の相互作用とも言えるもので、音楽だけでなく、他のあらゆる芸術・文化、学問や科学技術の発展に共通する、とても重要な要素だと思う。なにか新しいものが生まれる場所には必ず、人のつながり、人を支える場、そして、それらを時間的、空間的に包み込む、たえず変化しながら不変な本質を持つ、大きな存在があるのではないだろうか。それは、人と街の間にある「空気」のようなものかもしれない。


この本は、音楽ファンだけでなく、あたらしいことにチャレンジしているすべての人に貴重なヒントを与えてくれるだろう。そして、「渋谷音楽図鑑」がそのような貴重な本になっているのは、50年以上に渡る渋谷文化の歴史を詳細に記録し、文章にしてくれているからだ。断片的ではあるが、まるでその場に居合わせたかのように感じる具体的で詳細な描写は、後の世代を生きる人々にとって知恵の源になる。

自らの体験を語り部として後世に残す、ということもまた、文化の形成にとってとても重要なことだと、牧村氏は考えているのだろう。それは、渋谷の音楽文化を育て、逆にそれに育てられた牧村氏だからこそできることなのだ。

ユーモアの中の矜持:「私の歩いてきた道」逸見政孝

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毎日、続けている「オーディブル通勤」。朝夕の徒歩通勤が、これまで知らなかったこと、あらためて考え直すことであふれる、充実した時間になっている。とは言うものの、いくら素晴らしい講演でも、毎日だとこちらの集中力が切れて、すべてを吸収できなくなってしまう。そこで、たまには「息抜き」できる楽しい講演も聴いた方がよいだろう。そんな不遜な思いから選んだのが、逸見政孝さんのこの講演だ。気楽に聞き始めてみると、「息抜き」どころか、さらに集中して聞かざるを得ない、学ぶことの多い講演だった。逸見さん自身の実体験、そして、そこから逸見さんが考えたこと、思ったことが、ストレートに語られる。逸見さんの話に自然と引き込まれ、心の深い場所に届く、とても熱い講演だ。


暴力団の抗争による殺人事件を、ニュースで伝えた時のエピソード。放送中の空いた時間を埋めるため、逸見さんはアドリブで暴力団に批判的なコメントをした。その後すぐ、暴力団関係者からテレビ局に、放送をやめろ、逸見に謝らせろ、という脅迫の電話がかかってきた。もちろん、報道局も逸見さんも、そんな圧力に屈することはできない。内部の人々を説得し、その次の日に予定していた続編も無事流すことができた。しかし、その後しばらく、逸見さんは駅のプラットフォームの端を一人で歩けなかったという。もし誰かに線路に突き落とされたら一巻の終わりだ。そんな恐怖の中、それでもジャーナリストとして正しいと思うことを、正面から語ったのだ。


そんな出来ごとを紹介し、表現の自由を守るために、テレビの裏側では様々なことが起きていることを知ってほしい、と逸見さんはいう。おそらく日々の9割はつらいことだと。だから、報道の前線に立つ人たちを守るしくみも必要だと訴える。なるほど、たしかに、ただジャーナリストに「戦え」というだけでは、市民の側も身勝手だ。彼らに全力をあげて戦ってもらうためには、その安全を守ることも必要だ(それでも、戦わないジャーナリストは批判しなければならないが)。


熊本の太陽デパートの火災。若き日の逸見さんは、現場で初めて死体を見る。焼け焦げて炭化した死体や、窒息で青ざめた死体が並んでいる。そのまわりには、死体を見つめ、うなだれる遺族の人たち。この時、逸見さんは遺族にマイクを向けることができなかった。ただ自分が現場に行って伝えただけで十分ではないか。それが逸見さんが現場を見て、人間として思ったことだった。その経験から、報道は人々の人生のどこまで踏み込んでいいのかを考えるようになった。


逸見さんがアナウンサーになろうと思ったのは、ある種の「復讐心」からだという。現役生として大学受験に失敗した逸見さんは、当時つきあっていた彼女に振られてしまう。今、思えば、もしそのまま交際を続ければ、二浪、三浪してしまうかもしれない、という思いやりだったのかもしれない、と逸見さんはいう。しかし、当時は落ち込み、憤り、ぜったいに彼女を見返そうと思ったのだそうだ。そして、有名になれば、彼女は必ず、逸見さんをふって間違っていたと思うだろうと。俳優やミュージシャンは無理だが、アナウンサーならなれるかもしれない。アナウンサーになろう、と決意する。


そこから逸見さんの、「アナウンサーになるためだけ」の生活が始まる。アナウンサーがもっとも多く出ている大学が早稲田だったと知った逸見さんは、早稲田の中で一番入りやすい第一文学部演劇科を受験し、無事合格する。大学の4年間は、すべての時間をアナウンサーになるために捧げた。地元大阪のイントネーションを直すため、下宿でラジオのニュースや他の番組を聴き、それをテープレコーダーに録音し、何度も聞きながら、発音辞典でイントネーションを確認する。街に出ると、東京出身と思われる人たちが話すのに聴き耳をたて、標準語の言葉を覚える。テレビのアルバイトもやった。そうして毎日、アナウンサーになるために努力をした。失恋のことはすっかり忘れてしまったいた。


その努力が実り、見事、アナウンサーとしてフジテレビに入社する。563人の男子志望者の中で入社できたのは3人だけだった(これでもその年は「広き門」だったそうだ)。


逸見さんの、余裕のある、少しおどけたスタイルの裏には、並々ならぬ努力があったのだ。アナウンサーとして有名になった後、逸見さんは、浪人の時通った予備校に講演を頼まれる。そこで、「失恋や浪人もいいもんですよ」と話したのだそうだ。


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1993年12月25日、2年近くの癌との闘病の末、逸見さんはこの世を去った。


この講演が行われたのは1989年。この逸見さんがフリーになって少したった頃で、おそらく心身ともにもっとも充実していた時期だろう。局アナ時代にできなかった、クイズ番組の司会やCMの出演、俳優としての活躍など、活躍の世界がどんどん広がり、これからさらに多くのことにチャレンジしたい、という夢が語られる。すでに亡くなっていることを知っているから、楽しく前向きな話だから、余計に寂しさを感じてしまう。


しかし、終始ユーモアのある語りの中で、逸 ジャーナリストとしての熱い思いや、人間として大事なことも、逸見さんはしっかり伝えている。30年後の今、この講演を聴いていると、それが、逸見さんが一番伝えたかったことじゃないか、と思えてくる。


逸見さんのようなアナウンサーが、テレビ界には今もいるのだろうか。いてほしいと思う。

あらゆるものごとは重層的である:「初夏の対談」遠藤周作

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「私は講演があまり上手ではありません」 つぶやくように話し始める、遠藤周作氏。登壇者とは思えない話しぶりは、謙遜というより「やる気の無さ」を感じてしまう。しかし、この「やる気の無さ感」は、人間のさまざまな面を見てきた小説家の巧妙な演出であり、この講演のテーマそのものなのだ。


ある目的で(その目的ときっかけは講演の中で語られている)、遠藤氏は、かつて富士山の麓にあるハンセン氏病棟を訪ねたことがあった。そこで20年働くベテラン看護師の案内で病棟の中を歩いていると、廊下の突き当りを一人の年取った男の人が歩いて横切った。入所しているハンセン氏病患者らしい。看護師さんはその老人に声を書け、彼の曲がった手を取って、「この手で包帯巻きを手伝ってくれるんです」と言いながら、その手を優しくなでた。この看護師さんは優しい人だ、と遠藤氏はとっさに思う。しかし、その老人の顔をみた遠藤氏は、そこに、看護師さんが気づいていない、苦痛の表情を読み取った。それは、外から来た見知らぬ男の前で、自分の弱い姿を見せなければならない苦しさだったのだろう、と遠藤氏はいう。


この出来事は遠藤氏に、あらゆるものごとはひとつの面だけでは評価できない、ということを気づかせる。看護師さんの行為は、愛に満ち溢れたすばらしいものだ。しかし、それが、本人が気づくことなく、相手に苦痛を与えていることもあるのだ。すばらしい愛情の中にも、相手の苦痛に気づかないような面がある。その理由はわからない。虚栄心や自己満足から出てくるのかもしれないが、それはわからない。ただ、人の顔はひとつではない。内面があり、外面があり、それらが何十にも重なったものが一人の人間の顔だ。遠藤氏は、そういうことに気がついた。



遠藤氏は子供の頃「後熟児」だっという。これは遠藤氏の造語で、「早熟児」の反対の意味だ。学校の勉強はできなかった。「早い」の反対は、と聞かれて「いやは」と答えるような子供だったそうだ。特に算数が苦手で、テストはいつも白紙で出していたという。それをみた秀才の兄が、白紙はいけない、何かかくように、というので、色々と考えて、次の試験では、問題の答に、「そうである」「まったくそうである」「僕もそう思う」と書いて出したそうだ。そして先生に殴られた。


そんな笑い話の後、遠藤氏は、もし今、自分が先生で、そんな答案を出した子がいたら、すくなくとも5点はやる、という。そういう解答を思いつくのも、ひとつの才能だろう、と。自分はその才能のおかげで、小説家になれたのだ。先生が殴ったのは、ものごとをひとつの面で考えるからにすぎない。すべてのプラスにはマイナスがあるし、どんなマイナスにもプラスがあるはずだ。それを引き出すのが親や教師の役目だ、と遠藤氏はいう。


こんなエピソードも語る。ある時、息子が口下手で、まわりの人と仲良くなれずに困っている、という母親が相談に来た。以前なら、おもしろい話をいくつか覚えてそれを話せばいい、というようなアドバイスをしただろう。しかし、ものごとには多面性がある、ということを悟った遠藤氏は、こうアドバイスしたという。口下手とうことは、聴くのは上手だということでしょう。おしゃべりな人は人の話を聞かないものだ。人の話を聴く人は人に好かれる。だから自分の得意な面を出して、周りの人の話をどんどん聴きなさい、と。しばらく後、母親から礼状が届いたという。


(講演は苦手だが、対談は上手いと遠藤氏は自己分析する。一般に、おしゃべりな人は対談は下手だという。たとえば大屋政子さんは、彼女が話して、遠藤氏が話して、また大屋さんが話し始める時、さっき自分が話したところから話し始める。つまり、彼女は遠藤氏の話をまってく聞いておらず、自分の話したいことを話しているだけで、これでは対談にならない)



「初夏の雑談」というタイトルも、話しぶりも、余談のシニカルなジョークも、聴衆にはやる気が無いように見せながら、聴き終わってみると、ひとつのテーマの下で1時間の講演を組み立て、しっかりとメッセージを伝えている。そんな遠藤周作さんの講演スタイルもまた、ものごとは一つの面からだけでは評価できない、ということを体現している。さすが一流の小説家だ。

音楽が生まれる場所 柳瀬博一のリベラルアーツ入門・牧村憲一

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以前書いたとおり、毎朝・毎夕の「オーディブル通勤」では、対談や講演が一番おもしろい。話し言葉なので聞き取りやすいし、だいたい1時間程度なので、情報の密度が濃いのだ。歩きながら脳を刺激するには、最高のコンテンツだ。


対談のお気に入りは、「柳瀬博一のリベラルアーツ入門」のシリーズだ。東工大リベラルアーツ学科の柳瀬さんが、さまざまな分野の第一線で活躍する人を招いて話を聴く。これまで、「教養」「サイエンスジャーナリズム」「アートxビジネス」「進化論」が公開されている。すべて聴いたが、どれもめちゃくちゃ面白い。聞き手である柳瀬さんの、知的だけれどくだけた感じに、ゲストもリラックスして本音で語っているように思える。僕も、これまで、サイエンスニュースの取材でたくさんの人にインタビューしてきたが、柳瀬さんの幅広い知識と聞き出す力には、とてもかなわない。すごいな、と思う。


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「名プロデューサーが語る『音楽と日本社会』」は、渋谷を拠点にして、音楽制作に長年携わってきた牧村憲一氏が、いわゆる「渋谷系」音楽の系譜を語ってくれる。はっぴいえんど南こうせつかぐや姫荒井由実YMO山下達郎大貫妙子高野寛フリッパーズ・ギターカジヒデキ、DAOKO…。牧村さんの語りは濃密で、よく知ったミュージシャンの名前が次から次と出てくる。対談の中に出てきた以外にも、牧村さんは、ものすごい数のミュージシャンたちと、半世紀にわたって仕事をしてきた。僕たちが憧れた、渋谷カルチャーの裏話は、とりわけ世代が重なる僕には、全身の感覚を刺激するような興奮が満済だ。


もともと渋谷は、東京では「僻地」だったいう。銀座や新宿とは違い、渋谷には文化と呼ばれるようなものは何もなかった。しかし、東京オリンピックを契機にして、渋谷の街の姿は大きく変わっていく。道玄坂宮益坂、公園通り。この3つの坂を起点に、パルコやYAMAHAなど、さまざまな店舗ができ、そこに人があつまり、カルチャーが生まれた。そこから、現在の渋谷系につながる、あたらしい音楽が出てくる。


牧村さんが音楽の世界に入ったのは、フォークの全盛期。一番人気があったのは吉田拓郎で、みんな拓郎の仕事をやりたがったという。「しょうがないので」牧村さんは、人がやらない他のミュージシャンの仕事をやったという。そうして携わった中に、南こうせつかぐや姫がいた。「神田川」が大ヒットし、牧村さんは一躍、最前線の制作者になった(神田川の有名なイントロのバイオリンやギターは、実は当時、最高の演奏者が演奏した、というエピソードも面白い)。


新しいものは、それが生まれた時点では、まだほとんどの人は知らない。それが「新しいもの」の定義なのかもしれない。しかし、人が注目されない時期にコツコツと努力していれば、何かのきっかけでそこに注目が集まった時、すぐに第一人者になれる。他に誰もやっていないのだから。

そんなことは頭ではわかっているし、これまで自分自身でも何度か経験していることでもある。その場、その時間にいる凡人には、新しい方を選択するのは難しいものだ。勇気がない、というのもあるが、それより前に、他の人が注目していないものに注目すらための経験と見識の問題なのだろう。


大滝詠一氏を、あの有名な三ツ矢サイダーのCMに起用したのも牧村氏だ。それがきっかけで、牧村氏はCM音楽の世界に入っていく。自由を求める音楽から、商品を売る音楽への転向に、牧村氏は最初抵抗感があったが、音楽制作のことをもっとも学べる場所はCMだとわかって、あたらしい場所へ入ることを決断したという。

大滝詠一が作った三ツ矢サイダーの歌の録音に、バックコーラスとしてやってきたのが、大貫妙子山下達郎だったそうだ。あたらしい一歩を踏み出したことで、思いもかけない才能に出会ったのだ。


こうしてCM音楽は、あたらしい音楽が生まれる場所になっていく。CM界のスポンサー企業の人たちは、お金に追われた音楽業界のひとと違って、「おおらか」だったと牧村氏はいう。「山下達郎?聴いたことないからだめ」とは言わなかった、と。

ただ、企業にそう考えさせたのは、企業とミュージシャンの間にいた制作者たちだったと付け加える。自分たちを信じて下さい、と心から言える人たちがいたから、そして実際に素晴らしいものを作ってみせたから、さらに先に行けたのだ。こうして、渋谷発のCM音楽が、日本の音楽全体を進化させていった。


牧村さんより前の世代の音楽制作者は大手の会社に所属していた「サラリーマン」だった。一方、最近は、ミュージシャン自身が音楽をプロデュースする時代になっている。その間の牧村さんの時代は、フリーランスの制作者が活躍できた時代だったという(だから、後世の時代からは、牧村さんの時代がうらやましい、と言われるそうだ)。


このように、商売の主体が、企業→専門フリーランス→作り手、と変わっていく変遷は、音楽に限らず、他のあらゆるビジネスでも同じかもしれない。新しい分野は最初、それまでの別の分野に携わっていた会社が、投資として始めることが多いだろう。その分野が離陸し、独り立ちするようになると、大きな組織の庇護がなくてもやっていけるようになる。そこで、フリーランスという職業が成立する。大きくて動きの遅い大企業より、機動力と専門性の高いフリーランスが能力を発揮できるような時期が訪れる。しかし、さらに分野が成熟し、制作や流通の経路が確立し、定形の業務が増えて「外注」できるようになると、作り手自身ですべてをコントロールできるようになる。元来、クリエータはゼロからイチまで、すべてやりたいから、そちらへ進むのは自然なことなのだ。


一昨年、YMOの結成40周年を記念して、YMOの子供の世代にあたるミュージシャンたちがイベントを開いた。これも牧村さんの企画だ。参加したミュージシャンには、ひとりひとり個別に声をかけたのだが、集まってみると実はさまざまな点で、YMOや、そのまわりの人たちとつながりがあることがわかったという。YMC (YMO Children) と呼ばれる所以だ。このことは、牧村さんたちが開拓した渋谷という場が、次の世代を魅了し、文字通り「チルドレン」たちを生み出したきたのだ証だろう。


考えてみれば、音楽に限らず、他の文化や学術も、ビジネスや思想も、開拓者が作った「場」に人々が集まり、新しいものを作り、それが同時代の人たちを魅了し、次の世代につながっていく、というサイクルを経て、確固たるものになっていく。「渋谷系」という名前は後からつけたもので、開拓者たちは最初から「渋谷系音楽を作ろう」と思っていたわけではない(と、牧村さんは言っている)。名前のない不安と、それが故の自由さ。


言葉ではうまく表すことができないが、そういう様々な思いが混合した、ごった煮の空気感があるから、何かが生まれる場となるのではないだろうか。