モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

平井大臣の発言が明らかにしたこと

webronza.asahi.com


今回の平井大臣の発言についての米山隆一氏の意見に完全に同意します。


平井発言は、単に「言い過ぎた」「言葉が悪かった」で済ませられる問題ではありません。


なぜなら、ここしばらくの政権では常に「忖度」や「引き立て」が問題になってきたからです。今回、大臣と官僚の「非公式な」会話が明らかになったことで、これまで官僚が「忖度」したり、一部の企業が「取り入ったり」してきたことの根本原因は、やはり、政権側の気に入らない者への違法な「脅し」と「圧力」、その逆に、気に入った者への法外の「えこひいき」にあったと思わざるを得ません。この平井大臣の発言を聞いていた官僚が、自分自身の身に危険を感じても不思議ではありません。


本案件が高額すぎるのか、税金の無駄遣いなのかというのは、また別の問題です。減額の是非については、仕様、契約、発注、作業の経緯などを踏まえて判断すればいい話で、減額が妥当だとしても、今回の大臣の発言が正当性を持つわけではありません。





>>「『徹底的に干す』『脅す』の様な『極端な表現ぶり』の言葉を使い、発注権限を恣意的に用いて民間業者圧力をかけ、部下の官僚にそれ自体パワハラと言える指示を出すことで、すべてのコストを部下の官僚と民間企業に押し付けて、政権の責任逃れをするという政権の意思を実現する」ことが、政府・自民党内で何らマイナスの評価ではないどころか、むしろプラスの評価であることを意味します。つまり、これが政府・自民党の体質そのものであることを、端的に示していると言えるのです。」

「仮説」的学問の意義(「エビデンス」主義へのちょっとした反論)

Facebookである研究成果の記事を投稿したら、ある方からコメントをもらった。その返信に書いたことは、僕がここ数年考えていたことなので、ここにあらためて残すことにした。(発端となった具体的な記事も、その方のコメントもここには書いていないので、初めて読む方には背景がわかりくいと思うが、そこは許して欲しい)


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実は私も同じことが気になりました。■■■を、どう調べられるのだろうか、と。
ただ、心理学や医学など人間に関わる学問はその性質上、どうしても曖昧さは残るのは仕方ないのかな、とも思います。最近は機械学習なんかも元のデータが定性的だと同じかもしれません。
ある種の学問は、物理学から見ればすべて「仮説」レベルかもしれません。


私は心理学に詳しいのでもないですが、物理学から見れば、実験心理学は「ツッコミどころ満載」であるのはわかる気がします。私も一応、物理学系の教育を受けたので、他の学問の「エビデンス」がエビデンスになっていないことを、気持ち悪く感じることもよくあります。

なので、おそらく私は、ほとんどの面で■■さんに同感だと思うのですが、だから逆に、最近感じてきた、逆な(自省的な)面を少し書きます。

私はずっと「データの可視化」に興味があって、一時期仕事でも頑張って取り組んでいました。しかし、だんだんと、可視化の問題よりも、データの問題の方が気になり始めました。当然のことながらデータがなければ可視化できないわけですが、可視化を行なっていくうちに、可視化するために、とりあえず手に入るデータを使ったり、使いやすいデータを恣意的に選択したりといった、本末転倒的なことになってしまっている気がしたのです。

不十分なデータと知りながらそれを可視化するのは、「フェイク」とは言わないまでも、不誠実なことだと思いました。

しかし、「十分信頼できる」データだけで何かやろうと思っても、ほとんど何もできないこともわかってきました。「確実」と考えられるデータで「安全な」可視化をしても、面白くないだけでなく、世の中の本当に狭いことしか伝えられません。これもまた別な意味で「不誠実」です。

つまりは、世の中のほとんどのことは「データ」になっていないので、「エビデンス」を示すことが難しい。中でも、人間の内面的なことについては、人々の関心の強さとデータの弱さの乖離が、もっとも大きな分野かもしれません。


そういうことから、エビデンスにとらわれすぎて、今はまだつかみどころがない本質に目を向けないことも危険ではないか、という思いが強くなってきました。総合的な広い視野がなくなり、「たこつぼ」の中にさらに閉じこもるような気がして。なので、物理学のようなより厳密な学問から見れば「仮説」にすぎなくても、「仮説」を示すための学問もあっていいのではないか、と思っています。

とはいえ、それは程度の問題であって、思ったことをなんでも放言すればいい、とはまったく思っていません。最初に書いたように、あくまでも物理学の考え方をベースにしつつ、もし、今はそこから外れることだとしても、その可能性を否定もできないのであれば、どうやって厳密な学問にしていくか、という議論が進むための議論をしてほしい、と思っています。

情報は記憶となり、記憶は思考を作る

ある本にこんなことが書いてあった。

昔、ある国が、戦争プロパガンダ映画の効果がどれくらいあるのかを調査した。被験者にプロパガンダ映画を見せた後、愛国心がどれくらい強くなっているかを測ったところ、ほとんど変化がなかったそうだ。ほとんどの人は、「政府によるプロパガンダ映画」というものの胡散臭さを感じ、そう簡単に信じるようなことはなかった。

しかし、だ。

それから数ヶ月ほど経ってから、同じ被験者の愛国心がどうなったかをもう一度調べた結果は驚くべきものだった。愛国心は明確に強くなっていたのだ。

時間が経つにつれ、誰がそれを言ったかの記憶は薄れ、その内容だけが残るのではないか、というのがこの本の仮説だ。



この「発見」は意外な面もあるが、自分の経験を思い返すと、納得できる気がする。時間が経つほど、それをどこで誰からどのように知ったかという記憶よりも、それが何だったかの記憶の方ががより強く残っているように思う。極端な場合は、自分は以前からずっとそう思っていた、と錯覚することもあるかもしれない。


情報は記憶となり、記憶は思考を作る。

この話は、どんなに胡散臭い情報でも効果はある、ということを意味している。街を走り回る「バニラカー」も、どこぞのTVショッピングも、某国の政権の発表も。その時は「胡散臭いな」と思ってたとしても、その内容は確実に記憶の中に蓄積していき、それがいつの間にか自分の思考の基盤となっているのだ。


もし、そんな人間の性質を知っている人が、人々を操ろうとしていたら、と思うと恐ろしくなる。


……と、ここに書いた考えも、いったい自分のものなのかどうか、怪しくなってくる。それは、(もう忘れてしまっているが)どこかで誰かに吹き込まれたことなのかもしれないのだ。

自分の実力を「宣告」される時期

「ローゼンタール効果(ピグマリオン効果)」と呼ばれる心理的行動がある。

1964年春、教育現場での実験として、サンフランシスコの小学校で、ハーバード式突発性学習能力予測テストと名づけた普通の知能テストを行ない、学級担任には、今後数ヶ月の間に成績が伸びてくる学習者を割り出すための検査であると説明した。しかし、実際のところ検査には何の意味もなく、実験施行者は、検査の結果と関係なく無作為に選ばれた児童の名簿を学級担任に見せて、この名簿に記載されている児童が、今後数ヶ月の間に成績が伸びる子供達だと伝えた。その後、学級担任は、子供達の成績が向上するという期待を込めて、その子供達を見ていたが、確かに成績が向上していった。報告論文の主張では成績が向上した原因としては、学級担任が子供達に対して、期待のこもった眼差しを向けたこと。さらに、子供達も期待されていることを意識するため、成績が向上していったと主張されている。

ピグマリオン効果 - Wikipedia



現代は、「厳しく鍛える」より「褒めて伸ばす」というのが良しとされる。生徒の視点で考えれば、ローゼンタール効果はそのエビデンスのひとつといえる。

しかし、ローゼンタール効果の原因としてあげられるもうひとつの点、成績を評価する先生が「色眼鏡をかけて」生徒を見るようになる、という点は、公正の観点からは問題である。賢いと思えば、賢く見える。反対に、馬鹿だと思うと馬鹿になってしまう。人間は、先入観から逃れることができない。このことは、以前、「錯覚」の観点からブログに書いた。
人間の理性は感情に勝てない - モノオモイな日々 Lost in Thought



「生徒が伸びるなら、先入観があってもいいじゃないか」という考えもある。しかし、もしある生徒を「贔屓」することで、別な生徒の可能性を殺しているとすれば問題だ。先生が頑張って、すべて生徒を「持ち上げる」ことができたとしても、生徒が実力以上のナルシストになって、現実と能力のギャップに悩んだり、あるいは、ギャップに気づかないのも問題だ。


僕は、ある年齢まではとにかく自信をもたせることを優先し、ある年齢に達したら、自分の実力を客観的に見るような教育をするのがいいと思う。その「宣告」は大学生くらいだろうか。高校生ではまだ可能性がはっきりしないし、仕事についてからではおそすぎると思うからだ。


なにか客観的なデータや事実があるわけではない。ただ、これまで大学の先生や生徒と接した実感として、大学が「全入時代」と呼ばれる昨今、大学教育があまりに寄り添いすぎているように思えるのだ。大学で「現実」を観なければ、社会に出てから見ることになるだけ。あとになるほどやり直すことは難しく、自分にとっても周囲にとっても影響は大きい。


昔のような、けっしてほめないスパルタ教育がいいとは思わないが、雨風くらい平気、嵐でもなんとか耐えられるような人間を育てることも教育だと思う。もしかしたら、そんな芯さえ手に入れれば、後は自分でやっていけるのではないだろうか。

日本国憲法は実験であり、人類の理想である

youtu.be

美しい言葉。勇気ある思想。

憲法の前文、これほど優しくて力強い文章は他にない。この憲法は日本が世界に誇れるもののひとつだと思う。もちろん僕自身も、誇りに思う。

アメリカに押しつけられた憲法」と批判する人がいる。

しかし、もしこれがアメリカ人の文章なら、アメリカ人は信じられないほど利他的な人たちということになる。なぜなら、アメリカは当時日本を属国にすることもできたのに、この憲法には、日本のことは日本国民が決めるのです、と書かれいるのだから。


僕は、この憲法のすべてをアメリカ人が書いたとは思わないが、この憲法アメリカの意向が入っているのは事実だろう。ただそれは、幸運にも、アメリカの中でも気高い理想を持っていた人たちの意向だと思う。

この憲法は実験だ。「未完成」という意味での実験ではなく、まだ実現していないことの「可能性」を追い求めるという意味での実験。つまり、この憲法は、当時の人類が思い描ける最高の国の形、理想の世界を文章にしたものではないだろうか。敗戦があったからこそ、それまで縛り付けられていた「現実」(しがらみ)から離れて、ここまで大胆に理想を描くことができたのだと。


今、「日本を取り巻く環境の変化」、つまりは、「現実」にあわせて、この憲法を書き換えるべきだ、という意見が強くなってきている。しかし、そう言っている人たちは、この憲法の意義をまったく理解していない。現に、彼らの多くは、この憲法を守っているとは思えない。自分たちが守れない憲法は変えてしまえ、というレベルの低い理由で憲法を変えることには断固として反対する。


人類の理想を憲法という形にしてくれた先人に感謝し、その思いを受け継ぎ、今の形のまま、子供たちに、さらに後世の人たちに伝え残したい。憲法を変える時が来るとすれば、それは、先人よりもさらに高い理想を求めようと、みんなが決意した時なのだ。


(今、5年前の憲法記念日に書いた文章を読み返してみた。考え方は変わってないな、と思った)
monoomoi.hatenablog.jp

生の議論を公開する場を

先日、政府は、福島原子力発電所の処理水を海洋に放出する、と発表した。

原発処理水の問題は、一部の関係者の間ではずっと議論されていた。その中での結論なのだろう。

しかし、一般の国民にとっては、突然「海に放出」という決定を伝えられたという感じがする。判断の是非の前に、コミュニケーションの質が悪すぎるのだ。海洋に放出されたトリチウムがたとえ安全であっても、これでは一般人が不信感を抱くのは当然だ。

人間は結果だけ伝えられても納得しない。結論にいたる過程に参加することで、初めて自分ごととしてとらえられる。結論に至る前の議論から公開し、国民に伝える、ということができないものか。それは本来は国会の役目。それが機能しないのなら、マスコミが協力するか、あるいは、今ならオンラインでも議論の公開はできるはず。


噂話や印象操作はもうたくさんだ。

国民が求めているのは、地味であっても、本物の議論を見せる場。それが今ないのなら、早く作らなければならない。

公共の場所の命名権は住民のもの

今回もFacebookの投稿から考えたことを書く。その元になったのは次の投稿だ。

良い話をひとつ。
鎌倉市は 3カ所の海岸 〈 由比ガ浜材木座 /腰越 〉の命名権を売りに出した。
それを鎌倉銘菓 “ 鳩サブレー ” でお馴染みの豊島屋が購入。そして名付けられた3つの海岸の名前は、由比ヶ浜は「由比ガ浜海水浴場」、材木座は「材木座海水浴場」、腰越は「腰越海水浴場」。そう全く同じ名前を再びつけたのです。しかも命名権は年間1200万円で、豊島屋は鎌倉市と10年の契約を結んだらしい!!!と言う事は合計なんと 1億2000万円 (● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾ 。

久保田社長は「昔ながらの慣れ親しんだ名前になってよかった。海水浴場という言葉が死語になりつつある中でこの呼び名が入っていていいと思う」と語ったらしい!

本日鎌倉に行ったので鳩サブレーを死ぬほど買って来ました。*\(^o^)/*

確かに、良い話だと思う。

鳩サブレー」の社長の行動は素晴らしいし、鎌倉市民は、鎌倉市民でない人も、多くの人が鳩サブレの社長の行動を支持すると思う。どの海水浴場にも行ったことがない、関西在住の僕でさえ、「鎌倉市民、良かったね」と思う。


しかし、この出来事には、ひっかかるものがある。


それは、そもそも鎌倉市がなぜ、地元民が慣れ親しんだ海水浴場の命名権を売りに出したのか、ということだ。鎌倉市が「濡れ手で泡のようなボロ儲け」を目論んだとは思わない。おそらく、財政が苦しいのだろう。何か避けられない出費があったのかもしれない。

それでも、だ。

地元の海水浴場という、市民の憩いの場、歴史ある自然を、たとえ名前だけだとは言え、行政がそんなに簡単に売り渡してしまっていいのか。



マルクスは、資本主義における富は「商品」という形で蓄積される、と述べた。資本論の第一章が「商品」であることからわかるように、商品は資本主義のもっとも根源的な要素である。資本主義化が進展すれば、より多くのものが「商品」になっていく、とマルクスは述べた。その天才的な洞察は、それから百年以上がたった今、ようやく一般人でも実感できるようになった。


命名権は、あらゆるものごとが商品になるという流れの代表事例のひとつといえるだろう。命名権などというものは、以前はそれほど普及していなかった。世の中に「福岡PayPayドーム」や「エスコン フィールド HOKKAIDO」なんて名前はなかったし、施設の名前は半永久的なもので、毎年名前が変わるなんてことはあり得なかった。しかし、僕の地元、神戸で、もともとグリーンスタジアム神戸と呼ばれていた球場は、Yahoo!BBスタジアムスカイマークスタジアムほっともっとフィールド神戸、と名前が変わっている。




民間の施設でさえ、多くの人が使うものには「命名権」への違和感がある。いわんや、公的組織の中でももっとも公的であるはずの行政組織が、地元民が慣れ親しんだ場所の命名権を売りに出す、などということは、違和感を通り越して、嫌悪感がある。目先の金を得るために、これまで積み重ねてきた歴史や、市民の思い出や未来に伝える財産を売り払ってしまうことが許されるのか。そんなことをする裁量を、誰が行政に付託したのだろうか。

公共の場所の命名権は行政のものではない、と思う。持ち主がいるとすれば、住民のものだ。しかも今の住民だけでなく、先祖から子孫まで時間を越えたすべての住民で共有されるものだ。もしそれを「商品化」するのなら、それらすべての住民の合意を得なければならない、と思う。