2016年6月15日の参議院・決算委員会で、立憲民主党の古賀議員の質疑での表現が問題になっている。というか、炎上している。
まず知っておかなければいけないのは、古賀議員は確かに「経済的に厳しい子どもたち」と表現したが、それを「貧しい家庭の子」と言い換えたのは小泉大臣だ。「人を傷つける」という点で言うなら、小泉大臣の言葉の方がより不適切ではないだろうか。
また、古賀議員は、自分の「不適切な」発言の後、(某政治家とは違って)すぐに謝罪、訂正している。この発言に対して意見を述べるなら、前後の文脈、できれば発言のニュアンスも考慮して、是非を述べるべきだと思う。
ただ、今回の事件の是非とは別に、少し異なる視点からの違和感について述べておきたいことがある
それは、「経済的に厳しい」という言葉は、本当に人を愚弄する言葉なのか、批判されるべき表現なのか、ということだ。
一般論として、もし、「経済的に厳しい」家庭の子どもが何かに前向きに取り組もうとしているのなら、その対象がなんであれ、素晴らしいことだと思う。もし、「経済的に厳しい」家庭があるとすれば、多くの場合、親の責任でも、もちろん子どもの問題でもないだろう。偶然の不幸によるものか、その家庭を取り囲む環境や社会に何らかの問題があると思う。現実に「経済的に厳しい」という事実があったとしても、そのことは、親も子どもけっして恥じることではない。
もし「経済的に厳しい」ことを理由に、その家庭をさげすむ人がいるのなら、その人たちの方が間違っているのだ。そういう人たちの方こそ、心が貧しいのではないだろうか。そして、そんな風に思わせる社会の方がおかしいのではないだろうか。
「経済的に厳しい」ことを恥じ、隠さなければならない社会より、そして、そんな家庭をさげすみ、差別する社会より、「経済的に厳しい」人たちに手を差し伸べる社会であってほしい。そんな社会を実現するために政治家に求めたいのは、経済格差を広げるのではなく、何らかの理由で経済的に困っている人たちの苦労を、少しでも和らげる社会を実現する役目を担うことだ。