モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「資本論」は今こそ読むべき本

昨年から「資本論」の解説本をいくつか読んでいます。「資本論」って、仕事という人間の行為を通して、資本主義の中で失われていく人間性を取り戻すにはどうすればいいのかを教えてくれる本だったのだ、とわかりました。読みすすめるほど、腑に落ちることばかり。間違いなく、今、この時代に読むべき本です。

なぜ、やりがいや充実感のない仕事がはびこって、社会にとって大事な仕事をしている人たちが長時間、低賃金で働いているのか。それはマルクスの時代から変わらない(資本主義社会の)事実であり、問題なんですね。マルクスの分析は、今でも通用する、どころか、今こそ頼るべき人類の知の結晶だと思いました(それはある意味、人類が進歩していないという、情けないことでもありますが)。

精神的労働と肉体的労働が一致するのが望ましい仕事であり、それを「分業」が妨げている、という指摘も納得します。

他にも、「そうだったのか」と思うことばかり。

これまで漠然と感じていたこと、考えていたことに、大きな筋道をもらった気がします。

生存者バイアス(今、無いものを見ろ)

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上のイラストは、第二次世界対戦中、ナチスドイツの対空射撃を受けた連合国軍の航空機上の弾痕跡を示したものだ。

このデータをもとに、軍は最初、弾痕による損傷の多い部位を優先して強化しようとした。

ハンガリー生まれのユダヤ人数学者、アブラハム・ウォルドは、これに異を唱えた。彼は「これは、帰還できた航空機が受けた損傷跡です」と指摘した。「強化すべきは、弾痕跡の無い部位です。なぜなら、そこに弾を受けた航空機は、戻って来られなかったのですから」。


これは「生存者バイアス(Survivorship bias)」と呼ばれる錯誤である。人は、生き残ったものに注目してしまう。しかし、本当に注目すべきは、生き残ることができなかったものなのだ。



出典:Facebook Post of Michael Rose, University of California
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物足りなくなる未来と人間の素朴な美しさ

たとえば、美術館で、まだコンピュータがない時代の手書きのデザイン画を見ると、たとえそれが人間の素晴らしい才能によって創られたものであっても、何か古めかしさを感じてしまう。そこには、当時の道具や、人間そのものの制約があるからだ。


同じように、今、素晴らしいと感じている音楽や舞台のライブパフォーマンスも、近い将来、まったく物足りなく思うのかもしれない。未来の僕は、昔はこれで満足してたんだな、と言っているのだろうか。

 

‥‥と書きつつ、人間は人間のすることに一番関心があるわけで。才能ある人が出会った時に生まれるものは、それが素朴であるほど、眩しく感じるのもまた真実。
—-“Here comes the sun. I say it’s all right

正義や誠実さや真実といったものが、いかに無力なものであるかを突きつけられている

トランプ大統領の支持者たちが、連邦議会議事堂に乱入し、一時、議会が停止するというニュースが、今朝流れた。一人の女性が銃撃され、亡くなったと報じられている。この事件の発端には、先の大統領選挙で不正があったと訴え続けるトランプ大統領がおこなった演説がある。連邦議会へ行き、講義せよ!と命じたのは、トランプ大統領である。

この前代未聞の出来事は、ワシントンから遠く離れた日本にいても衝撃的だ。トランプ大統領の性格については、これまで何度も報道されてきたから、よく知っているつもりだ。しかし、彼の行動は「普通の人間ならここまでだろう」という予想(期待)を裏切り続けてきた。そして、その最大の「裏切り」が、今回の事件だろう。彼が選挙の不正を訴えるのは、自分のこれからの存在場所を得るためのポーズなのだろう。ついこの前まではそれくらいに思っていたし、普通の人が想像できるのはそこまでだ。たとえ表向きは「トランプ大統領は何をするかわからない男だ」と言う人でさえ、まさか大統領が政府に対する暴動を扇動するとは、つい先日まで想像できなかったのではないか。


そのような「あり得ないはずの出来事」を目の前にして、これまで信じてきた価値観が、自分の中で音を立てて崩れていくのを感じている。これまで絶対善だと信じてきた、そして、自分だけではなく、全世界の人々の暗黙の共通認識だと思っていたこと、すなわち、正義や誠実さや真実といったものが、いかに無力なものであるかを、今、突きつけられているような気がする。それも、たった一人の人間の言動だけで。これまで生きてきた世界はこれほどまでに脆弱なものであったということを、いまだに心の底からは信じられないその事実を、今、受け入れなければならないのか。


この先に何か希望はあるのだろうか。今、自分に思いつくのは、一方的な強い力が加わった後には必ずそれを打ち消す反力が訪れる、という、いささか頼りない経験則でしかない。自分の経験の無意味さを知った今でも、頼ることができるのは、自分の経験だけなのだ。


今、書くことができるのはここまでだ。不完全な文章を承知の上で、自分の感覚をここに書き留めるのは、おそらく、この思いはこれからもずっと忘れてはいけない、という直感が働いたからだ。それが未来にどうつながるのかはわからない。しかし、大きな変化の前には、必ず何か予兆がある。今回の事件はすでに十分大きな出来事であるが、この先にさらに大きな出来事が訪れる予兆ではないだろうか。自分の直感が、そう叫んでいる。

地に足をつけるな

"僕は学者だとか芸術家だとかいった仕事をする人は、どちらかというと浮世離れしていなければならないと思っています。片足は地面に着いているけれど、もう一方の足はどこか別の所に突っ込んでいる。それぐらいじゃないと、そもそも学者や芸術家にはなれません。" <村上春樹


「浮世離れしてる」「地に足がついていない」「変わり者」――― そんなふうに言われると、実は内心では嬉しかったりする。自分のやっていることは、人々の少し先を行ってるんだ、ということがわかるからだ。これからも、さらにけなされるよう、精進したいものだ。


それはともかく、最近は「地に足をつけすぎ」な人が多くて面白くない。もちろん、そういう人もいないと社会は混乱してしまうけど、地に足をつけた人ばかりだと、何も変化がない、つまらない世界になっていく。世の中は、どんどん重苦しくなっていく。地に足をつけよう、と自分で判断したのなら、まだいい。しかし、自分の意志ではなく、社会や組織の「重力」に縛りつけられて、地面から動けない人も多いのではないだろうか。実際の「重力」はそこまで強くないのに、自分からその「場」に貼りついているようにさえ見える。


変化を起こすのは、なにも学者や芸術家だけじゃない。「個人として生きること」の大切さに気がつき、あたらしい世界を生きる決意をした人なら誰でも、次の時代の冒険者になれる。地にべったりと着いた自分の足を、勇気を出して地面から離してみれば、思ったより高く飛べるし、早く走ることができる。地から足を離した人だけが、違う世界を見ることができる。


地面に根が生える前に、次の場所へ移動しよう。世界は広い。生きていく場所は、個人の数よりはるかに多いはずだ。


diamond.jp

翻訳者

どんな分野でも、それを突き詰めてやっている専門家と、まったくそのことを知らない一般人の間に、広い意味で「翻訳者」と呼べる人がいる。

「翻訳者」は、外にいる人にはわかりにくい専門知識の本質を的確に理解して、それを一般人が理解でき、面白いと思えるレベルに変換して伝える能力をもっている。優れた翻訳者は、人々に、未知の物事に関心を向けさせ、興味を掻き立て、一部の人々を熱狂させる。

幸運にもそういう「翻訳者」のいた分野が、今、一般人にも知られているんじゃないだろうか。逆に、そういう人がいかなかった分野は、いまだによく知られていないのではないか。その分野自体の重要さ、面白さというのはもちろんあるけれど、それだけでは伝わらない。僕たちが客観的な価値だと思っていることも、実は「翻訳者」がそれを伝えたか、伝えなかったか、ということに、かなりの部分を負っているのかもしれない。

「翻訳」は、いわゆる解説だけではなくて、カルチャーと呼ばれるもの、たとえば、漫画やアニメや映画や小説なども含まれる。むしろ、そういうものの方が、より広く人々に影響を与えているのは間違いない。たとえば、子供の頃、SF映画をみて科学者を目指したり、社会派漫画を見て法律家になった者は少なくないだろう。


文明の進化をドライブしてきたのは、案外そんなものかもしれない。「翻訳者」は主役にはならないかもしれないが、その時代・文化になくてはならない脇役であって、おおげさにいうと、人類の進化には欠かせない存在なのだ。