モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「著作権」なんかいらない

こういうことを書くと誤解されるかもしれないけど、僕は今の著作権には反対だ。そんなもの、なくなった方がいいと思っている。


創作者が「それを創作した」という原始的な「証」は必要だ。ただそれは署名や名誉のようなものでよくて、「著作権」というものとして譲渡したり売り買いしたりするものではないと思う。商品のように使われるなら無い方がいい。というのは、結局、「強いものが得する」という資本主義のお決まりの帰結になってしまうからだ。


創作者ではない一般の人たちも、最近はコンプライアンスの要請から著作権を気にする人が多い。それは仕方ないことだし、「正しい」ことだ。

でも、知っておいてほしいのは、ある創作物の著作権は必ずしもそれを創作した人が持っていない、ということなのだ。これは力関係の強い業界ほど顕著である。


一般の常識からすれば「公的」だと思われているもの、たとえば学術論文も勝手に引用できない場合がある。以前、論文の中のある図表を引用したい、とその論文を掲載している出版社に問い合わせたら、かなり高額な使用料を要求されて断念したことがある。おそらくその使用料は、論文の著作者には行かないと思う。学術誌の「場代」なのだ。引用する際には著作者名も論文誌名も記載する、という条件でさえ、こんな具合だ。(追記:このケースは、論文の執筆者は著作権を譲渡はしておらず、出版社は著作権を管理しているだけであるから、著作権ではなく著作隣接権であるという指摘を受けた。それはそのとおりだと思うが、広義の著作権としてみても、この文章の大意に違いはないと思う)



もし僕がその論文の著作者なら、他人が自分の書いたものを引用し紹介してくれることは嬉しい。そこに自分の名前を正しく記載してくれるのなら、少なくとも「勝手に使いやがって」とは思わない。「勝手に使いやがって」と文句を言うのは、著作者ではなくその著作権を管理する人たちなのだ。


だから著作権を守ることが、世の中の強者・弱者の構造をより強くしてしまっているかもしれないことを、直接創作に関わっていない一般の人たちにも少し気にしてほしいのだ。


もちろん著作者自身が著作権の侵害を訴える場合もある。しかし、それができるのは名声と資金力のある人だけだろう。法律は弱者を守るためにある、と信じたいが、実際には強者のためにあると思えてしまう。


だから、クリエイティブコモンズやオープンな学術誌、「ファン」による二次創作を認める出版社といった新しい動きは、それらがまだ十分ではないとしても応援したい。再度、誤解を恐れず言うなら、本当の著作者のことを思っての行動なら、たとえそれが「違法」なことであっても、自分自身はいいと思っている。