モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

戦争のリアルを知った上で戦う覚悟はあるのか?(戦争美化への憂い)

ja.wikipedia.org


はだしのゲン」が広島の小学校の教材から外されることになった、というニュースが話題になっている。数年前には、公立図書館からこの漫画が取り除かれる、という出来事もあった。

何が悪いのか、ということが曖昧なまま、「排除」される社会は恐ろしい。特定の人に都合の悪いことを人々の目に触れないようにする。これこそ「権力による隠蔽」というやつだ。

それが事実であれ、フィクションであれ、この世の中にあるほとんどのことは知らされなければならないし、知ろうとしなければならない、と思う。知らされないまま、知らないままで、正しい判断はできないからだ。ここでいう「正しい」というのは、自分が将来後悔しない、という意味だ。

例えば「戦争」というものについて、どれだけのことを知っているのだろうか。戦争は今も世界のどこかで行われているが、日本にいる僕たちの中で戦争を体験として知っている人は少ない。だからこそ、知らせようという行為、知ろうという努力がなければ、将来後悔することになると思うのだ。

僕は「はだしのゲン」は読んだことがない。しかし、子どもの頃はまだ周りに「戦争の爪痕」はあったし、先の戦争を体験した人々の話を聞くことができた。そして、映画やテレビも、真実に近い戦争の姿を伝えていた(と思う)。

そのひとつで、もっとも大きなショックを受けたのが、「ジョニーは戦場へ行った」という映画だ。


子供の頃の僕はこの映画が怖かった。正直、今も怖い。この映画はフィクションだとわかっているが、限りなく真実に近いフィクションだと、子供心に感じていたからだ。


「この国を守らなければならない。そのためには軍事力が必要だ」と声高に叫ぶ人たちや、積極的ではないが軍事力の強化に賛成する人々は、「国を守る」ために、たとえ自分や自分の家族がこのジョニーのようになっても、その運命を受け入れるのだろうか。その覚悟を持って強い言葉を発しているのだろうか。

僕は、「国を守る」とは、ジョニーのような人々を、一人でも少なくすることではないだろうか。それは軍事力に頼らない政治を徹底することだと僕は思う。

戦争に「勝つ」とは何なのか。権力者は、たとえ何十万・何百万の人々が死んだとしても、相手の権力者が負けを認めれば「勝利した」というだろう。しかし、ジョニー、すなわち、普通の人々にとっては、戦争が始まった時点で「負け」なのだ。