モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

音楽が生まれる場所 柳瀬博一のリベラルアーツ入門・牧村憲一

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以前書いたとおり、毎朝・毎夕の「オーディブル通勤」では、対談や講演が一番おもしろい。話し言葉なので聞き取りやすいし、だいたい1時間程度なので、情報の密度が濃いのだ。歩きながら脳を刺激するには、最高のコンテンツだ。


対談のお気に入りは、「柳瀬博一のリベラルアーツ入門」のシリーズだ。東工大リベラルアーツ学科の柳瀬さんが、さまざまな分野の第一線で活躍する人を招いて話を聴く。これまで、「教養」「サイエンスジャーナリズム」「アートxビジネス」「進化論」が公開されている。すべて聴いたが、どれもめちゃくちゃ面白い。聞き手である柳瀬さんの、知的だけれどくだけた感じに、ゲストもリラックスして本音で語っているように思える。僕も、これまで、サイエンスニュースの取材でたくさんの人にインタビューしてきたが、柳瀬さんの幅広い知識と聞き出す力には、とてもかなわない。すごいな、と思う。


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「名プロデューサーが語る『音楽と日本社会』」は、渋谷を拠点にして、音楽制作に長年携わってきた牧村憲一氏が、いわゆる「渋谷系」音楽の系譜を語ってくれる。はっぴいえんど南こうせつかぐや姫荒井由実YMO山下達郎大貫妙子高野寛フリッパーズ・ギターカジヒデキ、DAOKO…。牧村さんの語りは濃密で、よく知ったミュージシャンの名前が次から次と出てくる。対談の中に出てきた以外にも、牧村さんは、ものすごい数のミュージシャンたちと、半世紀にわたって仕事をしてきた。僕たちが憧れた、渋谷カルチャーの裏話は、とりわけ世代が重なる僕には、全身の感覚を刺激するような興奮が満済だ。


もともと渋谷は、東京では「僻地」だったいう。銀座や新宿とは違い、渋谷には文化と呼ばれるようなものは何もなかった。しかし、東京オリンピックを契機にして、渋谷の街の姿は大きく変わっていく。道玄坂宮益坂、公園通り。この3つの坂を起点に、パルコやYAMAHAなど、さまざまな店舗ができ、そこに人があつまり、カルチャーが生まれた。そこから、現在の渋谷系につながる、あたらしい音楽が出てくる。


牧村さんが音楽の世界に入ったのは、フォークの全盛期。一番人気があったのは吉田拓郎で、みんな拓郎の仕事をやりたがったという。「しょうがないので」牧村さんは、人がやらない他のミュージシャンの仕事をやったという。そうして携わった中に、南こうせつかぐや姫がいた。「神田川」が大ヒットし、牧村さんは一躍、最前線の制作者になった(神田川の有名なイントロのバイオリンやギターは、実は当時、最高の演奏者が演奏した、というエピソードも面白い)。


新しいものは、それが生まれた時点では、まだほとんどの人は知らない。それが「新しいもの」の定義なのかもしれない。しかし、人が注目されない時期にコツコツと努力していれば、何かのきっかけでそこに注目が集まった時、すぐに第一人者になれる。他に誰もやっていないのだから。

そんなことは頭ではわかっているし、これまで自分自身でも何度か経験していることでもある。その場、その時間にいる凡人には、新しい方を選択するのは難しいものだ。勇気がない、というのもあるが、それより前に、他の人が注目していないものに注目すらための経験と見識の問題なのだろう。


大滝詠一氏を、あの有名な三ツ矢サイダーのCMに起用したのも牧村氏だ。それがきっかけで、牧村氏はCM音楽の世界に入っていく。自由を求める音楽から、商品を売る音楽への転向に、牧村氏は最初抵抗感があったが、音楽制作のことをもっとも学べる場所はCMだとわかって、あたらしい場所へ入ることを決断したという。

大滝詠一が作った三ツ矢サイダーの歌の録音に、バックコーラスとしてやってきたのが、大貫妙子山下達郎だったそうだ。あたらしい一歩を踏み出したことで、思いもかけない才能に出会ったのだ。


こうしてCM音楽は、あたらしい音楽が生まれる場所になっていく。CM界のスポンサー企業の人たちは、お金に追われた音楽業界のひとと違って、「おおらか」だったと牧村氏はいう。「山下達郎?聴いたことないからだめ」とは言わなかった、と。

ただ、企業にそう考えさせたのは、企業とミュージシャンの間にいた制作者たちだったと付け加える。自分たちを信じて下さい、と心から言える人たちがいたから、そして実際に素晴らしいものを作ってみせたから、さらに先に行けたのだ。こうして、渋谷発のCM音楽が、日本の音楽全体を進化させていった。


牧村さんより前の世代の音楽制作者は大手の会社に所属していた「サラリーマン」だった。一方、最近は、ミュージシャン自身が音楽をプロデュースする時代になっている。その間の牧村さんの時代は、フリーランスの制作者が活躍できた時代だったという(だから、後世の時代からは、牧村さんの時代がうらやましい、と言われるそうだ)。


このように、商売の主体が、企業→専門フリーランス→作り手、と変わっていく変遷は、音楽に限らず、他のあらゆるビジネスでも同じかもしれない。新しい分野は最初、それまでの別の分野に携わっていた会社が、投資として始めることが多いだろう。その分野が離陸し、独り立ちするようになると、大きな組織の庇護がなくてもやっていけるようになる。そこで、フリーランスという職業が成立する。大きくて動きの遅い大企業より、機動力と専門性の高いフリーランスが能力を発揮できるような時期が訪れる。しかし、さらに分野が成熟し、制作や流通の経路が確立し、定形の業務が増えて「外注」できるようになると、作り手自身ですべてをコントロールできるようになる。元来、クリエータはゼロからイチまで、すべてやりたいから、そちらへ進むのは自然なことなのだ。


一昨年、YMOの結成40周年を記念して、YMOの子供の世代にあたるミュージシャンたちがイベントを開いた。これも牧村さんの企画だ。参加したミュージシャンには、ひとりひとり個別に声をかけたのだが、集まってみると実はさまざまな点で、YMOや、そのまわりの人たちとつながりがあることがわかったという。YMC (YMO Children) と呼ばれる所以だ。このことは、牧村さんたちが開拓した渋谷という場が、次の世代を魅了し、文字通り「チルドレン」たちを生み出したきたのだ証だろう。


考えてみれば、音楽に限らず、他の文化や学術も、ビジネスや思想も、開拓者が作った「場」に人々が集まり、新しいものを作り、それが同時代の人たちを魅了し、次の世代につながっていく、というサイクルを経て、確固たるものになっていく。「渋谷系」という名前は後からつけたもので、開拓者たちは最初から「渋谷系音楽を作ろう」と思っていたわけではない(と、牧村さんは言っている)。名前のない不安と、それが故の自由さ。


言葉ではうまく表すことができないが、そういう様々な思いが混合した、ごった煮の空気感があるから、何かが生まれる場となるのではないだろうか。