Arc Timesでの青木理さんの発言は、メディアやジャーナリズムに関わる人の、まっとうな意見だと思った。人間として言うべきことを言わないならジャーナリズムを名乗る資格はないし、目の前にある事実から目をそむけるならメディアの存在意義はない。
ちょっと話を広げて、また極端なことを書く。
だいたい、まともな仕事や発言をすると、ほぼ間違いなく誰かに嫌われるのだ。「あんたの意見は気にいらん」と言われる。嫌われないのは何もしない人、何も言わない人である。
しかし、何か自分から行動を起こした時は必ず、嫌われる以上に応援してくれる人がいる。それは自分が経験から得た「法則」だ。人間はそれほど捨てたもんじゃない。
ただ、その「法則」も最近怪しくなってきたな、という実感がある。「コンプライアンス」や「公平・中立」という一見もっともらしい名のもとに、人間が本来もっている正しい直観が抑圧されている気がしてならない。「何かおかしいぞ」という感覚が発現されないまま衰えていっている気がする。
それが僕の危機感の根底にある。
結局、世の中がどうなるかは、ひとりひとりの「見識」だと思う。「見識」というのはちょっと硬い言葉でもう少しいい言葉があればと思うのだが、なにも難しい知識を身につけろというのではない。僕が言いたいのは、生物としての人間がどちらが生き延びる確率を高められるかを判断する直観みたいなもので、ただそれは脳が発達した人間ならではの高度で総合的な判断力、未来の予見力でもある。
それは、人間なら誰もがもっている。なぜなら、それがあるから我々人類はこれまで生き延び、進化してきたのだから。逆にいえば、それがなくなれば人類は滅びるんじゃないだろうか。
そんな大事なものを、一つの時代の「間違った力」で抑え込まれてしまっているのではないだろうか。
まっとうなことをする、まっとうなことを言う、というのは、何より自分のためであり、人類のためなのだ。