SNSで、苅部直さんの「『市民』とは誰か」という小論を知り、読んでみた(J-StageのサイトからPDFを無料でダウンロードできる)。
「市民」も「公民」も、単なる「住民」ではなく、積極的に政治活動を行う人々を指す。
「公民」という言葉は、1983年の市政・町村制の交付の際、参政権を持つ人を指す言葉として初めて使われた。当時の帝国憲法の精度下では、参政権を持っているのはごく一部である。そのようなある種の「特権」を持つ人を指す言葉だったのだ。
そのような歴史の中で、「公民」という言葉は現在でも、権力者のお墨付きをもらった人々、というニュアンスが残っている。「公」は、権力者を頂点とする社会システムの構成員、というニュアンスである。
一方で「市民」は、草の根的、ボトムアップ的、自発的に政治に参加する人々、というニュアンスがある。
政治学者、松下圭一は1996年の「<市民>的人間型の現代的可能性」という論文で、都市化の進んだ日本社会にあらたな「市民的自発性」が生まれている、と指摘した。政治を職業とする、いわゆる「政治家(や)」ではなく、それぞれが本業の仕事を持ちながら、地域や国の課題にかかわっていく人々だ。この背景にはテクノロジーの進歩によって「余暇」が増えたこともあると松下はいう。
とはいえ、苅部が指摘するように、現在においても、国政レベルで「市民の自発性」が発揮できているとはいえないだろう。
安部公房は、国家権力の統制をはねかえし、多様性を担保することの矛盾と限界を指摘し、「誰でもない」状態になることで「誰でもあり得る存在になり、主体性を取り戻す」と述べた。
これからの社会で「市民」が重要になっていくことは、多くの人が予感している(それ故に、市民の力を恐れる権力者は、国家の統制を強化する可能性もあるが)。
市民が、どのような形で政治に参加するか・できるかを、考えなければならない時期に来ているのではないだろうか。