モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

市民にとって戦争には「負け」しかない

ウクライナとロシアの軍事衝突が始まって1ヶ月以上がたった。この出来事を「侵攻」というべきか「侵略」というべきか、あるいは「戦争」というべきか、などという言葉の問題はどうでもいい。とにかく、メディアは日々変わりゆくウクライナの状況を、ほぼリアルタイムで伝え続けている。あきらかにウクライナ寄り(=西欧寄り)の視点を持つ日本のメディアが伝えるのは、プーチンがしかけた侵攻がいかに不正であるかということ、一方でウクライナの民間兵士が予想以上に「善戦」していること、その結果ロシア軍は一部で撤退を余儀なくされていること、しかし、市街では子どもたちを含む市民が犠牲になっていること、などだ。


そういう報道を見聞きしながら、心はずっと落ち着かないままだ。その理由のひとつは「戦争の犠牲になるのは市民である」という事実を、報道を通じて目の当たりにしなければならない悲しさから来ている。そしてもうひとつの理由は、メディアが何を伝え、何を伝えていなのかは、報道を見ているだけではけっしてわからない、という不信感なのだ。


この1ヶ月、多くの人々がまるで国家元首になったかのように、この軍事衝突(侵略でも戦争でもいい)の原因や行方について論じている。政治家や安全保障の専門家だけでなく、著名人やタレント、そして一般の人々までもがSNSを通じて、ウクライナの状況を題材にしてそれぞれの「政治論」「安全保障論」を語っている。


それぞれの人が自分の考えを表明するのは自由だし、ある面では歓迎されるべきことだろう。しかし、その意見は「事実」を根拠にしている、という確信を持てる人はどれくらいいるのだろう。「報道されているから」というのはまったく理由にならない。それは、ただメディアが流す「情報の波」に大きく流されながら、ほんの少し左右に泳いでいるくらいの小さな小さな「独自意見」でしかない。そんな考えを「事実に即した客観的な分析だ」と思っているとしたら、あまりにナイーブである。


メディアを通じたあらゆる情報にはフィルターがかかっている。権力からの圧力であれ、権力への忖度であれ、特定のグループの主義主張であれ、あるいは、伝達者の経験・知識の不足、不注意であれ、意図的かどうかは関係なく、あらゆる情報は
「汚染」されているのだ。そんなメディアが伝えていることを鵜呑みにするのは危険すぎる。

とりわけ、遠い場所で起きている戦争は、フィルタリング=「汚染」の絶好の対象である。情報の受け手が疑わしいと感じた情報でも、メディアを通じずに自分自身で確かめることは極めて困難だからだ。特定の人(権力者やメディア)が、伝える情報に堂々とフィルターをかけることができる戦争は、権力者にとっては最高の武器なのだ。逆に言えば、一般市民にとっては対処できない最悪の攻撃となりうる。


そんなことは言われなくてもわかっている、と言う人も少なからずいるだろう。しかし、そのような汚染された情報の中にいったん身をおいてしまえば、もはや真実を確かめる術はなくなってしまう。何も確かめられない環境で、客観的・論理的な思考を作ることはできない。情報をコントロールされた状況に入り込んでしまった瞬間に「負け」なのだ。



これまでの歴史を見れば、たとえ国家は戦争に勝ったとしても、その勝利の過程で犠牲になった市民やその家族・知人に本当の勝利はない。幸運にも人命はつなぎとめられたとしても、家や土地、自身の職場を失うかもしれない。歴史の本には「戦争に勝利した」という1行が書かれていても、その国の大多数の人は勝利を実感できなかっただろう。たとえば歴史の教科書には「日露戦争で日本は勝利した」と書かれているが、当時の日本の権力者は国家の歳入の半分近くをこの戦争に投じ、国民の多くに苦しい生活を強いながら、かろうじて勝ったにすぎない。そんな当時の人々の苦しみは、メディアによる勝利礼賛の言葉によって封じ込められ、歴史の教科書に書かれることもない。


戦争が始まれば、市民にとって勝利はない。市民の勝利は「戦争を始めないこと」「戦争に巻き込まれないこと」しかないのだ。武力による安全保障など幻想である。対話と外交、協力と貢献、その他のあらゆる非武力的手段を総動員して、なんとかして戦争という最悪のイベントを起こさせないことに、市民は全力を投じることしかないのだ。

この唯一の真実を、今回のウクライナでの出来事が人々に気づかせてくれることを願う。