今朝、いじめられる夢を見た。
夢の中の僕は、どうも小学生らしい。顔は見えないが、誰かが僕の足を引っ張っている。僕の足は曲がり、伸びる(夢なので非現実的な部分もある)。
「これは間違いなくいじめだ」、と思った。
しかし、小学生の僕はいじめられながら、いたって冷静だった。
「大人になったら俺がこいつらの上に立つことになるのに、俺をいじめるなんて、こいつら馬鹿だよな」
引っ張られて伸びる足を見ながら、そんな風に考えていた。
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今朝の「夢の中の小学生の自分」の気持ちを思い返してみた。
そこに「怒り」とか「復讐心」とかはいっさいなかった。「おとなになったら自分が上に立つ」という思いは、自然にそうなるのだ、という確信みたいなもので、小学生のくせに(笑)いたって冷静だったのだ。
それは、子供の頃の「強者・弱者」、と、社会に出てからの能力は同じ評価基準ではないし、社会に出れば、むしろ自分のほうが力を発揮できるはずだ、という確信と言える。だから今は受け流しておこう、という気持ちになれたのだ。
この「確信」は、たとえば、ビル・ゲイツの次の言葉が表すものに近いかもしれない。
『オタクには優しくね。いつか彼らの下で働くことになるかもしれないよ。(“Be nice to nerds. You may end up working for them. ”)』
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そんなことをFacebookに書いたら、「イジメられる側に立つと、異端で、かっこいいかもしれない、未来が気になるって思うんです」とコメントをくれた人がいた。
なるほど、いじめられる側になると未来が気になる、というのは確かにそうかもしれない。
個人的ないじめでも、民族や性別への差別でも、それを受けることで、色々なことを考えるようになる。そして、世の中の様々な問題が繋がっていることがわかってくる。さらに考えていくと、最終的には未来をがどうなるか、どうしたいか、という問いに行き着くのかもしれない。
いじめられる者は、「何か変わった」部分をもっているから、いじめられる。しかし「変わっている」からこそ、人と違うことをやり遂げられる可能性を持っている。結果、社会にも貢献できて、上に立つ可能性も高いはずだ(上に立つことが最終ゴールだとはけっして思わないけれど)。
つまり「変わっている」っていうのは素晴らしい能力で、いじめられるのはその能力の証、みたいなところがあるのではないか。
先のコメントをくれた人は、「イジメをするヤツは凡人、暇人、バカ」だ、と付け加えた。
確かにそうだと思う。
自分と違う考えや能力を持っている人がいるおかげで、世の中全体がより良くなっていく、という当たり前のことがわからない人を「馬鹿」と呼ぶのだろう。