モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

馬鹿を隠すなんて馬鹿のやること

同世代にはよく「若い時は無茶苦茶やったもんだ」と自慢げに話す人がいるのだが、それは要するに「若い頃は馬鹿だった」と白状しているようなものだ。相応の歳になってからそんなこと自慢げに言うのは、今もまだ馬鹿です、とバラしているに等しい。そのことに本人だけが気づいていない。まさに馬鹿だ。

対して、今の若者は概して賢い。賢いから馬鹿なことはしない。たとえ馬鹿なことをしても自ら他人にバラしたりしないのだ。まだ先の長い人生で、馬鹿なことをやったという事実はメリットよりデメリットの方が大きい、と即座に計算できる。

(たまに馬鹿なことをやって、それをわざわざSNSに投稿して炎上してしまう、昔ながらの馬鹿な若者もいるが、それを見て「言語道断」などと言っているのは、「昔馬鹿なことをやった」と自慢する大人だったりする)

 

要するに今の大人たちは生まれてから今に至るまで、ずっと馬鹿なのだ。馬鹿なのに馬鹿でないふりをしているのが、まさに馬鹿である証拠だ。

どうせ馬鹿なら、せめて晩年くらい馬鹿をさらけだそうではないか。最後まで馬鹿を隠し通して死ぬなんて馬鹿のやることだ。

 

私はがこんなことを書いているのは、なにも開き直って自暴自棄になっているからではない。世の中が発展するためには馬鹿が必要である、という歴史的事実に基づいて極めて合理的な意見を述べているだけだ。生物の種が生きながらえてきたのは「突然変異」のおかげではないか。

 

つまり、今の若者が賢いのなら、今の老年が馬鹿になってあげないと、世の中の馬鹿バランスが崩れてしまうという危惧から、こんな一見「馬鹿げたこと」を言っているのだ。馬鹿がいなくなるのは社会の発展上よくない。この馬鹿不足の世の中に馬鹿を表明することこそ、賢者の証である。