モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

自分の実力を「宣告」される時期

「ローゼンタール効果(ピグマリオン効果)」と呼ばれる心理的行動がある。

1964年春、教育現場での実験として、サンフランシスコの小学校で、ハーバード式突発性学習能力予測テストと名づけた普通の知能テストを行ない、学級担任には、今後数ヶ月の間に成績が伸びてくる学習者を割り出すための検査であると説明した。しかし、実際のところ検査には何の意味もなく、実験施行者は、検査の結果と関係なく無作為に選ばれた児童の名簿を学級担任に見せて、この名簿に記載されている児童が、今後数ヶ月の間に成績が伸びる子供達だと伝えた。その後、学級担任は、子供達の成績が向上するという期待を込めて、その子供達を見ていたが、確かに成績が向上していった。報告論文の主張では成績が向上した原因としては、学級担任が子供達に対して、期待のこもった眼差しを向けたこと。さらに、子供達も期待されていることを意識するため、成績が向上していったと主張されている。

ピグマリオン効果 - Wikipedia



現代は、「厳しく鍛える」より「褒めて伸ばす」というのが良しとされる。生徒の視点で考えれば、ローゼンタール効果はそのエビデンスのひとつといえる。

しかし、ローゼンタール効果の原因としてあげられるもうひとつの点、成績を評価する先生が「色眼鏡をかけて」生徒を見るようになる、という点は、公正の観点からは問題である。賢いと思えば、賢く見える。反対に、馬鹿だと思うと馬鹿になってしまう。人間は、先入観から逃れることができない。このことは、以前、「錯覚」の観点からブログに書いた。
人間の理性は感情に勝てない - モノオモイな日々 Lost in Thought



「生徒が伸びるなら、先入観があってもいいじゃないか」という考えもある。しかし、もしある生徒を「贔屓」することで、別な生徒の可能性を殺しているとすれば問題だ。先生が頑張って、すべて生徒を「持ち上げる」ことができたとしても、生徒が実力以上のナルシストになって、現実と能力のギャップに悩んだり、あるいは、ギャップに気づかないのも問題だ。


僕は、ある年齢まではとにかく自信をもたせることを優先し、ある年齢に達したら、自分の実力を客観的に見るような教育をするのがいいと思う。その「宣告」は大学生くらいだろうか。高校生ではまだ可能性がはっきりしないし、仕事についてからではおそすぎると思うからだ。


なにか客観的なデータや事実があるわけではない。ただ、これまで大学の先生や生徒と接した実感として、大学が「全入時代」と呼ばれる昨今、大学教育があまりに寄り添いすぎているように思えるのだ。大学で「現実」を観なければ、社会に出てから見ることになるだけ。あとになるほどやり直すことは難しく、自分にとっても周囲にとっても影響は大きい。


昔のような、けっしてほめないスパルタ教育がいいとは思わないが、雨風くらい平気、嵐でもなんとか耐えられるような人間を育てることも教育だと思う。もしかしたら、そんな芯さえ手に入れれば、後は自分でやっていけるのではないだろうか。