モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

寄り道と人生について

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この春、生まれて初めて(そしておそらく人生で最後になるだろう)東京大学の入学式に参列した。ハリーポッターの世界のような、秘密の儀式めいた雰囲気が面白かったが、正直に言うと、壇上に立った人たちの話はたいして印象に残らなかった。日本が今、様々な問題に直面していることや、これからの国際化の必要性と言った現実的な話はもちろん大事なのだろうが、人生に一度の入学式、それも今から自分の意思で人生を歩き始めようとする若者たちへのメッセージなら、もっと夢のある話をしてほしい、と思った。何より、世の中に夢がなくなりつつあることがもっとも大きな危機だ。せめて大学は若者に夢を与える場所であって欲しい、と、夢を失いつつある大人は思う。


そんな愚痴はともかく、今回は「寄り道」について書きたいと思う。入学式の壇上に立ったどなたかが(年配の記憶力はその程度だ)、「思い切って休学して海外に行くのもよい」と言う主旨の発言をされていた。「ギャップイヤー」と呼ぶそうで、例えば1年間休学して、海外でボランティアや職業体験などの社会勉強をする。これを、「人生の寄り道」と呼んでいた。なるほど、「人生の寄り道」か。そういうのも、良いかもしれない。でも、何かが心に引っかかった。


それから3ヶ月近くがたち、先日偶然、ギャップイヤーを取り上げた記事を目にした。そこにはまた、「人生に寄り道を」と書かれていた。やはり、何かが引っかかる。そこで僕も、少し「寄り道」して考えてみた。若くはないけれど。


「人生に寄り道を」と言う時、その背後には次のような考えがあると思う。

個々の人生には「本道」があり、人生とはそこを歩むことだ。その「本道」の先には、目指すべき場所がある。そこへ向かって歩くのが、あなたの人生だ。でも、本道ばかり歩いていては疲れてしまう。人間としての幅も広がらない。たまには本道を外れて、寄り道してみてはどうか。寄り道で得た体験を、また本道の歩みに活かせば良い。


僕が「引っかかった」のは、多分、次のようなことだ。
そもそも人生に、本道はあるのだろうか?たとえ本道があるにしても、人生の道を今から本格的に歩こうとする人に、都合よく準備されているのだろうか?あるいはすぐに「これが本道だ」と、見つけられるのだろうか?
誰かが自分のために道を作り、「さあ、ここを歩きなさい」と与えてくれる。自分がやるべき仕事は、その道ををいかに着実に、効率的に歩くかを考えることなのだ。もし、若者がそんな意識を持ったとすれば、それが一番の問題ではないか。


この世に生まれた人に与えられたものがあるとすれば、それは道ではなく、原野だと思う。その原野をどう使うか、それは自分次第だ。景色を眺めるか、野原を走り回るか、丘に登るか、あるいは、よい場所を見つけて家を作り、畑を耕し木を植えるか。他の人と一緒に何かをしてもよいだろう。

もちろん、原野に道を作り、どこかを目指して歩くこともできる。それは素晴らしい行為だ。しかし、それは自分に与えられた無限の選択肢のひとつでしかない。少なくとも、まず自分の原野のことを知らずに道は作れない。知らない場所を探検し、想像し、考える。そこで生きていくための力をつける。そういうことを行なってから、どんな道をどこへ向かって作るかを決める。それが自然な順番だろうし、そこから始めなければ、しっかりした道にはならない。何より、自分の道にはならない。


「寄り道」と言う行為は、道を作り、あるいは見つけ、歩みを始めた人にとっては意味があるだろう。しかし、これから行く方向を決めようと言う若い人にとっては、まだ、どれが本道で、どれが寄り道かの区別もないだろう。そもそも道がないのだから。


「道はない 歩いた跡が道になる」と言った人がいる。

僕はこう思う。人生の道なんて無くてもよい。むしろ無いほうが面白い。素敵な場所を見つけ、そこで遊び、たまに気が向いたら道を作ってみる。飽きたらまた違うことをする。違う道を作る。

そんな毎日が楽しくて仕方がない、と思えたら、多分、理想の人生を歩いているのだと思う。