モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

コミュニケーションは幻想かもしれないが、それでいい

以前、ある著名な数学者の講演を聴いたことがある。一般向けの講演だったが、場所が大学だったこともあってか、講演者は他の研究者・学者にむけて話しているようで、話の本質を捉えるのは難しかった。自分がどこまで理解できているかを測る尺度さえわからないほど、理解できなかった。

数学や基礎物理学には興味があるので、たまに講演を聴きにいくのだが、正直なところ「腑に落ちた」と思えるほど理解できることは稀だ。数学にしても基礎物理学にしても、ある壁を越えるか越えないかで、理解度は大きく違う。「ゼロかイチか」に近い状態だ。ただ、理解できない時は知ったかぶりもできないので、講演の後、知り合いに間違った意見を述べることもないのは、せめてもの救いではある。

一方で、人文系の学問では、理解しているかしていないかの境界線はもっと曖昧になる。相当難しい哲学書を読んでも、部分的にはわかった気になる。実は自分が理解できてそうな部分だけを取り出して理解した気になっているだけなのだろうが、それでも何かを理解した気にはなれる。そのほんの小さな、もしかしたら本質とはかけ離れた理解を、他人に話すこともできてしまうのだ。そこは、数学や物理学のような「ゼロかイチか」タイプの学問とはまったく違う。


人文系学問のこの性質は、学問のような高尚なものだけでなく、人の話や書いたものでも同じだ。話を聴いたり文章を読んだりして、まったくわからない、ということは稀だと思う(それが日本語であれば)。実は一割も理解していないのかもしれないのに、その一割だけを元手に友だちと議論しているかもしれない。議論できてしまうのだ。


コミュニケーションの前提条件は、コミュニケーションの対象となっている事柄について最低限の知識や経験を共有しているということだと思う。それがなければ真のコミュニケーションは成立しないはずだ。たとえば、僕が、突然地球にやってきたサイヤ人とコミュニケーションできないのは、共有している知識や経験が何もないからだ。

サイヤ人とまではいかなくても、普段の生活の中で、同僚や顧客、友人や家族との間でさえ、コミュニケーションの対象となっている事柄について十分な知識・経験を共有しているかは疑わしい。しかし、その点には「目をつぶって」、必要な知識を共有していると仮定してコミュニケーションを進めている。逆に言えば、共有の程度について目をつぶらなければ、コミュニケーションできないと薄々気づいている。必要な知識・経験を完全に共有できていることなんてほぼあり得ないことは、少し考えればわかるにもかかわらず、だ。

人とコミュニケーションする時、このことを忘れてはいけないと思う。たとえば、フェイスブックである記事について議論する時、その記事をどのように理解するかは、読む人の知識や経験に大きく影響され、人によって違うはずだ。ただコミュニケーションを前に進めるために「ほぼ同程度理解している」と仮定して議論しているにすぎない。その違いを意識しないと、論点があやふやになってしまう。時にはお互いがすれ違っていることさえ気づかずに不毛な議論が続く。いや、実際にはほとんどのやり取りはすれ違っているのかもしれない。ただお互いに「相手を理解し、相手に理解されている」と信じているだけなのだ。


つまり、コミュニケーションは幻想だ。十分な知識・経験を共有し、ある事実について同じ「感覚」からスタートできるなんて、ほぼありえない。ただ、お互いに理解していると思い込もうとしているだけなのだ。


そう書くと何か絶望的で、「人と話しても無駄だ」と自暴自棄になりそうだが、それもまた違うと思う。人はみな理解の内容・程度が違うのだと割り切り、それを知った上でそれぞれの意見を述べ合えばいい。人々の多様性は集合知にとってむしろプラスなのだ。集合知は「みんな違ってみんないい」という基本思想の上に成り立つ。その違いを受け入れることは、集合知を正しく機能させるためにもっとも重要なことだ。つまり、「すれ違い」があるからこそ、新しい発見・進歩があるのだ。

コミュニケーションは幻想である。だからこそ、膨大な幻想の中から共通した部分を拾っていくことが大事だ。それが人類の知識・知恵を発展させる唯一の道なのだから。


…と威勢よく書いてはみたが、僕の意見に同意しない人もたくさんいるだろう。でも、それでいいのだ。