モノオモイな日々 Lost in Thought

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あたらしいものは思いがけず生まれる〜井上ひさし「小説と芝居について」

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昭和の庶民の文学者の代表格、井上ひさしさんの講演。1988年、昭和最後の年に行われたものだ。


第一印象。井上ひさしさんの話は、まるで即興の芝居のようだ。鋭い観察眼から得られた小さな発見や、博学に裏付けられた雑学に、あたらしいアイデアや物語がどんどん組み合わされて、いつの間にかエンターテイメント作品が生まれていく。フィクションとノンフィクションが入り混じって、話は予想外の方向にどんどん発展し、これまでにない物語が創られる。その創作課程をライブで聴きながら、聴衆はいつの間にか引き込まる。そんな風に思うのだ。


たとえば、芝居のすばらしさを伝えるため、井上さんは架空の公演を作りだす。主役は舞台の上の役者ではなく、様々な理由で芝居を見に来た観客たちだ。

ある芝居小屋でシェイクスピアマクベスが上演されることになった。客席のとある列には、お互いを知らない、何名かの人々がたまたま居合わせて座っている。一番端は、好きな女性に「自分が好きだったら芝居に来てほしい」とチケットを渡し、その彼女が隣の席に来るかどうかをドキドキしながら待っている青年。その隣は、来るか来ないかわからない彼女のための席。その次は、シェイクスピアの芝居を暗記できるほど読んで、セリフを暗記するくらい研究してきた大学の教授。今日の芝居はどうかね、と高所から見物している。その隣は芝居に殆ど来たことがないおばあさん。息子夫婦に邪魔者扱いされ、追い出されるようにチケットを渡され、演目のこともシェイクスピアのことも何もしらずにやってきた。主役を演じる江守徹の大ファンのサラリーマン。事業がうまくいかず、借金取りから身を隠すように逃れてきた経営者。その経営者は、青年の彼女がキャンセルしたチケットを買って、青年の隣に座る…。


それぞれ違う理由で芝居にやってきて、それぞれ別なことを考えていた客たちが、素晴らしい芝居に引き込まれ、芝居からなにかを与えられて、心がつながっていく。芝居が終わり、それぞれはまた別の場所に戻っていくが、それぞれの顔は芝居の前とは変わっていて、芝居の前にはなかった心のつながりができている。


井上さんの細やかでユーモアにあふれた人物描写は、まさに名人芸で、僕にはとても書き表すことはできないが、とにかく奇想天外な発想と細やかな観察に引き込まれてしまう。それぞれの人物の性格や容姿が頭の中に浮かんできて、こういう人いるよな、と思ったり、冗談のようだけど、それってけっこう人生の真髄だな、考えたり。それぞれの「登場人物」が芝居にやってきた背景を聴くだけで、もう物語にどっぷりと使ってしまった自分に気がつく。それは、絵画に例えるなら、まっしろなキャンバスにさまざまな色の絵の具が、さまざまなタッチで塗られていき、だんだんと絵の形が見えてくる。そんなプロセスに立ちっているかのような臨場感がある。井上さんの講演の録音を聴きながら、講演会場がだんたん一体になっていく様子を感じている。



博学の井上さんは、小説や芝居に関する、ちょっとした知識も教えてくれる。英国で小説が普及するきっかけとなった「パミラ」は、英国の印刷工、リチャードソンが書いたものだそうだ。当時、貴族の文化だった「手紙」が庶民にもひろまった。いわゆる郵便制度ができたのだ。自分の文字を書いた紙を集配人が集めて遠くにいる人に届けてくれる、というのは画期的なイノベーションで、多くの庶民が手紙を書き始めた。しかし、庶民は手紙の書き方がわからない。そこで、手紙の書き方についての本が当時ベストセラーだったそうだ。リチャードソンも手紙の書き方の本を書こうと思うが、すでにたくさんの本があって、よほど工夫しないと売れそうにない。そこで考えついたのが「物語」だった。田舎に住むある若い女性(その名前がパミラ)が、都会の貴族の家に女中として住み込む。そこで起きたことを、田舎の両親に手紙で伝える、という形で、物語を楽しみながら手紙の書き方を伝えようと考えたのだ。


パミラは、同じ貴族の家で働く若い青年と恋に落ちるが、家の主もまたパミラを見初め、なんとか手に入れようとする。パミラは日々の出来ごとを両親に伝えるという形で、手紙の書き方を伝えるのだが、この本を読んだ庶民は、手紙の書き方はそっちのけで、物語に熱中する。パミラは主の毒牙にかかってしまうのか、青年とめでたく結ばれるのか、パミラの恋の行方に庶民は没頭してしまったのだ(ちなみに、最後にはパミラはめでたく青年と結ばれ、その結婚式に両親を招待する手紙で、この「小説」は終わるそうだ)。


こうしてできた「小説」は、以後、英国中、さらに世界中の人々を魅了するのだが、そのはじまりは、けっして「小説というものを作ろう」として作られたのではないことがわかる。それは、他のあらゆる発明や発見をみても同じなのかもしれない。しかし、なにかが生まれる時には、作っている人も、それを評価する人も、最初にはっきりとしたフレームワークがあるのではないから、あたらしいものを作っているという意識もないだろう。これまで世の中になかったものが生まれるののだから、当たり前といえば当たり前だが、なかなか意識しにくい真実だ。



人間の知恵というのは、必ずしも目的があるわけではない。むしろ、目先の目的がないからこそ、より広く大きなヒントを与えてくれる本当の知恵になるのかもしれない。今年の会社の利益や、職場の人間関係といった、今、目先にあることに悩むのは人間の本能でもある。しかし、そういった眼前の問題を解決することだけにとらわれると、目の前の苦しみを解決するだけの人生になってしまう。そこで、ちょっとその場を離れて、少し違う視点、もっと広い視点から自分と自分がおかれた環境を見ることができればば、より素晴らしい解決策が見つかるだろう。自分の視点が変われば、それまで「問題」だと思っていたことは問題ではなくなり、探していた「解決策」も意味はなくなる。そういう意味で目先のことを忘れられたら、それはすばらしいことだろう。漱石の「則天去私」にも通ずる考え方なのかもしれない。



井上さんは講演の最後の方に、ニューヨーク公立図書館の話を付け加える。ニューヨーク市は、建替えで不要になったグリニッジビレッジにある古い図書館の建物を、ある若い演出家に貸し出すことにした(その若い演出家は、後に大プロデューサーとなるジョセフ・タップ)。貸出料は年1ドル。事実上、無料のようなものだ。しかも自由につかっていい、という条件で(というか、そういうのは条件がないというべきか)。演出家はそこにシアターを3つ作り、そこに役者や音楽家、アーティストが集まり、芝居やコンサートが開かれる。そこに市民や観光客が集まり、あたらしい文化の拠点となっていく。好評を博した芝居はブロードウェイで公演された。その一つが、あの「コーラスライン」だ。「コーラスライン」はブロードウェイでロングラン公演され、ニューヨーク以外の人どころか、世界中の人々が観にやってきた。ニューヨーク市は、観光客がホテルに滞在すると2ドルの税金を取る。その人たちが払った税金だけでも、ニューヨーク市の行政は、図書館を年1ドルで貸し出した投資のもとを取り返し、さらには市の財政の収入源を創り出した。元図書館には俳優養成所も作られ、そこから、ダスティン・ホフマンロバート・デニーロメリル・ストリープなど、やがて映画界を牽引する大スターが生まれた。


文化や芸術というものは、目先の利益につながることは少ない。お金に結びつけようとすると、ホンモノの文化や芸術ではなくなる、ということもできる。しかし、文化や芸術に価値がないわけではない。それらは、人間の奥深いところに届き、人々の集まりである社会を少しずつ変えていき、世代を超えて受け継がれる。これもまた、人類の偉大な進化の道筋ではないだろうか。芸術や文化を疎かにする社会は、いずれ滅びてしまう。



井上ひさしさんの語りは、肩の力を抜いてくれるユーモアの中に、もっと視点や発想を広げて、柔らかく発想してはいかが?そうすれば、あたらしいものは自然に生まれるかもしれませんよ、という声が聞こえてくる。奇想天外で滑稽な話に笑いながら、いつの間にか芸術や文化について考えさせてくれた井上ひさしさんは、すばらしい現代の語り部だ。