モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

最初の一文字

文章を書く仕事では、なかなか最初の一文字を書き出せないことがあります。早くやらなくちゃ、という気持ちを、もう少し待ったほうがいい、という気持ちが抑えるんですね。

それは、その言葉がまだ自分の中で十分熟していないということに、自分自身が気づいているからだと思います。

だから、こうやってFacebookに投稿するのは、けっして暇だったり、さぼったりしているわけではないのです。何かが熟すのを待つために、あえてそこから離れる時間を作っているんです。

以上、今、アウトプットを待っている人への遠回しの言い訳として笑


(写真は、徒歩通勤の途中にある、謎の「フェイク窓」ビルディング)

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誰もが生きていける社会

新型コロナの影響を受けた人はすぐにでも救わなければなりません。しかし、付け焼き刃の、人気取りやガス抜きの政策では、今の危機が去っても、必ずいつかまた同じ問題がやってくるでしよう。

 

誰もが生きていける、そんな世の中を作るのが、最低限の政治の役目だと思うんです。憲法にそう書かれているから、だけではなく、誰もが能力を発揮することで、より良いものや考えが生まれると思うからです。それが本当の「国力」です。その結果、誰もが幸せになる。それが「国益」です。

 

しかし、今の政治は、ぬくぬくとやってる人にばかり目を向けて、辛い思いをしている人たちを切り捨てる。

 

そんな逆なことばっかりやってるから、たまに吠えてしまうんです。

 

 

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Mさんへのメッセージ

Mさん、昨日はメッセージありがとう。

5年近く住んだアメリカから離れて、もう15年以上。最近はすっかり日本の文化に浸かって、アメリカにいた頃のことをどんどん忘れていってますが、米国に長らく住んでいるMさんや、何人かの米国在住のFacebookともだちの投稿で米国の様子を知ることができるのは、嬉しいことです。ものぐさな僕は、昔の知人に手紙やメールを送るようなこまめさがないので(今や年賀状の返信さえ書かなくなってしまった!)、あまり努力せずに他の人と繋がっていられるSNSには感謝しています。


今回の大統領選をニュースでみていて、僕がアメリカにいた頃、ちょうど、ブッシュとアル・ゴアの選挙があったことを思い出しました。フロリダ州の集計疑惑についてもよく覚えています。それと、人々の政治への関心の高さ。当時、息子はElementary Schoolの1年生だったのですが、学校の後通っていた学童保育みたいな場所(英語でなんといったかな)で、そこの先生が、子どもたちに「あなたはブッシュとゴアどちらに投票しますか?なぜですか?」と聴いていました。大人の僕でさえ、とっさには答えられない質問で、こんな小さな子どもに答えられるのかな、と反射的に思ってしまいました。しかし、小さな頃からそういう教育を受ける、というか、大人が子どもを一人の人間として扱う文化が、人々への政治への関心を育てているのでしょうね。日本では、いまだに、学校でも会社でも政治の話はタブー。生徒の政治的な活動を禁止する、と堂々という学校もあります。政治の話をする人間は煙たがられる雰囲気です。僕には米国の方が健全だと思えます。ただ、政治的関心の強さが、強い分断を生む基盤にもなっているのでしょう。


米国にいた当時、一緒に働いていた企業のエンジニアの一人と今でもFacebookでつながっていますが、彼(白人)はかなりのトランプ派です。もっとも彼と政治の話をしたことは一度もないし、彼のほとんどの投稿は政治とは関係のないもので、ジョーク好きで、家族愛に溢れたナイスガイです。そもそも、日本人である僕と進んで友だちでいてくれるのだから、差別心が強い人間ではないと思います。ただ、トランプのことは心底応援している。もし僕が普段の彼を知らずに、ただトランプ支持者だと知ったら、彼はきっと利己的で人間的に欠陥があるのだ、と思って近づこうとしないでしょう。たまたま彼のことをよく知っているから、彼がトランプを応援していても、彼はけっしておかしなやつではない、と考え直せます。そして、彼がトランプを応援する気持ちも少しはわかる気がします。それは、(白人としての)一種のプライドであり、旧来の権力者への反感であり、家族や地域の人々を大切にする公共心なのだと。自分のことだけでなく、自分が属するコミュニティを大事にしようという気持ちが強い人ほど、むしろトランプを支持するのかもしれない。リベラルとの違いは、自分が大事だと思うコミュニティの対象と大きさだけなのかな、と。


日本では、いうまでもなく、安倍政権(とその周囲の人たち)が好きか嫌いか、で人々は2つにわかれています。ただ、日本人のほとんどは、政治に関心がない、というのか、政治のことを知ろうとしないので、米国ほど表立った分断にはみえません。内にもぐっているから、実態がわからず、より怖いようにも思います。人前で政治の話をしない、というのは、ねじまがった防衛本能だと思います。政治のことを人前で語ると「危険なやつ」と思われる、と自分で勝手に思っているわけです。ある種の「自発的隷従」といえるかもしれません。これは、政治とは何かを考えると、すごくおかしなことだと思うのですが、そういう僕も普段は政治のことはあまり話さないほうがいいかなと感じている。Facebookでもかなり抑えているつもりです。抑えているといっても、他の人よりは政治に関する投稿をしてますけどね。実は僕にとても近いところにも、安倍信望者がいて、ほんとうはもっと接しなければいけない人なのだけど、どうしても近づきがたく、避けてしまっています。別にその人と政治の話をするわけではないし、常識的で真面目で頭のいい人なんだけど、政治的信条の違いがあることを知ると、なぜかその人を認められない。それは偏った見方だと頭ではわかっていても、公平に接することはできない。人間というは非合理的で弱いものだと思います。


そんな状況をどう克服すればいいのだろうか。最近読んだ本に、資本主義の宿命として、人々はどんどん短期的利益を追求するようになる、だから、日頃から、短期的利益に走ろうとする気持ちをおさえて、長期的利益に目を向ける努力をしなければいけない、という主旨のことが書いてありました。これは実感としてとても納得できる意見で、ここに現状克服のヒントがあるのではないか、と直感的に思いました。たとえば今、「世界平和が大事だ」などというと、特に日本では、なんだか冷たい目でみられるでしょう。そんなことよりビジネスの話をしようぜ、みたいな空気。ビジネスの話でも、世の中に貢献する本当のビジネスなら全力で取り組むべきですが、多くの人は、ビジネス=お金儲け、という短期的視野しかないように感じます。そんな人々に「(人類にとっての)長期的な利益」に目をむけさせることができれば、結果として、現在の分断を弱められるのではないでしょうか。実際、人種・民族・性別などによる差別、経済的格差の拡大、環境・エネルギー問題など、地球規模で考えれば、これまでになくさまざまな問題が露呈しはじめているわけで、そういった問題を単なる情報として捉えるのではなく、自分に関わりのある「自分ごと」として捉えることが必要ではないだろうか。やや陰謀論めいた話になってしまいますが、今の権力者は、人々から長期的視野を奪うために、「甘いお菓子」をぶら下げて、短期的利益にばかり目を向けさせているのではないか、とさえ思います。


なんだかまとまりがない話になりました。とにかく、こんなことを漠然と考えていた僕にとって、Mさんとのやりとりのきっかけとなった上祐史浩氏の投稿は、とても納得がいくものでした。「元オウム真理教広報」の言うことなんか信じられるか!という偏見をなくせば、彼の投稿は、多くの人がが見ようとしていないことに目を向けさせ、大きなヒントを与えてくれると思ったのです。だから、それにMさんが反応してくれのは、嬉しかったです。


時間がたって、世の中全体の雰囲気が変われば、人々の感じ方や考え方も変わって、今は二分されている人々も、再び近づいていくのではないでしょうか。なんとなくでしかありませんが、そう信じています。今現在は、たまたまある力に引っ張られたために、あるものは見えてもあるものが見えないといった状態にいても、まわりの力(「空気」や「場」のようなもの)が変われば、さまざまなものを、異なった視点から公平に見られるようになるのでは、という希望をもっています。自分自身も、そうなれることを信じたいです。

未来への種を蒔くプロダクション「ミライ・プロ」の提案

<以下は、2019年、ナレッジキャピタル「ワイガヤサロン」の活動の中で作成した、2025年万博に向けた新しいプロジェクトの提案書である。一部、背景を知らないと理解しにくいところもあるが、原文のまま掲載する。内容の大筋は、以前から私がやりたいと思っていたことそのものであり、これからもその可能性を探りたいプロジェクトである。>



子どもたちや若い人々、海外の人々に、未来への指針と夢をあたえるコンテンツを創る、あたらしい制作プロダクション、「ミライプロ(仮称)」を設立することを提案します。
今、第一線で活躍している研究者・技術者・企業人が、その仕事に就こうと思ったきっかけに、子供の頃みた漫画やアニメーション、映画があった、と述べています。たしかに、70年万博の前後にも、未来の科学技術や当時の社会問題をテーマにした、良質な子供番組が数多く放映されていました。それらのコンテンツが当時の子どもに夢の種を与え、それぞれの子どもがその種を育て、おとなになって花をさかせたのではないでしょうか。そのような、子どもたちに夢を与え、未来をつくるきっかけになるコンテンツを、2025年に向けて、あらためて作りたいと思います。

そのようなコンテンツを創る「基地」が「ミライプロ」です。ミライプロは、次世代の子供たちを育てるとともに、「感性」が高く、「編集力」の優れた、良質のコンテンツを創る人材も育てます。エンターテイメントだけでなく、ドキュメンタリーも含め、また、ジャーナリズムの分野もカバーすることを目指します。


## 背景(または、提案の背景にある思い)

私はこれまで、科学技術系をテーマにした映像制作や記事執筆の仕事をしてきました。その中で、数多くの研究者・技術者にインタビューしてきましたが、「どうしてこの研究者・技術者になろうと思ったのですか?」という質問をすると、「子供の頃、若い頃に観たTV番組や映画、SF小説に影響されたのです」と答える人が、とても多いことに気がつきました。

たとえば、「小さい頃、『サンダーバード』を観て航空宇宙分野の研究者になろうと思った」とか、「昔から『ガンダム』が大好きで、今、ロボットを作っています」。あるいは、「映画『マイノリティ・リポート』でトム・クルーズが操作する空中映像がかっこよくて、ヒューマン・インターフェースを研究したいと思ったんです」など、第一線で活躍する研究者・技術者が、子供の頃観たアニメーションや漫画・映画・小説を思い出しながら、とても楽しそうに話す様子が印象的でした。

70年万博の頃を思い返してみると、さまざまな映画・TV番組が制作されていたことがわかります。たとえば、『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』など円谷プロダクションの特撮シリーズ、東宝の『ゴジラ』や大映の『ガメラ』など怪獣もの、『長靴をはいた猫』や『空飛ぶゆうれい船』などの東映のアニメーション、『鉄腕アトム』『火の鳥』など手塚治虫の漫画・『虫プロ』のアニメーション、など、良質な漫画・アニメ・映画・小説は、子どもたちの好奇心を育み、今の道にすすむきっかけとして、とても大きな影響を与えたのではないでしょうか。

もうひとつ、本提案の背後にある、私の経験をお話したいと思います。それは、2000年前後、メーカーの技術者として米国に約5年間駐在し、現地で暮らした体験です。当時、米国はほとんどの家庭にケーブルテレビが普及し、数多くのチャンネルを通じて、さまざまな番組(コンテンツ)を視聴することができました。その中でも特徴的な番組が、ドキュメンタリーでした。『ディスカバリーチャンネル』、『ヒストリーチャンネル』『ナショナルジオグラフィック』など、良質なドキュメンタリー番組を家庭でいつでも観られる環境があり、それらの番組を視聴するうちに、このようなドキュメンタリーが、科学技術や歴史・文化・芸術への子どもたちの興味を養い、未来への夢を形作っているのではないかと思うようになりました。これらの番組は米国内だけでなく世界中で放映されているので、全世界にいる、能力の高い子どもたちが、米国で科学者・技術者になりたいというモチベーションをもつだろう。それが、米国の強さになっているのではないだろうか。そんな風に感じたのです。

この2つの経験から、私が確信したのは、「子どもたちに夢を与えるコンテンツが、その国・社会の次の時代を創る、大きな力になっている」ということです。言い換えれば、未来をつくる人材を育てるためには、若いうちに夢と刺激を与えるようなコンテンツが必要だ、ということです。

コンテンツが子どもたち・若者に与えるのは「夢」だけではありません。自国や地方、海外の国々の歴史・文化、また、社会がかかえる問題などを知ることも大切です。難しい知識を勉強するのではなく、体験・体感を通じて、楽しみながら、自然に知らせ、考えさせることができるのが、コンテンツのもつ大きな特長です。

1970年の万国博覧会の前後に放映された『ウルトラセブン』などの脚本を手がけた金城哲夫は、当時まだ米国領だった沖縄の出身でした。金城は「外国」である本土で脚本家として働いてきた、彼自身の体験の中でうまれた問題意識をテーマにしたシナリオをいくつも書いています。それは子どもには少し難しいテーマかもしれませんし、答がすぐに見つかる問題でもないでしょう。しかし、金城は、彼の脚本を通じて、社会が抱える問題を子どもに伝え、考えさせることによって、子どもたちに未来を託したのではないでしょうか。

ウルトラシリーズでは、金城以外の脚本家も、公害、差別、貧困、戦争・核兵器など、それぞれの問題意識を脚本の中に入れ、子どもたちに届けました。虫プロ東映のアニメ、その他のテレビ番組も、おとなになった今、あらためて観てみると、当時のさまざまな社会問題が時に明白に、時には間接的に埋め込まれていることに気付かされます。このように、私たちの社会、未来について考える意識を育てるのも、コンテンツの大きな使命だと思います。

ナレッジキャピタルともつながりの深い、国立民族学博物館を創設した梅棹忠夫は、70年万博と同時期であるテレビの黎明期に書いた論考集、「情報の文明学」の中で、「放送産業は教育産業である」と喝破しました。当時、テレビは娯楽の媒体であり、「常識的な」人々の多くは「テレビなんか見ていると頭が悪くなる」と考えていた時代です。教育どころか「害悪」とさえ思われていたテレビの意義を、梅棹は「教育」であると主張したのです。梅棹は、子どもたちや一般の大人にとって、テレビというあたらしいメディアは、学校とは違った方法で知識を与え、人々の好奇心を育む役割があり、社会全体の知のレベルを向上させるものになる期待していました。テレビを見て育った子どもたちが社会に出た時、テレビから得た知識や経験を糧に社会を変えていくだろう。梅棹は、そんな未来を、テレビ放送に見ていたのだと思います。これは、冒頭に述べた、研究者・技術者がインタビューで語ったことと合致しています。梅棹の洞察は、正しかったのです。

子ども向けの映画やテレビ番組・漫画や小説は、ただ楽しいだけの「甘いお菓子」ではないはずです。それらには、あたらしい技術や科学といった未来の可能性に加えて、今、社会がかかえている問題を子どもたちに伝え、それについて少し考えてほしい、いうメッセージが込められているのではないでしょうか。すなわち、コンテンツは子どもたちの「お菓子」であると同時に「栄養」でもあるはずです。そんなコンテンツを創る義務が、わたしたち大人にあると思います。

もうひとつ、付け加えたい背景があります。それは、今、じわじわと拡がっている「ジャーナリズムの危機」の問題です。

国境なき記者団が年1回発表している「世界報道自由度ランキング」で日本は世界180カ国中70位近辺(2016〜17年は72位、2018〜19年は67位)と過去最低レベルで低迷しています。G7の中では最下位で、今、国民の権利が侵害されつつあり、市民が懸命に抵抗している香港と変わらない順位です。

現在おきていることを正しく把握できなければ、どんな未来に向かえばいいかという判断を誤ってしまう恐れは大きくなります。最悪の場合、間違った未来に向かっていても、それにさえ気づかないかもしれません。国内・国外の動向を、「フェイク」を見抜き、「事実」をもとに正しく把握することができれば、未来を予測する精度もあがります。この先頭に立つのが、本来のジャーナリズムの役目だと思います。

今、既存のマスメディアが、ジャーナリズムとして本来あるべき機能や自由を失っているのなら、ジャーナリズムの外にある人や組織が、既存メディアの代わりに、真実を伝える活動を行うために立ち上がらなければならないと思います。そのひとつの方法は、ある地域やある分野の第一線で活動している人・組織が、それぞれの専門性を活かした「マイクロ・メディア」(「オウンド・メディア」)を持つことだと考えます。2025年の万博で、世界の人々が賛同する未来像を示すためには、正しい未来に向かうために必要な情報を集め、それを翻訳し、伝えるメディアを創らなければなりません。

以上が、「ミライプロ」提案の背景にある私の思いです。明日、花を咲かせるためには、今日、その種を植え、水や肥料を与える活動が必要です。それを具現化する活動が、夢を与えるコンテンツ制作だと考えています。



## 提案詳細

###1.ミライプロの機能

夢をあたえる制作プロダクション、「ミライプロ」は、次の3つの機能を持ちます。

1)アート・カルチャー・サイエンス・テクノロジーをテーマにした、エンターテイメント・コンテンツのプロデュース・制作と発信
2) アート・カルチャー・サイエンス・テクノロジーの分野のドキュメンタリー映像・書籍の企画・制作と発信
3) VR/MR、インタラクティブ技術などあたらしいテクノロジーを使ったメディア(機器)の開発と普及
4)それぞれのコンテンツを制作・開発する人材の育成

発信の対象メディアは次の通り。ただし状況に応じて臨機応変に対応します。
・映画、TV番組、ネット番組
・漫画、雑誌、小説、ドキュメンタリー
・各種イベント




### 2.ミライプロのプロジェクト

上の機能を具体的に実現するため、次のプロジェクトを起ち上げます。

#### プロジェクト1 映画・小説のプロデュース
サイエンス・テクノロジー・アート・カルチャーをベースにした映画、アニメーション、小説などのプロデュースを行います。
資金調達は、外部ファンドと連携して行い、脚本・監督などのメイン制作者はコンテストによって発掘、実際の制作経験を通じて人材育成を行います(後述)。

#### プロジェクト2 先端テクノロジーを活用した体感型機器の開発
VR/MR、AI、ロボットなどの先端テクノロジーを活用し、体感型機器・システムを開発し、情報発信やコンテンツの表現方法として活用します。

### プロジェクト3:クリエイティブ・コンテスト
脚#本家、監督、アニメータ、漫画家、小説家など、若い、優秀なコンテンツ制作人材を発掘、育成するためコンテストを実施します。ISCA、ショートフィルムフェスティバルなど、ナレッジキャピタルの既存コンテストとも連携します。コンテストの優秀者は、「ミライプロ」で実際に仕事をしてもらうことで、人材育成を行います。

#### プロジェクト4:「出版社」の設立
情報を人々に伝えるためには、創るだけでなく、広く発信するための情報発信基地が必要です。そのための、あたらしい「出版社」を設立します。
旧来の書籍や雑誌だけを対象とするのではなく、テレビ番組、オンラインメディア・映像・VR/MRなど、さまざまなメディアを分野横断的に企画・制作する、情報発信プラットフォームです。

#### プロジェクト5:社会活動支援
良質のコンテンツを生み出すには、幅広い見識・教養を持ち、さまざまな社会の問題を把握し、解決方法を提案する能力と姿勢も重要だと考えます。そのためには、教育、文化財保護、弱者支援など、さまざまな社会活動に参加し、社会に貢献します。この活動によって人材育成を図るとともに、そこで得た経験や知識をコンテンツ制作に活かすことで、より質の高いコンテンツを創ります。

つかず離れず

人との関係において、「つかず離れず」という距離感は心地よい。

近すぎると影響を受けすぎて時に煩わしくなるし、遠すぎるとその人に頼ることができない。ただ、そういう主観的な、ある意味で自分勝手な理由だけでなく、「つかず離れず」の関係は、二人の能力を最大限に発揮できる関係だと思うのだ。

物理の世界に称えると、それは、電荷を帯びた2つの素粒子(たとえば陽子)のようなものかもしれない。プラス同士は反発する。近づくほどその反発力は大きくなり、2つを近づけるには大きなエネルギーが必要になる。たいていの場合、2つは遠く離れてしまう。

しかし、ある距離を超えて近づくと、新たな吸引力が現れ始める(物理学では「強い力」と呼んでいる)。さらに近づくと電荷による反発力よりも、強い力による吸引力が強くなる。2つの陽子は強く結合してしまい、一体になる。この状態は安定はしているが、何かを生み出すダイナミズムがない。変化を生み出すのは、不安定性なのだ。

「つかず離れず」は、反発力と吸引力がつりあった絶妙な場所なのだ。その場所は不安定だが、逆に言えば、もっともダイナミックで、もっとも大きな可能性を秘めている。


人と人との関係においても、まず「つかず離れず」の状態に近づける努力をすることかもしれない。そうすれば、自然となにかが生まれるだろう。

あたらしいものは思いがけず生まれる〜井上ひさし「小説と芝居について」

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昭和の庶民の文学者の代表格、井上ひさしさんの講演。1988年、昭和最後の年に行われたものだ。


第一印象。井上ひさしさんの話は、まるで即興の芝居のようだ。鋭い観察眼から得られた小さな発見や、博学に裏付けられた雑学に、あたらしいアイデアや物語がどんどん組み合わされて、いつの間にかエンターテイメント作品が生まれていく。フィクションとノンフィクションが入り混じって、話は予想外の方向にどんどん発展し、これまでにない物語が創られる。その創作課程をライブで聴きながら、聴衆はいつの間にか引き込まる。そんな風に思うのだ。


たとえば、芝居のすばらしさを伝えるため、井上さんは架空の公演を作りだす。主役は舞台の上の役者ではなく、様々な理由で芝居を見に来た観客たちだ。

ある芝居小屋でシェイクスピアマクベスが上演されることになった。客席のとある列には、お互いを知らない、何名かの人々がたまたま居合わせて座っている。一番端は、好きな女性に「自分が好きだったら芝居に来てほしい」とチケットを渡し、その彼女が隣の席に来るかどうかをドキドキしながら待っている青年。その隣は、来るか来ないかわからない彼女のための席。その次は、シェイクスピアの芝居を暗記できるほど読んで、セリフを暗記するくらい研究してきた大学の教授。今日の芝居はどうかね、と高所から見物している。その隣は芝居に殆ど来たことがないおばあさん。息子夫婦に邪魔者扱いされ、追い出されるようにチケットを渡され、演目のこともシェイクスピアのことも何もしらずにやってきた。主役を演じる江守徹の大ファンのサラリーマン。事業がうまくいかず、借金取りから身を隠すように逃れてきた経営者。その経営者は、青年の彼女がキャンセルしたチケットを買って、青年の隣に座る…。


それぞれ違う理由で芝居にやってきて、それぞれ別なことを考えていた客たちが、素晴らしい芝居に引き込まれ、芝居からなにかを与えられて、心がつながっていく。芝居が終わり、それぞれはまた別の場所に戻っていくが、それぞれの顔は芝居の前とは変わっていて、芝居の前にはなかった心のつながりができている。


井上さんの細やかでユーモアにあふれた人物描写は、まさに名人芸で、僕にはとても書き表すことはできないが、とにかく奇想天外な発想と細やかな観察に引き込まれてしまう。それぞれの人物の性格や容姿が頭の中に浮かんできて、こういう人いるよな、と思ったり、冗談のようだけど、それってけっこう人生の真髄だな、考えたり。それぞれの「登場人物」が芝居にやってきた背景を聴くだけで、もう物語にどっぷりと使ってしまった自分に気がつく。それは、絵画に例えるなら、まっしろなキャンバスにさまざまな色の絵の具が、さまざまなタッチで塗られていき、だんだんと絵の形が見えてくる。そんなプロセスに立ちあっているかのような臨場感がある。井上さんの講演の録音を聴きながら、講演会場がだんたん一体になっていく様子を感じている。



博学の井上さんは、小説や芝居に関する、ちょっとした知識も教えてくれる。英国で小説が普及するきっかけとなった「パミラ」は、英国の印刷工、リチャードソンが書いたものだそうだ。当時、貴族の文化だった「手紙」が庶民にもひろまった。いわゆる郵便制度ができたのだ。自分の文字を書いた紙を集配人が集めて遠くにいる人に届けてくれる、というのは画期的なイノベーションで、多くの庶民が手紙を書き始めた。しかし、庶民は手紙の書き方がわからない。そこで、手紙の書き方についての本が当時ベストセラーだったそうだ。リチャードソンも手紙の書き方の本を書こうと思うが、すでにたくさんの本があって、よほど工夫しないと売れそうにない。そこで考えついたのが「物語」だった。田舎に住むある若い女性(その名前がパミラ)が、都会の貴族の家に女中として住み込む。そこで起きたことを、田舎の両親に手紙で伝える、という形で、物語を楽しみながら手紙の書き方を伝えようと考えたのだ。


パミラは、同じ貴族の家で働く若い青年と恋に落ちるが、家の主もまたパミラを見初め、なんとか手に入れようとする。パミラは日々の出来ごとを両親に伝えるという形で、手紙の書き方を伝えるのだが、この本を読んだ庶民は、手紙の書き方はそっちのけで、物語に熱中する。パミラは主の毒牙にかかってしまうのか、青年とめでたく結ばれるのか、パミラの恋の行方に庶民は没頭してしまったのだ(ちなみに、最後にはパミラはめでたく青年と結ばれ、その結婚式に両親を招待する手紙で、この「小説」は終わるそうだ)。


こうしてできた「小説」は、以後、英国中、さらに世界中の人々を魅了するのだが、そのはじまりは、けっして「小説というものを作ろう」として作られたのではないことがわかる。それは、他のあらゆる発明や発見をみても同じなのかもしれない。しかし、なにかが生まれる時には、作っている人も、それを評価する人も、最初にはっきりとしたフレームワークはないのだから、あたらしいものを作っているという意識すらないだろう。これまで世の中になかったものが生まれるののだから、当たり前といえば当たり前だが、その過程にいると、なかなか意識しにくい真実だ。



人間の知恵というのは、必ずしも目的があるわけではない。むしろ、目先の目的がないからこそ、より広く大きなヒントを与えてくれる本当の知恵になるのかもしれない。今年の会社の利益や、職場の人間関係といった、今、目先にあることに悩むのは人間の本能でもある。しかし、そういった眼前の問題を解決することだけにとらわれると、目の前の苦しみを解決するだけの人生になってしまう。そこで、ちょっとその場を離れて、少し違う視点、もっと広い視点から自分と自分がおかれた環境を見ることができればば、より素晴らしい解決策が見つかるだろう。自分の視点が変われば、それまで「問題」だと思っていたことは問題ではなくなり、探していた「解決策」も意味はなくなる。そういう意味で目先のことを忘れられたら、それはすばらしいことだろう。漱石の「則天去私」にも通ずる考え方なのかもしれない。



井上さんは講演の最後に、ニューヨーク公立図書館の話を付け加える。ニューヨーク市は、建替えで不要になったグリニッジビレッジにある古い図書館の建物を、ある若い演出家に貸し出すことにした(その若い演出家は、後に大プロデューサーとなるジョセフ・タップ)。貸出料は年1ドル。事実上、無料のようなものだ。しかも自由につかっていい、という条件で(というか、なにも条件がない、というべきか)。その演出家はシアターを3つ作った。すると、役者や音楽家、アーティストが集まり、芝居やコンサートが開かれる。そこに市民や観光客が集まり、あたらしい文化の拠点となっていく。

好評を博した芝居はブロードウェイで公演されまでになる。その一つが、あの「コーラスライン」なのだそうだ。「コーラスライン」はブロードウェイでロングラン公演され、ニューヨーク以外の人、そして、世界中の人々が観にやってきた。ニューヨーク市は、観光客がホテルに滞在すると2ドルの税金を取る。その人たちが払った税金だけでも、ニューヨーク市の行政は、図書館を年1ドルで貸し出した投資のもとを取り返し、さらには市の財政の収入源を創り出した。元図書館には俳優養成所も作られ、そこから、ダスティン・ホフマンロバート・デニーロメリル・ストリープなど、やがて映画界を牽引する大スターが生まれた。ほとんど無料で貸し出した古い図書館の建物が、とんでもなく大きな街の財産になったのだ。


文化や芸術というものは、目先の利益につながることは少ない。お金に結びつけようとすると、ホンモノの文化や芸術ではなくなる、という人もいる。もちろん、文化や芸術に価値がないわけではない。逆に、お金では測れない価値があるのだ。それらは、人間の奥深いところに届き、人々の集まりである社会を少しずつ変えていき、世代を超えて受け継がれる。これもまた、人類の偉大な進化の道筋ではないだろうか。芸術や文化を疎かにする社会は、いずれ滅びてしまう。



井上ひさしさんの語りは、肩の力を抜いてくれるユーモアの中に、もっと視点や発想を広げて、柔らかく発想してはいかが?そうすれば、あたらしいものは自然に生まれるかもしれませんよ、という声が聞こえてくる。奇想天外で滑稽な話に笑いながら、いつの間にか芸術や文化について考えさせてくれる。井上ひさしさんは、現代の稀有な語り部だった。