モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「映画『ジョーカー』の地上波放送禁止」に感じたこと

映画「ジョーカー」の地上波放送禁止する、というニュースを見た時、直感的に、それはおかしくないか、と思った。しかし、その時は、うまく言葉にできなかった。今もできない。でも、この違和感を忘れてしまわないよう、何か書いておきたいと思う。


その違和感を例えるなら、もし、人間の死体を見るのは不快だし社会に悪影響がある、という理由で死体の存在を世の中から隠蔽したら、人を殺すことの恐ろしさを理解できなくなってしまう。その方が社会に悪影響があるのではないか、ということだ。

そんな風に、世の中の「情報」を注意深く見てみれば、私たちはすでに多くの「真実」から遠ざけられているのではないか、ということだ。



映画の創り手の視点では、映画や小説を通じて人々に伝えられる「ストーリー」は、人々に影響する。しかしその影響は、何かこれまでなかった新しい価値観を作りだすというのではなく、すでにみんなが持っているが、気づいていない、あるいは、言葉にできていない違和感に、気づかせるだけだということだ。問題はストーリーテラーにあるのではなく、人々の無知や無関心にあるのだということだ。


ぼくは映画館で「ジョーカー」を観たとき、大きな衝撃を受けた。この映画は、好き・嫌いを越えた次元で評価されるべき映画なのだと思った。映画というメディアの存在意義を感じた映画だった。エンターテイメントが優先される商業的なハリウッドにも、こんな映画を創ろうという人たちが残っているのか、と感動さえした。今回の「地上波放送禁止」も、逆説的だが、この映画の力の大きさの証明だといえる。

だから、この映画を単に「社会に悪影響」として片付けてしまっていいのか、この映画についてもっと考えてみませんか、という問題提起をしたいのだ。