モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「勝手気まま」を取り戻せ!

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京都精華大学・サコ学長のオピニオン。全面的に同意する。


人間って本来、何も束縛がなければ、勝手気ままに行動する「個性的」な存在のはず。しかし、みんながバラバラだと社会がうまくいかないから、共通の知識やルールを学ぶ場所として学校があると思う。極端な言い方をすれば、人間が共同作業できるように「矯正」するのが学校の役目だと思う。

だから、学校に過大な自由や個性尊重を望むのは、そもそもおかしいと思う。今、人々に自由や個性がなくなっていると思うのなら、学校以外の別な場所を作るべきではないだろうか。というか、そういう場所はすでにたくさんあって、それにもう少し目を向ければいいのではないだろうか。



同じ文脈で、営利を目的とする企業に雇用されながら、過大な自由を要求することにも違和感がある。奴隷制度の時代や、明確な身分差別があった時代ならともかく、一応(と言っておくが)、民主主義が浸透し、過去に比べればはるかに自由や権利が保障された今、企業の本来の存在目的ー多数の力を結集して大きな事業を成し遂げるーことを忘れて、一方ではその恩恵に預かりながら、他方ではさらなる自由を求めるのは矛盾している。もしその契約が不公平・不公正だと感じるなら、その組織に参加しなければいいのだ。その自由は誰にも侵されることはない。

もちろん、もし、属している組織を辞める自由さえ与えられていないなら、それはまさに奴隷社会である。そういう社会なら、労働者の自由を最優先で主張し、獲得しなければならない。しかし、今の日本は違う。そう言うと、いや、表面上は選択の自由があっても、実際は経済的な不利益から組織を離れられないのだ、という反論があるだろう。その現状は理解する。組織を辞められない最大の理由は、生きる糧がなくなることだろう。そして、その点こそ、今、変えなければならないことなのだ。


働き方改革」を本気で実現しようと考えるのなら、現在の雇用制度を維持しながら、残業規制や単身赴任の廃止といった「微修正」でごまかすのでは意味がない。雇用という労働形態そのものを根本から考え直す必要があると思う。ほとんどの人が、社会人になることを、どこかの組織に雇用されること、と考えている。しかし、雇用は個人の自由を奪うことなのだ、という理解はどれくらいあるのだろうか。

本来、個人は自分の意志で働き方を選択できなければならないはずだ。その自由を一部制限して、組織に協力する。それが雇用だ。つまり、個人の自由を維持するためには、組織を離れても生きていける環境が必要になる。その前提は、個人が経済的に自立していることだ。そのような「雇用されない働き方」をどう実現するか。そのことを、社会や文化まで踏み込んで議論しなければならない時期に来ていると思う。


企業の視点に立ってみれば、被雇用者、すなわち、働き手をコントロールできなくなることは、恐ろしく感じるだろう。実際、それは短期的にはマイナスに働くかもしれない。しかし、雇用から解き放たれ、自由を得た人々は、さまざまな束縛を離れて、より広く、深く刺激しあうようになる。そうして、それぞれの持つ能力を開花させる。そういう人たちがもう一度集まってグループを作るのだ。それは現在の企業とは異なった形態になるだろう。そして、現在の企業や官僚組織とは比べ物にならないくらい大きな価値を生みだすだろう。それが本当の「生産性の向上」なのだと思う。



「勝手気まま」は、けっして社会の崩壊につながるものではない。むしろ、日本のように行き詰まった社会を救済する、唯一の「施策」ではないだろうか。学校や企業は必要である。間違いなく社会に有益なものだ。しかし、行き過ぎた学校依存、会社依存は害悪になる。今は、個人個人が、いかに「勝手気まま」に生きるかを考え、実践する時期ではないだろうか。もちろん、「勝手気まま」は人から言われてすることではないから、とても矛盾した意見であることは認めるのであるが。