モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ユーモアの中の矜持:「私の歩いてきた道」逸見政孝

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毎日、続けている「オーディブル通勤」。朝夕の徒歩通勤が、これまで知らなかったこと、あらためて考え直すことであふれる、充実した時間になっている。とは言うものの、いくら素晴らしい講演でも、毎日だとこちらの集中力が切れて、すべてを吸収できなくなってしまう。そこで、たまには「息抜き」できる楽しい講演も聴いた方がよいだろう。そんな不遜な思いから選んだのが、逸見政孝さんのこの講演だ。気楽に聞き始めてみると、「息抜き」どころか、さらに集中して聞かざるを得ない、学ぶことの多い講演だった。逸見さん自身の実体験、そして、そこから逸見さんが考えたこと、思ったことが、ストレートに語られる。逸見さんの話に自然と引き込まれ、心の深い場所に届く、とても熱い講演だ。


暴力団の抗争による殺人事件を、ニュースで伝えた時のエピソード。放送中の空いた時間を埋めるため、逸見さんはアドリブで暴力団に批判的なコメントをした。その後すぐ、暴力団関係者からテレビ局に、放送をやめろ、逸見に謝らせろ、という脅迫の電話がかかってきた。もちろん、報道局も逸見さんも、そんな圧力に屈することはできない。内部の人々を説得し、その次の日に予定していた続編も無事流すことができた。しかし、その後しばらく、逸見さんは駅のプラットフォームの端を一人で歩けなかったという。もし誰かに線路に突き落とされたら一巻の終わりだ。そんな恐怖の中、それでもジャーナリストとして正しいと思うことを、正面から語ったのだ。


そんな出来ごとを紹介し、表現の自由を守るために、テレビの裏側では様々なことが起きていることを知ってほしい、と逸見さんはいう。おそらく日々の9割はつらいことだと。だから、報道の前線に立つ人たちを守るしくみも必要だと訴える。なるほど、たしかに、ただジャーナリストに「戦え」というだけでは、市民の側も身勝手だ。彼らに全力をあげて戦ってもらうためには、その安全を守ることも必要だ(それでも、戦わないジャーナリストは批判しなければならないが)。


熊本の太陽デパートの火災。若き日の逸見さんは、現場で初めて死体を見る。焼け焦げて炭化した死体や、窒息で青ざめた死体が並んでいる。そのまわりには、死体を見つめ、うなだれる遺族の人たち。この時、逸見さんは遺族にマイクを向けることができなかった。ただ自分が現場に行って伝えただけで十分ではないか。それが逸見さんが現場を見て、人間として思ったことだった。その経験から、報道は人々の人生のどこまで踏み込んでいいのかを考えるようになった。


逸見さんがアナウンサーになろうと思ったのは、ある種の「復讐心」からだという。現役生として大学受験に失敗した逸見さんは、当時つきあっていた彼女に振られてしまう。今、思えば、もしそのまま交際を続ければ、二浪、三浪してしまうかもしれない、という思いやりだったのかもしれない、と逸見さんはいう。しかし、当時は落ち込み、憤り、ぜったいに彼女を見返そうと思ったのだそうだ。そして、有名になれば、彼女は必ず、逸見さんをふって間違っていたと思うだろうと。俳優やミュージシャンは無理だが、アナウンサーならなれるかもしれない。アナウンサーになろう、と決意する。


そこから逸見さんの、「アナウンサーになるためだけ」の生活が始まる。アナウンサーがもっとも多く出ている大学が早稲田だったと知った逸見さんは、早稲田の中で一番入りやすい第一文学部演劇科を受験し、無事合格する。大学の4年間は、すべての時間をアナウンサーになるために捧げた。地元大阪のイントネーションを直すため、下宿でラジオのニュースや他の番組を聴き、それをテープレコーダーに録音し、何度も聞きながら、発音辞典でイントネーションを確認する。街に出ると、東京出身と思われる人たちが話すのに聴き耳をたて、標準語の言葉を覚える。テレビのアルバイトもやった。そうして毎日、アナウンサーになるために努力をした。失恋のことはすっかり忘れてしまったいた。


その努力が実り、見事、アナウンサーとしてフジテレビに入社する。563人の男子志望者の中で入社できたのは3人だけだった(これでもその年は「広き門」だったそうだ)。


逸見さんの、余裕のある、少しおどけたスタイルの裏には、並々ならぬ努力があったのだ。アナウンサーとして有名になった後、逸見さんは、浪人の時通った予備校に講演を頼まれる。そこで、「失恋や浪人もいいもんですよ」と話したのだそうだ。


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1993年12月25日、2年近くの癌との闘病の末、逸見さんはこの世を去った。


この講演が行われたのは1989年。この逸見さんがフリーになって少したった頃で、おそらく心身ともにもっとも充実していた時期だろう。局アナ時代にできなかった、クイズ番組の司会やCMの出演、俳優としての活躍など、活躍の世界がどんどん広がり、これからさらに多くのことにチャレンジしたい、という夢が語られる。すでに亡くなっていることを知っているから、楽しく前向きな話だから、余計に寂しさを感じてしまう。


しかし、終始ユーモアのある語りの中で、逸 ジャーナリストとしての熱い思いや、人間として大事なことも、逸見さんはしっかり伝えている。30年後の今、この講演を聴いていると、それが、逸見さんが一番伝えたかったことじゃないか、と思えてくる。


逸見さんのようなアナウンサーが、テレビ界には今もいるのだろうか。いてほしいと思う。