モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

フリーエージェント社会の到来

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従来の労働法制で対象になりにくかったフリーランスの権利を保護する動きが先進国で広がってきた。韓国政府は2020年までに失業中の自営業者らが求職手当を受給できるように検討を始めた。フランスも20年までに、フリーランスが健康保険の給付を受けやすくする。働き方の多様化を受けた新たな経済の担い手を支援する狙いだが、国家の社会保障負担が膨らむ懸念もある。


世界中でフリーランス保護の動きが拡がっている。その背後には、「これからの時代は小規模企業・自営業・フリーランスの力がより大きくなる、という世界的な共通認識がある。

米国の作家、ダニエル・ピンクは、今から約20年前、「フリーエージェント社会の到来(Free Agent Nation)」という本を書き、「雇われない働き方」の可能性を訴えた。彼の著書によると、その当時、すでに米国の労働者の約1/3、カリフォルニアにいたっては2/3が「フリエージェント」だった。「フリーエージェント」は最近始まった新しいトレンドではない。数十年も前から着実に進んできた、「大河」的な傾向なのだ。

「フリエージェント」という言葉は、日本人には耳慣れないものだが(唯一使われるのはプロ・スポーツの分野くらいだろうか)、自営業、フリーランス、小規模企業・個人企業の経営者など、人に雇われずに働く人々を総称した言葉だ。

ピンクは、大きな組織の中で、定められた労働時間の下で働くという形態(日本で言う「サラリーマン」)は、古き良き時代の遺物だという。多様性の時代・変化の激しい時代には、自由度の高い自営業・フリーランスの方がメリットが大きい。管理コストを大幅に下げるIT技術の発展も、フリーエージェントに有利に働く。フリーエージェントどうしがアライアンスを組むことが容易になり、大組織の規模の力より、フリーエージェントの、自由度や変化への対応の速さの方が有利になりつつある。

そんなピンクの説得力のある未来予想に、僕は大いに感化された。そして、今は、自分ひとりの企業を「経営」している。フリーエージェントの仲間入りをしたのだ。


日本では、いまだに「正規雇用か非正規雇用か」という議論が続いているが、これはあくまでも「雇用」を前提にした、狭い視野の議論でしかない。そもそも「雇用」されなければ、仕事ができないのだろうか?本当の「働き方改革」は、雇用されない働き方を増やすことだ、と僕は思う。

本当はすでに役目を終えるべき大企業への優遇政策を続ければ、より自由な働き方を実現しようとしている世界の国々に、日本だけが取り残されてしまう。本当の改革なら、必要ならば旧時代のシステムを破壊することも恐れずにやるべきだ。政府の言う「働き方改革」のどこが「改革」なのかと唖然とする(辛辣な言い方をすれば、今の政府は、ほとんど実態のない、あるいは古いシステムを維持する政策に、大げさで耳障りのいい言葉を並べるだけの「広告代理店内閣」ではないだろうか?)。

フリーエージェント社会へ向かう、本物の「改革」が行われるなら、それは現在の大企業も含め、すべての人々にメリットがあると確信する。

立場の弱い者が強い者に頭を使って挑む姿は、気持ちを高ぶらせる(れいわ新選組の戦略)

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参院比例区は、政党名だけじゃなくて、候補者名でもいいのだ。むしろ、候補者名の方が、より直接的に民意が反映されるね(しかし、投票のやり方のような「国民の常識」は、くどいくらいに説明すべきなんじゃないの、マスコミは?)。


一方、「特定枠」は、合区で選挙区がなくなる議員のために自民党が作ったらしいが、これを逆手にとって、ALS(ふなごやすひこ氏)患者と脊椎損傷(木村英子氏)、二人の候補者を立候補させた、れいわ新選組の戦略は痛快。

「事務所設置や演説会、選挙カーの使用、ポスターやビラの掲示・配布など比例候補としての選挙運動ができません」という特定枠の制限は、移動に制約のある候補者にはマイナスにならない。むしろ、健常者とより対等に戦える。


立場の弱い者が強い者に頭を使って挑む姿は、気持ちを高ぶらせる。頑張ってほしい。

山本太郎は、混迷した日本をまとめ、よりよい未来に舵を切らせる人物かもしれない

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最近の山本太郎の動きは、刺激されることばかりだ。今回の「障害をもつ候補者を比例区名簿で自分より上位におく」「創価学会員やLBGTQなど、多様な属性の候補立てる」という行動に驚くとともに、おそらく今まで日本の政治には感じたことのない「潔さ」と「迫力」を感じた。

それは、当たり前のことをあたり前にやってくれる政治家がようやく出てきたのだ、と言う直観につながっている。


考えてみれば、国会議員が国民の代表なら、その属性は国民全体の属性と、まったく同じとは言わなくても、できるだけ近いほうが民意が反映されるのは当然だ。

その意味で、自営業やフリーランス、障害をもった人やLGBTQ、さまざまな原因で社会と隔離されていると人たちも国会議員になるべきだ。そうでなければ、「社会的弱者」や「メインストリームにいない人たち」「組織をもたない人たち」が本当に望んでいることは、けっして議論されないだろう。これまでの政治家は、外向きの「ポーズ」で一瞬、弱者に目を向けることはあっても、自分ごととしてとらえる人はいなかった。今のように「政治屋」ばかりの国会では、社会が歪むのは当然のことだろう。

山本太郎は今までの「政治屋」とは違う、という直観がある。もしかしたら、彼の行動もまた「ポーズ」なのかもしれない。でも、ここまでやる「ポーズ」なら、本気と区別はつかないし、区別がつかないのなら、それは本気だ。人間の意識は行動によって規定される、と僕は思う。「成せば思う」なのだ。



「日本人は○○○」と言う議論はあまり好きではないが、あえていうなら、僕は「判官びいき」という言葉が、昔から日本人、とりわけ庶民の間で共有されてきたアイデンティティだと信じてきた。

しかし近頃は、「判官びいき」は陰に隠れ、代わりに「よらば大樹の陰」や「長いものにまかれろ」という風潮がますます強くなってきているように思う。強い者に従うのが人間のよりよい生き方だというなら、いまさら「イノベーション」とか「世界一」とかうそぶくのはやめてほしい。隷従は自由を奪い、創造を殺す。今ほど日本人の良くない性質が表に出た時代はないのではないか、と情けなくなる。

ここ数年で学んだのは、「力がすべてだ」という信条の人たちが国のトップに立つと、ここまで世の中は乱れるのか、ということ。僕たちはもう十分学んだ。この教訓を糧に、そろそろ次の時代を作ろう。一刻も早く次の時代に舵を切ろう。


山本太郎の考えは、本物の保守と、まっとうなリベラルの両方に訴えるものだ。先入観をなくして彼の発言を素直に聴き、彼の行動を素直に見れば、彼こそ、現在の混迷した日本をまとめ、市民の先頭に立ってよりよい未来に舵を切らせる人物ではないか、という気がしてくるのだ。

山本太郎は、あきらめていたこと、忘れかけていたことを、もう一度、思い出させてくれる

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山本太郎の魅力は、「政治家は国民の代表である」という、あたり前だけど、あきらめていたこと、忘れかけていたことを、もう一度、思い出させてくれることだと思う。

「彼のパフォーマンスが嫌いだ」という人も、山本太郎の主張していることを聴いてみるといい。彼は、右とか左とかいう枠組みで戦っているのではない。そういう古い観念から逃れて、あたらしい未来を作ろうぜ、と言っているのだ。

彼には学歴はないかもしれない。しかし、学歴がある人間が、必ずしも人間的に尊敬できないことを、この数年間、何度も見てきたではないか。


山本太郎」という政治家は、夢かもしれないし、賭けかもしれない。たとえ夢であっても、ほんものの夢を与えてくれる政治を実現してくれるなら、素晴らしいことではないか。

今日より明日のほうがよくなる、と国民が心の底から思えたら、明日は必ずよくなるだろう。結局、国を変える最前線はひとりひとりの国民だ。夢はその最高のモチベーションだ。人々を自発的に動かし、世の中を変えることができるのは、夢のもつ力を信じるリーダーではないだろうか。

理解は「考えの進化」を体験することにある

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Quoraは気に入っているウェブサイトのひとつで、いくつかの分野をチェックしている。そのひとつ、算数・数学は興味深い投稿が多い。問題や解答が面白いのはもちろんだが、おそらく数学をかなり深く学んだと思われる回答者が一般人に向けて解説・説明する、その表現とプロセスがとても面白いのだ。それは、数学者の頭の中を、少しのぞき見ているような感覚だ。


数学に限らず、どんな学問でも、きれいにまとまった最終的な答だけじゃなくて、答にいたる「筋道」、小さなひらめきからはじめて、具体的に確かめながら少しずつ一般化していく、「考えの進化」のプロセスがおもしろい。そんなプロセスを体験できると、その背景にあるより大きな問題への理解が深まるし、その学問への興味が増し、さらに楽しくなる。それは、推理小説と同じような楽しさかもしれない。


逆に、そういうプロセスを経ずに「学んだ」ものは、自分の中で深く定着しない。「知ってはいるが、使えない」知識にすぎない。学習は体験と結びついていなければならない、という仮説を支持する。

さらに言えば、それは脳の構造とも深く関わっているのだろう。脳の中には、全体の雰囲気をざっととらえるレイヤーから、ひとつのことを細かく論理的にとらえるレイヤーまで、何層ものレイヤーが重なっていて、それらが深く結びつくほど時、深い理解が得られるのではないか。

これは、あくまでも、僕が、自分自身の体験から考えた仮説ではあるけれど、この仮説をさらに「進化」できればいいな、と思う。

多様性を認めあう世の中なら、すべての人が幸福になれるのではないだろうか。

クーリエ・ジャポンに、幸福について、岸見一郎氏が寄稿していた。

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小確幸(しょうかっこう)」という言葉があるのだそうだ。

辞書には「小さいけれど、確実な幸福」という説明があります。もともと村上春樹がエッセイのなかで使った言葉です。


なんだか、「ささやかな幸せ」みたいなことかと思ったのだが、「その人にとっての幸福」と考えたほうがよさそうだ。岸見氏の文章を読み進めるうちに、これこそ幸福の本質なのではないか、と思えてきた。

哲学者の三木清は、成功は量的であるが、幸福は質的なものだと考えています。……成功が「一般的なもの」であるのに対して、幸福は「各人においてオリジナルなもの」であるともいっています。

価値の種類が無限にあれば、幸福の種類も無限になる。すべての人が金持ちになることは無理だろうが、すべての人が幸福を感じる世の中は実現できるのではないだろうか。多様性を認めあえる世の中であれば。

小確幸」を見出すために必要なのは、貢献感です。..... 「自分の存在、自分が生きていることが他者に貢献している」と感じられることです。


多様性が認められる、ということは、誰もが完全ではない、ということだ。そのためには助け合わなければならない。

嫉妬は、自分がやりたいことを他の人が実現することから生まれるのだから、自分ができないことをする人には嫉妬しない。むしろ、他人が自分を補ってくれることになるから、心から感謝するだろう。

記憶力と洞察力は反比例する(のではないだろうか)

jp.quora.com


長い間、体感的、直感的にずっと信じていることがある。それは、記憶力がいい人は洞察力が低いのではないか、ということだ。

その考えは、半ば脅迫概念のようになり、若い頃は洞察力を高めるために不要なことは覚えないようにしよう、と思っていたほどだ。正直に言うと、歳をとった今でもそう思っているのだが、最近はあえて忘れる努力をするまでもなく、勝手に忘れていく。残念ながら、洞察力が向上したようにも思えないが。

とにかく、僕は「記憶力と洞察力は反比例する」という自分勝手な仮説を打ち立て、そういう視点でまわりの人たちを見てきたように思う。その結果、少なくとも仮説を否定するような事実は見つけられなかった。もちろん、記憶力と洞察力をあわせた、能力全体のレベルの高低はある。しかし、ほとんどの人は、記憶力派か洞察力派か、どちらかに分けられるように感じてきた。


一般論で言えば、文系は「記憶力派」、理系は「洞察力派」だ(注)。理系の中でも、数学・物理は「洞察力原理主義」と言える。極端に洞察力に重きをおき、記憶力なんて意味ないね、と記憶力を迫害しているのだ。僕も、おそらくこちらの派に近いようだ。


ただ、僕は洞察力派だというだけで、記憶力と洞察力のどちらが偉い、というわけではない。コンピュータが、CPUとメモリの両方がないと成り立たないように、記憶力と洞察力の両方が組み合わされることで、よりよい発想・思想が導かれるのは間違いない。

実際、僕は、若い頃から、記憶力に優れた友人のことを頼りにし、尊敬してきたし、今でも、記憶力に優れた仲間が近くにいると、とても心強い。


そういうことを考えると、人と協力しあうことの意味も明瞭になり、納得できる気がする。

まあ、そもそも、こういうことを考えることが「洞察力派」の特性なんだろう。


(注)断っておくとが、僕は「文系・理系」という分け方には違和感があり、そういう分け方には反対だ。2つに分けるとするなら、「記憶力学部・洞察力学部」に分ければいいと思う。それが、おおよそ「文系・理系」に重なっているだけで、必ずしもぴったりと重なっているとは思っていない。