モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

雑感2018年8月・9月

8.5

東京に来る時は息子のところに泊まるのだが、情報系の学生なので、ちょっと話すだけでいろいろと教えてくれる。昨日も画像認識で困っていることを聴いたら、ものの30分ほどで「できたよ」ってサンプルを見せてくれた。

息子に教えられることの方が多くなってきたのは、嬉しいようなくやしいような複雑な気持ち……(昨夜は「高級ずし」をおごらされたけど)。

写真はMaker Faire Tokyo初日の様子。本日、最終日も頑張ります!



8.10

これが国際社会が日本へ期待していることでしょう。

現政権が「国際社会」「平和」って口にするたび、いつも???と思ってます。浅はかであからさまな印象操作。だから信用できないわけだ。

来年こそ、世の中が平和にむかっている、と感じられる8月を迎えたいものです。

長崎原爆の日、グテーレス国連総長は訴えた「長崎を核兵器で苦しんだ地球最後の場所に」



8.14

まだわからないことだらけだからこそ、偏らないよう注意して、様々な側面を知っておくことことかな、と。

「愛情ホルモン」オキシトシンのダークサイド|WIRED.jp


8.16

情報の隠蔽や改ざん、派閥争いや縁故主義がどんな結末をもたらすかをノモンハン事件は教えてくれる。これはなにも戦争に限ったことではないですよね。

賢者は歴史に学ぶ、という言葉も、賢者にしか届かないという切なさ。

NHKスペシャル | ノモンハン 責任なき戦い



8.18

ピーター・ティールの語っていること、すごく刺激的で面白い。「ゼロ・トゥ・ワン」読んでみよう。

『ゼロ・トゥ・ワン』対談 賛成する人がいない、大切な真実とはなにか。 ピーター・ティール Peter Thiel × 糸井重里 Shigesato Itoi - ほぼ日刊イトイ新聞



8.20

「能力を個人ではなく、その場にいる人びとの全体が共有しているものだと考えて、「個人単位で見た場合の能力差があっても、みんなが面白く楽しめるように、この場を運営すること」こそが、本当の意味でやりがいのある「ゲーム」ではないか。」

能力を競争に使うのではなく、「能力のコミュニズム」を目指すという考え方。それは教え、教わる関係とつながるかも。(最近、読みたい本が貯まる一方......(^^); )

うつの体験から考えぬいた、平成の反知性主義を克服する方法 『知性は死なない 平成の鬱をこえて』 與那覇潤氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)



8.23

司馬遼太郎さんの言葉、身につまされる。

武士道は完全に消滅し、精神のグローバル化もできなかった日本。
司馬さんの憂いていた時代の方が、今よりずっとマシだったのではないか、と思ってしまう。



8.24

「ここにいるよ」と言えない社会 - ロバート キャンベル公式サイト



8.25

「信じるが、期待せず」。そう思えたらいいのに、と何度も反省してきた気がする。でも現実は逆に「信じないけど期待する」になりがちで、そういう時はたいてい不幸な結果になる。

どうしたらいいのだろう‥‥と悩んでるうちに人生も残り少なくなってきたなあ。



8.28

「21世紀のファシズムと独裁は、データの独占によって行われる。現代のファシストはデータを通じて、恐怖や憎しみ、虚栄心といった人々の感情を支配し、民主主義を破壊する。

ファシズムの鏡」は、本来の自分より自分を美しく見せる。だから魅力的なのだ。ファシストは必ずしも冷酷ではない。時にとても美しく見えるものだ。

その誘惑に抗するには、誰がデータを支配しているかを考えること。そして、鏡に映った自分ではなく、本来の自分自身を知ること。

人間の愚かさを過小評価してはいけない。愚かさは、私たちの歴史を形作ってきた大きな力なのだ。」

www.ted.com



9.1
GithubではRuby率が高い。

日本にいると、「海外モノのほうがすごい(かっこいい)」と思いがちだけど、日本生まれのRubyやChainerが世界で評価されているのはすごいことだと思う。

一般論として、日本人は日本で生まれた技術を過小評価している気がする。あるいは、逆に、突如(プロパガンダ的に)「日本のこの技術はすごい!」と言い始めたり。

海外モノをありがたがるのでも、日本製だから贔屓するのでもなく、そのモノの本質を見て、いいものはいいと判断できるようになりたい。



9.4

「自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続けるというのは非常に難しいことです。大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」という、これまた陳腐な表現が意図することです。」

https://j.ktamura.com/this-is-water



9.17

今の政治を見ていると、それは違うだろ、逆だろ、と思うことばかり。加速度的にだめになっていく日本を見るのはもう嫌です


9.20

高校数学はこんな状況なのか?

逆に考えれば、これからは希少価値のある「行列のできる学生」に行列ができる、のかな。。。なんて気楽に考えていいのだろうか。

科学技術が進むほど、一般の人は難しいことを考えなくてよくなるので、科学技術離れが進むという矛盾、どうにかならないのか。


ちょっと冷静になると、世代によって学校で習ったことが違う、ということは、普段から意識する必要があるだろう。どちらがいいか、悪いかは別な問題として、コミュニケーションがうまくいかない原因のひとつ、かもしれない。


9.22

「もし自分の能力について悩む人がいるなら、『こうすれば能力が上がる』、ではなく、『能力は私有物ではない』と伝えたいと思います。
‥‥社会とはそもそも、個体ごとにみてしまえば必ず高低差が生じる能力を共有し、補うあうことで動いているのだから、今いる場所であなたと周囲がよりよく能力を共有できないなら、たがいに調整し、どうしても無理なら、共有しやすい場所へ移ればいいのです」

那覇潤「知性は死なないー平成の鬱をこえて」



9.23

「…共感は現在のコストを過大評価し、未来のコストを過小評価する……。私たちが下す判断はこの偏見によって歪曲される。たとえば『自分のよく知る子どもがたった今死ぬケースと、名前も知らない二十人の子どもが一年後に死ぬケースのどちらか一つを選べ』という選択に直面すると、共感は一人を救うよう私たちを導くのだ。…これは共感の問題である」

ポール・ブルーム「反共感論〜社会はいかに判断を誤るか」



9.25
出先で打ち合わせが5時に終わり。オフィスに戻るか直帰するか、すごく悩んだので、駅ナカでコーヒー飲みながら考える。


最近のいくつかの出来事を見るに、この国ではもはや、倫理観も責任感も、公よりも民の方が上じゃないだろうか。
少なくとも、民には自浄作用は残ってるように見える。



9.30
「…アダム・スミスの『道徳情操論』にある、人間にとってもっとも有用な性質を論じた箇所を取り上げよう。二つの特徴があげられているが、それらは道徳的な意味でもそれ以外の意味でも直接感情には関係しない。それら二つの特徴とは、『卓越した理性と理解力』、そして『自制(self-command)』である。

『卓越した理性と理解力』が重要なのは、それによって自分の行動の結果を正しく評価できるからだ。どのような行動をとることで目的を達成できるのかがわかるくらい賢くなければ、世界をよりよい場所にすることなどできない。自制が重要なのは、長期的な結果に焦点を置くことで当面の欲望を抑えられるからである。」

ポール・ブルーム「反共感論〜社会はいかに判断を誤るか」

新潮45の廃刊で、問題の本質に蓋をしてはいけない

自民・杉田水脈議員のLGBTについての寄稿から始まった一連の問題ーーー杉田氏のLGBTへの見解、それに対する懸念と非難、杉田議員の「だんまり」、杉田議員を擁護する意見を集めた特集を出した新潮45と、それに対する強い非難、新潮社社長の声明と新潮45の廃刊ーーーには、なにかもやもやとしたものが残る。


これはあらゆる喧嘩に言えることだと思うが、喧嘩のすれ違いの根本原因は、言葉で伝えられていないことが多い。表面的な言葉の応酬は、問題の本質を不要な言葉で覆い隠してしまい、極端に言えば「不快だから不快だ」「良いものはいい」といったトートロジーに陥る。挙句の果てには「お前は嫌いだ」「言い方が悪い」といった低レベルな物別れに終わってしまう。


今回の問題が、一雑誌の廃刊で解決したとは思えない。それどころか、問題の本質に蓋をすることで、問題は表面化したのに、議論はなされず、この問題で二分された人々の間の確執はさらに強くなってしまうのではないか、と懸念する。


新潮社が良識あるメディアなら、「新潮45問題」を、雑誌の廃刊という面倒なことを避けようというのが見え見えの安易な幕引で終わらせるのではなく、議論を継続して、すれ違いの根本原因に近づける努力をしてほしいと思う。冷静さを失った議論をリードし、建設的な議論に変えてほしい。それが良識あるメディアの役目であるし、プロの仕事だと思う。


昔、「臭いものは元から絶たなきゃだめ」というCMがあったが、メディアの役割はけっして「臭いものに蓋をする」ことではない。メディアの役割とは、「臭さ」をいち早く感じ取り、他の人たちに教えること。自ら蓋を取り、何が腐っているのか、人々はどう不快なのか、どれくらいの被害があるのか、臭いものはすべてだめなのか、臭さにも違いはあるのか、など、見えにくい問題の本質に目を向けさせることではないだろうか。そして、最終的には「物事を少しでも深く考える文化」を醸成することだと思う。



もし、新潮社が、新潮45の廃刊でこの問題の幕引きを考えているなら、杉田氏を擁護していた者だけでなく、新潮社の決断を認めている人たちにも不満は残るだろう。この問題の本質を覆い隠すことで、この問題、さらにこの問題の根本にあるより大きな問題をさらに悪化させ、社会をより悪い方向に向けてしまうのではないだろうか。

タイマーズに叱られているような今

同世代のアーティストで、若い頃はさして興味がなかったのに、歳をとってからその価値がわかってくる人がいる。

今、僕がそんなふうに思うアーティストのひとり(ひとつ)が、タイマーズだ。

タイマーズの曲は、メッセージの塊だ。「ほんとうの世の中はこうだ。こんなだめな世の中なんだ」と言わんばかりに、過激な、しかし、真実を切り取った歌詞が攻撃してくる。メジャーになってしまったRCサクセションでは、おそらく許されなかった歌を、タイマーズという自分の分身を使って、清志郎タイマーズでは「ゼリー」と名乗っている)は世の中に出したのだろう。


たとえば「偉人のうた」はこんな歌詞だ。

もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人の邪魔をしたりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人をバカにしたりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
偉い人だけでつるんだりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人たちやさえない人たちを忘れたりしないさ。ハハハハハ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
君が歌う歌を止めたりしないさ。ハハハハハ。
当たり前だろ。ハハハハハハハ。
いくら偉い人でも。ハハハハハハハ。
そんな権利はないさ。ハハハハハハハ。

強いものに媚びない、弱者への優しいまなざしが溢れた歌詞は、ミュージシャンが弱者の代弁者だった頃を思い出させてくれる。もし清志郎(ゼリー)が生きていたら、音楽産業が金儲けのツールに成り下がった現在を、どんな歌にして世の中に問うだろうか。

彼が三十年前に伝えようとしたことは、ようやく今、その意味や価値がわかるようになった。もう遅いかもしれないが、まだ間に合うかもしれない。

俺はもう歌えねえんだからさ、この歌を聴いて自分の頭で考えろ、バカヤロー。清志郎はそう言っているような気がする。

独裁は、悪人が一人でやる政治ではない

「安倍独裁」というと、独裁ではない、と否定する人がいるけど、今回の自民党総裁選の状況を見て独裁だと思わないのは「安倍がやることなら何でも良い」という色眼鏡で見ているとしか思えない。

 


「独裁」って、なにもひとりのわがままな暴君が起こすものじゃない。むしろ最初はその逆に見えるポヒユラリズムから始まると思う。そして周りにいる子分たちが影で操っているのだ。

 

そういうのもれっきとした独裁であり、外から見えにくい分、よりタチの悪い独裁だ。

 

表面的な損得だけではなく、その裏にあること、これからの社会がどうなるのか、それが未来へどう影響するのかを、予測するのが市民の見識だと思う。

 

本当はそういう見識を持った人が政治家になるべきなのだが。

 

—————

石破氏「安倍さん支持の大合唱、自民党変質したのかも」
http://www.asahi.com/articles/ASL8B00VGL89UTFK026.html


民主政治より王政がいい、という人とは話は噛み合わないが、そうでなければ、表面的なことだけでなく、その裏にあることをしっかりと見なければならない。

生産性で人間を測る時代に・その2

自民党杉田水脈議員が、「LGBTの人々は生産性がない」と述べたことが、大きな波紋を呼んでいる。その多くは杉田議員に対する批判だと思うが、残念ながら議員を擁護する意見もある。

僕が見た「擁護論」の主旨はこうだ。「杉田議員は子供を産まないという事実を『生産性』という言葉でたとえただけである。真意は、少子高齢化の時代に子供を産まない者に対して税金を投入する施策は優先度が低くなる、それは限られた予算という制約のもとでは仕方がない、と言っているに過ぎない。杉田議員は、LGBTの人たちを『人間として生きる意味がない』とまで言ったのではない。つまり、杉田氏の発言は問題ない」。そういう「杉田擁護論」だ。


「生産性がない」という言葉を「生きる意味がない」と「誤解」したために怒ったというのもおかしいが、それは別にしても、杉田議員の発言にはあきらかに問題が多い。「杉田擁護論」も「杉田発言」も、ツッコミどころ満載だ。

もっとも根本的なことを指摘しておきたい。そもそも経済用語である「生産性」という言葉を、子供を産むか産まないかという人間的な行為にあてはめることがおかしいのだ。それがおかしくないというなら、結婚していない人、子供のいない人、子供が亡くなってしまった人に「あなたは生産性が低いね」と言ってもいいことになる。それを問題ないと言うのなら、実際に言ってみればいい。あなたの評判は急落するはずだ。



百歩譲って「子供がいない=生産性がない、だから税金を投入できない」という理屈を認めるとしよう。そういうLGBTの人たちは本当に「生産性がない」のだろうか?

下で引用したのは、アメリカで、家庭で暮らせない子どもたちを養子にしたいと希望するLGBTカップルが増えているという記事だ(三年前の記事なので、けっして杉田議員の発言を受けた「リベラルの屁理屈」ではないことは先に述べておく)。この記事を素直に読めば、LGBTの人たちは、少子高齢化という大きな問題にとって邪魔者ではないどころか、その問題を解決するための協力者になりうることを示唆している。

www.huffingtonpost.jp


少子高齢化は、LGBTかそうでないかという「外見的で目立つこと」が問題なのではなく、この記事の背景にもあるような、暴力や貧困、長時間労働といった「内面的で見えにくいこと」の方がはるかに深刻な問題なのだ。

表面的な差異にばかり注目し、本質を見ることをせず、「生産性」などという不適切な評価基準を押し付けるのは明らかにおかしい。



政治家の「意見」は単なる個人的な意見でもない。表現の自由ですべてが許されるものでもない。政治家は国民の(少なくとも選挙区民の)代表だからだ。自分の嗜好と独断だけで物事を決めることは許されない。自分からは遠いグループも含めて社会全体を広い視野で見て、少数意見にも耳を傾け、考えるのが政治家の基本姿勢だ。


一方で、有権者である国民も、「目先の利益」や「誇張された脅威」に惑わされず、社会全体の幸福を目指そうとする人物を冷静に見抜き、選びたいものだ。(杉田議員は比例区当選なので、個人への信頼があって選ばれたのではないことは付け加えておく)。


最後にやや極論ではあるが。。。LGBTはだめ、移民はだめ、某国はだめ、サヨク・リベラルはだめ。。。とか言っているうちに、日本は世界(現政権の好きな言葉を使うなら「国際社会」)から孤立し、そう遠くない将来、ほんとうに「生産性の低い」二流国になってしまうのではないだろうか。今の政権与党の言動を見ていると、その危惧は日に日に強くなっていくばかりだ。

生産性で人間を測る時代に

近頃は「生産性」という言葉で人間まで評価する世の中になったらしい。アホな政治家もいるもんだ、と思ったが、それを擁護する人もいるのには驚きを通り越して、心が重くなる。

50年前のこの演説を聞いてほしい。こういう理想を掲げ、それが希望と感じられた50年前の方が人類は進歩してたのかもしれない。

(ところで今、R.ケネディみたいなことを言うと、あるグループからは「サヨクが〜!」って噛みつかれるのだろう。それならサヨクでけっこうだ。それがサヨクなら、サヨクってかっこいいじゃないか!)

monoomoi.hatenablog.jp

雑感2018年6月〜7月

6.2

久しぶりにTEDを観てみようと思いたち、タイトルで「面白そう」と直感したものを見てみたら、どれも面白かった。

そのひとつがこれ。こういう嘘なら、いいな。

www.ted.com


6.4

全ては読みきれてないし、サッカーの深いところはわからないけど、集団的と組織的の違いに納得。

日本人は、集団的な行動に慣らされてしまったがゆえに、組織的な行動ができないのだな。なるほど!漠然と感じて来たことを説得力のある言葉にしてくれた感じ。

必然だったサッカー日本代表ハリルホジッチ監督解任、その要因となった「世界基準」に到達出来なかった選手の問題 : Totemo512メモ



6.19

今、「アルゴリズム」が、人々の生活や社会に大きな影響を与える中、何を考え、どう行動すればいいのか。

そのきっかけを与えてくれる講演です。まずは知ることから。



6.24

人様にしかられたくらいで引込むような心臓は、持ち合わせがない!誇りを持て!白洲次郎の名言



6.25

いつからかオフィスでの仕事中は、アマゾン・プライムで音楽をかけっぱなしにしています。プレイリストのいいところは、自分の知らない曲を教えてくれること。たまに、あ、この曲いいな、このミュージシャン好きだな、という発見があって、その後、そのミュージシャンのアルバムを聴いたりしてます。

最近の「いいな」はこの曲。今週は仕事がなかなか進まず、朝早くから遅くまでオフィスにいて、気が滅入っていたのですが、夜中、薄暗いオフィスでこの曲を聴いて、なんだかいやされる感じがして。

で、今、ネットで調べたら、このボーカルの女性、数年前に亡くなっていたのですね。それを知って、さらに優しくて、素敵な曲に聞こえてきました。

ずっと ずっと ずっと - YouTube



6.26

やれどもやれどもうまくいかない時はつらい。人と心が通じない時はもっとつらい。

そんな時はこのセリフを呟きながら眠ることにしています。

「パトラッシュ……疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ……パトラッシュ……」



7.25

これ、けっこう鋭い指摘だと思う。イノベーションやさまざまな改革が日本で進まないのは、技術や法律・社会構造よりも、「他人を信用できない」心の持ち方に原因があるのではないかと。

「信用しつつ過度に依存しないという振る舞い方」を心がけたい。

他人を信用できない「ROM専」日本人のせいで経済が伸びない? | 加谷珪一 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト



7.26

だから、もうみんな自営業になろうよ。みんながなれば怖くない!



7.27

最近考えてることに関連して、以前、こういうブログを書いたことを思い出しました。結局、働くって何?ということをずっと考えてるのだな、僕は。

あれからもう5年以上。世の中は良くなったのだろうか、それとも、悪くなったのだろうか?

脱企業の社会〜ダグラス・ラシュコフ "Life Inc." - モノオモイな日々 Lost in Thought



7.29

https://www.facebook.com/jun.tak.39?hc_ref=ARQgv1t22UzIyjEnL7H3cHodFqtYRXwRsM2RO2aw24z16PseFcVQVL5-IO2HxtR_uAY&fref=nf


不確実性の高い時代に「選択と集中」を進めるのは博打ですよ。「強いリーダーシップ」を示したいだけのために、日本の救いだった科学技術も犠牲に‥。


現場のボトムアップから自然と生まれた選択と集中は賛成です。というか、小さな企業はそうしないと深いものは作れないですから。
ただ、国レベルでは多様性を認めなければならないし、多様性のあることが強さになると思います。特にその分野に見識の無い人が大きな声を持ちすぎるのは高度な分野にとっては邪魔だと思います。(たまには外圧も必要ですが)


繰り返しにかるかもしれませんが、国レベルの科学技術政策を博打の比喩で語ることは間違いだ、ということです。企業でも将来の研究開発は同じかもしれません。
科学技術や研究開発は、博打ではなく、種まきだと考えることだと思います。多様な品種を植えている農地が飢饉に強いように、多様性のある科学技術の種や芽があることが強さになる。「選択と集中」は、そこから葉が出て、茎が伸びて、ある程度育った段階で必要なら考えればいいと思います。
どんな種があって、どこに芽が育っていて、どんな果実ができそうか、そして、どの段階で「間引き」をすればいいのかを見極められるのが科学技術政策を担う者が持つべき見識です。それが今の政府にあるのか?という問題提起です。というか、科学技術の本質を考えればそもそも無理なことをやっていると思います。
僕は、現場の自主と自然淘汰にまかせたほうがはるかにいいと思っています。

付け加えれば、その意味では、研究予算がないから研究できないと、はずけしげもなく言う研究者もだめだな、と思います。逆境を頭脳でどれだけカバーできるかが研究者の能力だし、せめて発芽させるくらいは自分でやってよ、と、だれも研究費をくれない一民間人として思いますね。