モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

新潮45の廃刊で、問題の本質に蓋をしてはいけない

自民・杉田水脈議員のLGBTについての寄稿から始まった一連の問題ーーー杉田氏のLGBTへの見解、それに対する懸念と非難、杉田議員の「だんまり」、杉田議員を擁護する意見を集めた特集を出した新潮45と、それに対する強い非難、新潮社社長の声明と新潮45の廃刊ーーーには、なにかもやもやとしたものが残る。


これはあらゆる喧嘩に言えることだと思うが、喧嘩のすれ違いの根本原因は、言葉で伝えられていないことが多い。表面的な言葉の応酬は、問題の本質を不要な言葉で覆い隠してしまい、極端に言えば「不快だから不快だ」「良いものはいい」といったトートロジーに陥る。挙句の果てには「お前は嫌いだ」「言い方が悪い」といった低レベルな物別れに終わってしまう。


今回の問題が、一雑誌の廃刊で解決したとは思えない。それどころか、問題の本質に蓋をすることで、問題は表面化したのに、議論はなされず、この問題で二分された人々の間の確執はさらに強くなってしまうのではないか、と懸念する。


新潮社が良識あるメディアなら、「新潮45問題」を、雑誌の廃刊という面倒なことを避けようというのが見え見えの安易な幕引で終わらせるのではなく、議論を継続して、すれ違いの根本原因に近づける努力をしてほしいと思う。冷静さを失った議論をリードし、建設的な議論に変えてほしい。それが良識あるメディアの役目であるし、プロの仕事だと思う。


昔、「臭いものは元から絶たなきゃだめ」というCMがあったが、メディアの役割はけっして「臭いものに蓋をする」ことではない。メディアの役割とは、「臭さ」をいち早く感じ取り、他の人たちに教えること。自ら蓋を取り、何が腐っているのか、人々はどう不快なのか、どれくらいの被害があるのか、臭いものはすべてだめなのか、臭さにも違いはあるのか、など、見えにくい問題の本質に目を向けさせることではないだろうか。そして、最終的には「物事を少しでも深く考える文化」を醸成することだと思う。



もし、新潮社が、新潮45の廃刊でこの問題の幕引きを考えているなら、杉田氏を擁護していた者だけでなく、新潮社の決断を認めている人たちにも不満は残るだろう。この問題の本質を覆い隠すことで、この問題、さらにこの問題の根本にあるより大きな問題をさらに悪化させ、社会をより悪い方向に向けてしまうのではないだろうか。