モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ケムール人のO君

大学時代、同級生のO君は、「わたしゃ(と自分のことを呼んでいた)、夜な夜な、ケムール人の真似して夜道を歩いてんだ。道行く人がみんな、怪訝そうな顔するのが面白いんだ」とつぶやいた。

 

僕たちは「アホなことすんな」と言った。しかし、O君の奇行は、何か世の中に足らないものを補ってくれていたのかもしれない。僕たちは、O君を揶揄いつつ、そんな気がしていた。

 

もしかしたら、あの時のO君は、バランスを崩した地球に潜り込んだ、本物のケムール人だったのかもしれません(←石坂浩二の声で)。

 

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青臭い理想がなければ、生きるのは面白くない

2020年11月27日の毎日新聞に、こんな記事が載りました。(正確に言うと、読んだのは、毎日新聞の元記事を引用した、Livedoor NEWSの記事です)

京都大(京都市左京区)で27日、シンボルの百周年時計台記念館に学生らが登って垂れ幕を出すなどし、制止する職員らとトラブルになった。京都府警の機動隊が大学構内に入って警戒に当たり、周辺は一時騒然となった。けが人や検挙者はなかった。

 京大では、学生寮の一つ「熊野寮」の祭りで、学生らが時計台に登ることが恒例になっている。これに対し、京大側は「危険な企画」「建造物侵入として刑法に抵触する行為」とし、時計台に登ろうとすれば「警察に通報するなどの法的措置を含め、厳正に対処する」と25日に告示を出していた。

 学生らが27日昼、時計台に、はしごをかけると、もみ合いが発生。機動隊員らが現れ、正門から学内に入った。学生らは時計台の上でマイクを握り、周辺ではビラを配布。大学側の「対話拒否の姿勢」を批判するなどした。

 府警は毎日新聞の取材に「通報があり、危険防止のため学内に入った。警備態勢の詳細は明かせない」と説明した。【中島怜子、千葉紀和】


この記事を読んで、なんだかすごく嫌な気持ちになりました。そして、Facebook

「機動隊が出てくるようなことじゃないでしょ。立て看撤去といい、ほんと、つまらない世の中になったわ。」

反射的にに投稿しました。


そうしたら、ある方が、次のようなコメントをつけてくれました。仕事で少し面識のある(それ故、Facebookでも「ともだち」である)、著名な方。そして京都大学の大先輩です。

○○ 禁止することを禁止する!!! 熊野寮の恒例のお祭りですよ。何故、今更、禁止するん!?! しかも、易易とおまわりさん、それも機動隊さんを、学内に入れるの!?!


それをきっかけに、Facebook上で次のようなやりとりをしました。

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○○さん、熊野寮のお祭り、なんですね。それは知らなかったですが、そういう「お祭り」的な雰囲気って、創造力の源泉だと思います。それが、想像力のない人たちによって「排除」され、萎縮してしまうのではないかと歯がゆいです。こんな時、たとえば森毅さんがいたら、京大の自由の気風を、ユーモアと皮肉をこめて表現してくれたんじゃないか、と思いました。

〇〇 おっしゃる通りです。熊野寮一期生で、森一刀斎先生に統計学の単位を、有名な問題だけに答えて戴いた学生としては、愕然といたします。森先生の有名な問題とは、「ブラインド・デートした時に美人に当たる確率について論ぜよ」というもので、他の「ちゃんとした」問題に答えられなくても、この問題だけに、どのように答えても、単位をいただけるというものでした。この問題だけに答えて、他の「ちゃんとした」問題は凡庸な問題でつまらんので答えず、優を貰ったやつが居るという伝説の問題でした。今だったら、それこそ、女子学生やLGBTQの方々に吊るし上げられますので、森先生のことですから「美人に」のところを「美男美女に」と改定されてらっしゃると思いますけどね(^^;


○○さん、熊野寮一期生とはすごい!私にとってはレジェンドです(笑)!
森毅さんは、私もぎりぎり重なっている世代で、公式非公式の講演を何度か聴きましたし、2回生の時、数学の講義も取りました。試験問題は、村上さんの時ほどとんがっていないと思いますが、確か「彼女(彼氏)に変分法とは何かを説明せよ」みたいな問題だったと思います。一応、単位くれました(笑);。
熊野寮のお祭りにしても、森さんの試験問題にしても、今の時代はそういうのを見て「けしからん」という輩がたくさんいそうですが、「そんなことを言うやつの方がけしからん」という感覚を無くさないようにしたいと思ってます。村上さんの投稿で勇気づけられました(ˆˆ);。

〇〇 1965年4月、熊野寮は完成しておらず、1ヶ月ほど銀閣寺のそばの高校の先輩の下宿に転がり込んでおりました。完成したと言ってもA棟と食堂と厨房と事務室だけでした。B棟、C棟がその1年後くらいに完成したような気がします。その顛末は、京大広報誌「紅萌」の34号に寄稿してありますので、ご一読下さい。 https://www.kyoto-u.ac.jp/.../kur.../documents/kurenai34.pdf


〇〇さんの寄稿、面白くて、なにかジーンときました。「壁に穴」「寮費値上げ反対決議」「不夜城京大熊野寮」「極左暴力学生」(笑)。。。頷いて、大笑いして、そういう時代を少し羨ましく思いました。


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〇〇さん(上の文章を注意深く読めばだれだかわかりますが)とのやり取りで、忘れていた大学時代のことが蘇ってきました。時間が無限にあると思っていたあの頃、人間は自由な存在で、一人ひとりが能力を磨き、発揮すれば、世の中はよくなる、と漠然と思っていました。「世の中」というのが何なのか、深く考えることなく。

その頃の思いは、今も変わらないと思います。ただ、「現実」というものに限界を感じながら、それでも、束縛があるからこそ、自由でありたいという気持ちを無くさないようにしたい、という思い。それは、青臭い、理想論かもしれません。でも、青臭い理想をなくしたら、生きていくのは面白くない。そう思うんですよね。

そんなことを思い出させてくれた、○○先輩に、感謝です。さすが、熊野寮一期生!

最初の一文字

文章を書く仕事では、なかなか最初の一文字を書き出せないことがあります。早くやらなくちゃ、という気持ちを、もう少し待ったほうがいい、という気持ちが抑えるんですね。

それは、その言葉がまだ自分の中で十分熟していないということに、自分自身が気づいているからだと思います。

だから、こうやってFacebookに投稿するのは、けっして暇だったり、さぼったりしているわけではないのです。何かが熟すのを待つために、あえてそこから離れる時間を作っているんです。

以上、今、アウトプットを待っている人への遠回しの言い訳として笑


(写真は、徒歩通勤の途中にある、謎の「フェイク窓」ビルディング)

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誰もが生きていける社会

新型コロナの影響を受けた人はすぐにでも救わなければなりません。しかし、付け焼き刃の、人気取りやガス抜きの政策では、今の危機が去っても、必ずいつかまた同じ問題がやってくるでしよう。

 

誰もが生きていける、そんな世の中を作るのが、最低限の政治の役目だと思うんです。憲法にそう書かれているから、だけではなく、誰もが能力を発揮することで、より良いものや考えが生まれると思うからです。それが本当の「国力」です。その結果、誰もが幸せになる。それが「国益」です。

 

しかし、今の政治は、ぬくぬくとやってる人にばかり目を向けて、辛い思いをしている人たちを切り捨てる。

 

そんな逆なことばっかりやってるから、たまに吠えてしまうんです。

 

 

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Mさんへのメッセージ

Mさん、昨日はメッセージありがとう。

5年近く住んだアメリカから離れて、もう15年以上。最近はすっかり日本の文化に浸かって、アメリカにいた頃のことをどんどん忘れていってますが、米国に長らく住んでいるMさんや、何人かの米国在住のFacebookともだちの投稿で米国の様子を知ることができるのは、嬉しいことです。ものぐさな僕は、昔の知人に手紙やメールを送るようなこまめさがないので(今や年賀状の返信さえ書かなくなってしまった!)、あまり努力せずに他の人と繋がっていられるSNSには感謝しています。


今回の大統領選をニュースでみていて、僕がアメリカにいた頃、ちょうど、ブッシュとアル・ゴアの選挙があったことを思い出しました。フロリダ州の集計疑惑についてもよく覚えています。それと、人々の政治への関心の高さ。当時、息子はElementary Schoolの1年生だったのですが、学校の後通っていた学童保育みたいな場所(英語でなんといったかな)で、そこの先生が、子どもたちに「あなたはブッシュとゴアどちらに投票しますか?なぜですか?」と聴いていました。大人の僕でさえ、とっさには答えられない質問で、こんな小さな子どもに答えられるのかな、と反射的に思ってしまいました。しかし、小さな頃からそういう教育を受ける、というか、大人が子どもを一人の人間として扱う文化が、人々への政治への関心を育てているのでしょうね。日本では、いまだに、学校でも会社でも政治の話はタブー。生徒の政治的な活動を禁止する、と堂々という学校もあります。政治の話をする人間は煙たがられる雰囲気です。僕には米国の方が健全だと思えます。ただ、政治的関心の強さが、強い分断を生む基盤にもなっているのでしょう。


米国にいた当時、一緒に働いていた企業のエンジニアの一人と今でもFacebookでつながっていますが、彼(白人)はかなりのトランプ派です。もっとも彼と政治の話をしたことは一度もないし、彼のほとんどの投稿は政治とは関係のないもので、ジョーク好きで、家族愛に溢れたナイスガイです。そもそも、日本人である僕と進んで友だちでいてくれるのだから、差別心が強い人間ではないと思います。ただ、トランプのことは心底応援している。もし僕が普段の彼を知らずに、ただトランプ支持者だと知ったら、彼はきっと利己的で人間的に欠陥があるのだ、と思って近づこうとしないでしょう。たまたま彼のことをよく知っているから、彼がトランプを応援していても、彼はけっしておかしなやつではない、と考え直せます。そして、彼がトランプを応援する気持ちも少しはわかる気がします。それは、(白人としての)一種のプライドであり、旧来の権力者への反感であり、家族や地域の人々を大切にする公共心なのだと。自分のことだけでなく、自分が属するコミュニティを大事にしようという気持ちが強い人ほど、むしろトランプを支持するのかもしれない。リベラルとの違いは、自分が大事だと思うコミュニティの対象と大きさだけなのかな、と。


日本では、いうまでもなく、安倍政権(とその周囲の人たち)が好きか嫌いか、で人々は2つにわかれています。ただ、日本人のほとんどは、政治に関心がない、というのか、政治のことを知ろうとしないので、米国ほど表立った分断にはみえません。内にもぐっているから、実態がわからず、より怖いようにも思います。人前で政治の話をしない、というのは、ねじまがった防衛本能だと思います。政治のことを人前で語ると「危険なやつ」と思われる、と自分で勝手に思っているわけです。ある種の「自発的隷従」といえるかもしれません。これは、政治とは何かを考えると、すごくおかしなことだと思うのですが、そういう僕も普段は政治のことはあまり話さないほうがいいかなと感じている。Facebookでもかなり抑えているつもりです。抑えているといっても、他の人よりは政治に関する投稿をしてますけどね。実は僕にとても近いところにも、安倍信望者がいて、ほんとうはもっと接しなければいけない人なのだけど、どうしても近づきがたく、避けてしまっています。別にその人と政治の話をするわけではないし、常識的で真面目で頭のいい人なんだけど、政治的信条の違いがあることを知ると、なぜかその人を認められない。それは偏った見方だと頭ではわかっていても、公平に接することはできない。人間というは非合理的で弱いものだと思います。


そんな状況をどう克服すればいいのだろうか。最近読んだ本に、資本主義の宿命として、人々はどんどん短期的利益を追求するようになる、だから、日頃から、短期的利益に走ろうとする気持ちをおさえて、長期的利益に目を向ける努力をしなければいけない、という主旨のことが書いてありました。これは実感としてとても納得できる意見で、ここに現状克服のヒントがあるのではないか、と直感的に思いました。たとえば今、「世界平和が大事だ」などというと、特に日本では、なんだか冷たい目でみられるでしょう。そんなことよりビジネスの話をしようぜ、みたいな空気。ビジネスの話でも、世の中に貢献する本当のビジネスなら全力で取り組むべきですが、多くの人は、ビジネス=お金儲け、という短期的視野しかないように感じます。そんな人々に「(人類にとっての)長期的な利益」に目をむけさせることができれば、結果として、現在の分断を弱められるのではないでしょうか。実際、人種・民族・性別などによる差別、経済的格差の拡大、環境・エネルギー問題など、地球規模で考えれば、これまでになくさまざまな問題が露呈しはじめているわけで、そういった問題を単なる情報として捉えるのではなく、自分に関わりのある「自分ごと」として捉えることが必要ではないだろうか。やや陰謀論めいた話になってしまいますが、今の権力者は、人々から長期的視野を奪うために、「甘いお菓子」をぶら下げて、短期的利益にばかり目を向けさせているのではないか、とさえ思います。


なんだかまとまりがない話になりました。とにかく、こんなことを漠然と考えていた僕にとって、Mさんとのやりとりのきっかけとなった上祐史浩氏の投稿は、とても納得がいくものでした。「元オウム真理教広報」の言うことなんか信じられるか!という偏見をなくせば、彼の投稿は、多くの人がが見ようとしていないことに目を向けさせ、大きなヒントを与えてくれると思ったのです。だから、それにMさんが反応してくれのは、嬉しかったです。


時間がたって、世の中全体の雰囲気が変われば、人々の感じ方や考え方も変わって、今は二分されている人々も、再び近づいていくのではないでしょうか。なんとなくでしかありませんが、そう信じています。今現在は、たまたまある力に引っ張られたために、あるものは見えてもあるものが見えないといった状態にいても、まわりの力(「空気」や「場」のようなもの)が変われば、さまざまなものを、異なった視点から公平に見られるようになるのでは、という希望をもっています。自分自身も、そうなれることを信じたいです。