モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

僕は毎日、投票している

僕は毎日、投票している。

そんなことを言うと、嘘を言うな、と非難されるかもしれない。選挙は毎日やってないよ、と。

そのとおり。もちろん、選挙はやってない。僕が言う「選挙」は、本物の投票ではない。ただ、「選挙」という言葉が、市民としての「意思表明」という意味であるなら、もっと言えば、政治や政治に関わる世界で起きていることに賛否の意思を示す、と言う意味であるなら、僕は毎日のように投票している、ということができる。

それは、SNSへの投稿だ。

SNSに、無茶な法律解釈をする政府や、非常事態を宣言する一方で医療や商業の現場を自分の目で見ない政治家や、政治にすりよって文字通り法外な利益を得る特定の企業について、「反対」の意思を投稿するのも、現代における投票行為ということができないだろうか。


「#検察庁法改正案に講義します」というハッシュタグTwitter上をまたたくまに広がったのは、ついこの間のこと。これまで及び腰だった芸能人・文化人も巻き込んで大きな世論の波となり、非合法と思える定年延長を受けていた黒川検事長は辞任した。この件に限らず、SNSはもはや、個人の趣味や嗜好や出来事を仲間内で共有するだけのものではないように思う。SNSを通じて、個人の意思や意見を発信し、これまで会うことがなかった人たちと議論し、共感し、行動する。SNSは、そんなツールになりつつある。


このようなSNSの機能は、これまでは様々な理由で実現できなかった「直接選挙」に近いもの、と言えないだろうか。


もっとも、SNSは所詮、特定の民間企業が運営しているものだから、その企業の思惑で恣意的な情報操作ができてしまうかもしれない。真に公正な情報共有にはならない、という懸念はあるだろう。実際、検察庁法案のタグのトレンド集計では、不可思議な順位変動があったと聴く。


しかし、だからこそ、それにめげることなく、SNSに「投票」し続けることが大事なのではないか。嘘は、永遠に続けることはできない。どれだけ情報操作をしようとも、いつか必ず、真実はあばかれ、人々に共有される。SNSを運営する会社で働いている人たちも、同じ市民なのだ。「おかしい」と思うことを「おかしい」と言う人が増えれば、そういう人たちは、まずまっさきに、不正をやっている自分の会社を変えるだろう。それが自分のためだからだ。


SNSの運営会社、FacebookTwitterや、検索の巨星・Googleなどは、すでに大量の「真実のデータ」をもっているはずだ。その国の政府がどれだけ情報を操作し、世論を誘導しようとしても、草の根のデータはごまかせない。世の中に、権力者の欺瞞に気づき、疑問を呈している人たちがどれほどいるか、ということを彼らはよく知っている。


何ごとも100%完璧というものはない。ただ、すくなくとも、特定の政治家や企業だけが情報を独占する社会より、民間を含めた多くのプレーヤーがそれぞれが関わっている現場の、だからこそ信頼できる情報を集め、共有する社会の方が、僕はずっと健全だと思う。


だから、僕は今日もSNSに「投票」するし、その一票は無駄にならないと確信している。

すぐ忘れる

最近、自宅からオフィスまで、歩いて通っている。少し前までは自転車を使っていたのだが、なくなってしまったのだ。撤去されたのではないようなので、おそらく盗まれたのだろう。すぐに代わりの自転車を買うわけにもいかず、もともと健康のために、電車をやめて自転車で通勤するようにしたので、また電車に戻るのも癪だ。結果として、先週から、片道1時間弱の道のりを歩くことにした。


歩いていると、さまざまな考えが頭に浮かぶ。これは書き留めておこう、と思っても、あるきながらメモを取ることはできない。Siriに頼めば短いメモは取れるのだろうが、歩いているとそれさえ面倒なのだ。

オフィスに到着した時に覚えているのは、直近の1つ2つという残念なことになる。最悪、ひとつも覚えていないこともある。というか、「素晴らしいことを考えていた」という出来事さえ、忘れている。結局、歩いていた小一時間は、僕の人生の中で二度と顧みられることはない空白の時間となる。


幸運にも今朝は、オフィスに着く前に考えていたことを、オフィスに着いた時まで、ひとつ(ひとつだけだが)覚えていた。この素晴らしい考えを絶対にブログに書きとめようと決意し、オフィスでパソコンにむかって、ブログの編集画面を開く。今回は忘れる前に、必ず書くのだ! しかし、その「素晴らしい考え」を書く前に、僕は、自分がいかに思いついたことを忘れるか、ということを書き始めてしまった。それがこの文章だ。


書き始めると冷静になってくる。僕が、歩きながら「すごいことを思いついた!」と思っても、いざ文章に書きはじめると、さまざまなボロが出てくる。その時、直感的・反射的に感動したことでも、思わず「ユーレカ!」と叫んだとしても、しばらく時間がたって、冷静に、論理だてて考えてみると、ただの不完全な思い込みだった、といういこともよくある。

だからこそ、書いてみる、ということが大切なのだろう。この文章も、書きながら着地点はどんどん変わっていく。さっきまでは目の前にゴールが見えていたのに、そこにたどり着くとそこはゴールではなく、次の目標地点への入口でしかなかった、という気分だ。どこへ向かっているのかもわからなくなってくる。


ということで、この文章はもともと何を書こうとしていたのだっけ。

そうそう、歩いているとさまざまな素晴らしい考えが頭に浮かんでくる、それを書き留めたい、ということだった。その「素晴らしい考え」を忘れずに書留、他の人にも伝えたい、ということだった。でも、書いているうちに、その「素晴らしい考え」が何だったのか、忘れてしまった。現時点で、もはや、着地点もゴールもない。ふと我に返ると、緊急事態宣言も終わり、世の中が正常に戻り始めた中で、オフィスでぽつんと一人でいる僕に寂しさのような感情が襲ってくる。


さて、今日も頑張って、歩いて家に帰ることにしよう。

どうせ後悔するなら

生きていると後悔することだらけだ。

間違ったことを信じてしまった後悔。
それを他の人に伝えてしまった後悔。
逆に、これは違うな、と思ったのに何も言わなかった後悔。

最悪なのは、自分は違うと思ったのに、他の人がそうしているからという理由でそれに従って、やっぱり間違っていた時の後悔。

だから、この村本氏の言葉は、すごく響く。

「「恥ずかしい」なんて思わなくていい。間違えは次、知るきっかけを作ってくれる。」


note.com

小保方さんの実験ノートと記録することの大切さ

少し前、世間を賑わした「STAP細胞事件」。理化学研究所小保方晴子さんが発見したSTAP細胞は、実は捏造だったのではないか、という疑惑が強まり、さまざまな検証が行われた。STAP細胞が存在しないという結論にいたった、その傍証のひとつに、実験に関する記録、いわゆる「実験ノート」が明瞭に取られていなかった、ということがあった。実験に携わる研究者は、かならず自分が行った実験の記録を取る。しかし、小保方さんの実験ノートには、STAP細胞を発見したときの実験条件や観察結果が、少なくとも他の研究者が納得できるレベルで記述されていなかった、というのだ。


あたらしい物質を探すような研究は、実験条件の組み合わせが膨大にあるから、しっかりとした記録を取らないと後で再現実験もできない。それは生命科学の専門外の僕でも容易に想像できる。他の分野の実験でも、程度は違うが同じようなものだ。研究や開発では、記録は何よりも大事、なのだ。


記録を取るのは自分の備忘録のためだけではない。他の人々と知見を共有したり、後世の人に引き継ぐためには、言葉で記録することが必須になる。人類の叡智は記録されてはじめて価値があるといえる。記録することによって、人類のさまざまな活動が発展してきたのだ。


一方で、今の政治を観た時、その「記録」軽視はあまりにひどい。叡智の結晶であるべき記録が、ゴミのように扱われている。過去も現在も、自分に都合の良いように捻じ曲げる政治に、よりよい未来を期待できるはずがない。


ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が逆説的に指摘しているように、言葉は人類の貴重な財産なのだ。言葉がなくなれば、思想もなくなる。言葉という人類の貴重な宝を守るために、記録を放棄してはならない。

「オオカミと少年」のメディア

「オオカミと少年」という童話がある。イソップ童話のひとつで、原題は「嘘つき少年」というらしい。

その内容は誰でもしっているだろう。羊飼いの少年が、ひまつぶしに、「オオカミが来た!」と嘘をつきはじめる。村人は最初とまどうが、やがて少年の言葉を信じなくなる。ある日、本当にオオカミが来た。少年は助けを求めるが、村人は誰も手を貸すことはなく、少年はオオカミに食べられてしまう。

この童話が、今のマスメディアに重なる。「庶民は深く考えない」と高をくくって、いい加減な情報、かたよった情報を流し続けていると、やがてしっぺ返しを食うだろう。ものごとをしっかり考えたいと努力している市民や、伝えられている分野の知識や経験をもった市民の中には、メディアが伝えていることはおかしいぞ、と感じる者が必ずいる。その意見を共有すれば、他の人々も嘘に気づき始めるだろう。そして、やがてメディアの言うことを信じなくなる。


今、メディアは大きな危機にあると思う。それは視聴率や購読人数の低下ではない。よりももっと深刻な危機は、メディアが伝えることを信じられなくなることだ。メディアが、私たちの社会の中で今後も役割を果たしていきたいのなら、メディアがメディアであるために絶対に手放してはいけないことを再度自覚し、それを死守するために行動することだ。そうでなければ、将来獰猛なオオカミがやってきた時、まっさきに破滅するのは自分たちだろう。

ほんとうの顧客満足を

アップルが、マスクを付けている人でもログインできるようにiPhoneの顔認証システムを改良中、という記事がSNSで流れてきた。反射的に「さすがアップル」だと思った。


新型コロナの波を受けて、毎日マスクをつけて生活していると、iPhone(正確にはiOS)の顔認証がとてもうっとおしいのだ。いちいちマスクを取るか、パスコードを入れなければiPhoneを使えないというのは、一度あの便利さを知った人間にとって、とてもイライラすることなのだ。もっとも昔、といってもほんの4,5年前までは毎回パスコードを入力していたのだから、人間の身勝手さにも呆れるが、それでも一度知った「蜜の味」はもう手放せない。

そう思っていたところに、そのユーザーの気持を見透かしたようなアップルの動きは、これぞ「顧客重視」の企業の模範だと、アップルへのロイヤルティは嫌でも高まる。



思えば、Amazonにしても、Googleにしても、今、世界を席巻している企業には、徹底した「顧客重視」の姿勢が共通しているように思う。顧客のクレームに対応するというよりも、顧客からクレームが出る前に、ちょっとした不満の芽の段階で、敏感にそれを感じ取り、さっとスマートな提案をする。顧客にとって、これほど気持ちのいいサービスはない。まったく不満がなければサービスのありがたさはわからないだろうし、不満が爆発寸前になってから対応してくれても感謝とまではいかない。「不満の芽」が顔を出したところで、さっとそれを摘み取る。そのタイミングが絶妙なのだ。

余談だが、毎年春になると、田舎の墓地に生えてくるタケノコを取りに行く。油断するとすぐ大きな竹になって、切り取るのは一苦労になる。かといって、まだ春の浅いうちに行っても、タケノコは顔をだしていない。ちょうど地面に顔をだしたくらいにいくと、足で蹴るだけでタケノコを「排除」することができる。もっとも大事なのは、いつタケノコ狩りに行くか、というタイミング。それ一点で作業の苦楽は大きく変わるのだ。アップルの対応をみて、そんなタケノコ取りのことを連想した。



ひるがえって、日本の企業を見てみると、口では「お客様は神様です」と言いながら、どうも本気でお客様に向かい合っているようには思えない。あいかわらず、自分たちだけの理屈を並べ、見えているものにも目を向けず、「そんなことは常識的に無理」「そこまでやる必要はない」と、やらない論理付をすることにばかり、頭をつかっているようにしか思えない。そこには、下手なことをやってクレームがつくくらいなら、やらないほうがまし、という、最近ますます高まっている、「積極的消極」の考えがある。

そんなことをやっているうちに、米国と日本の企業の差はどんどん広がっているように思う。米国だけではない、ドイツや他のヨーロッパの国々をはじめ、アジアでも韓国・台湾・シンガポールにも、「カスタマーサービス」ではもはや負けているのではないか。いや、グローバルな顧客満足度では、もはや中国にも負けているのではないか。



今、日本の企業、あらゆる組織にとって、過去の栄光は捨てて謙虚な気持ちで自分たちの行いを見つめ直す必要を強く感じる。今は、その最後のチャンスなのかもしれない。

「コロナ後」、そろそろ再始動をかけじめた国々の後ろ姿をみながら、なかなか再スタートを切れない日本のことがますます心配になってくる毎日。

「緊急事態」の議論で見落としがちなこと

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憲法学者石川健治さんのオピニオン。今話題の「緊急事態」について、私たちが何を見落としているのかに、気づかされる意見だ。

「犯人は身内にいる」という視点

緊急事態の議論には2種類あります。何が緊急事態かを問題にし、独裁権力を想定しない『客観的緊急事態』論と、独裁権力を想定し、誰がそれを握るかを論ずる『主観的緊急事態』論です。この二つを区別すべきだと説いたのは、ドイツの公法学者ユリウス・ハチェックでした。彼の意見では、前者が立憲主義にとっての正道、後者は邪道です。

推理小説での「あるある」は、犯人が身内にいる、というやつ。その小説の話し手が犯人だった、みたいなものもあって、最初は「そりゃないだろー」と思ったものだが、現実世界に目を向けてみると「身内に犯人がいる」というのは、けっして例外的なことではなく、むしろ身内の犯人の方が多いんじゃないだろうか。犯人が顔見知りなら安心して気を許してしまうだろうし、犯人にとっても相手のことや場所をよく知っているので「効率」がいい。

「緊急事態」を想定する時、普通は「敵」は外から襲ってくる、と考えるだろう。隣国であったり、今回のようにウィルスであったり、もしかしたら宇宙人がやってくるかもしれない。しかし、冷静に考えてみると、将来やってくる「敵」としてもっともあり得るのは、同じ国の人間ではないだろうか。ある人間がある日、「日本を支配してやる」と思い立ち、用意周到に権力の座についたらどうなるだろうか。いや、さらに用意周到な「犯人」なら自分自身は権力の座につかず、権力を持った人を自由に操る立場を得るだろう。日本のこれまでの歴史を振り返ってみても、独裁的な天皇が現れて人々を弾圧したのではなく、武士が摂政や関白といった地位について天皇を自分の手中に収めてきたではないか)

そんな「身内が犯人」という状況は、現在の緊急事態の法律にはどうも想定されていない。むしろ身内の独裁者の力をより強くする。ここに大きな問題がある。

<追記> 身近なことで言うなら、たとえば今、「自粛ポリス」なるものがはびこっているらしい。自粛要請が続く中でマスクをせずに外を歩いている人や、繁華街をうろつく人を、まるで憲兵のように「取り締まる」人たちだ。面と向かってならまだしも、写真をとってSNSにあげる人もいる。 しかし、自粛ポリスに「摘発」された人たちは、もしかしたら倒れた知人のもとに慌てて向かっているのかもしれないし、自分の店が心配で見に行ったのかもしれない。いわゆる「不要不急」でなくても、誰しもたまには外の空気を吸って息抜きしたいのだ。 政府や行政が要請していることを、そのまま鵜呑みにし、誰にも頼まれてもいないのに、そんな権利も資格もないのに、まさに警察官のように他人を非難する。新型コロナウィルスに感染して健康を害するよりも、自粛ポリスに出会って心を病む人のほうが多い、なんてこともあり得るかもしれない。これもまた、同じ社会にすむ「身内」による犯罪といえるだろう。

「個人が国家を作っている」という視点

ドイツのメルケル首相は、テレビ演説で、国民に『これは抽象的な統計の数の話ではなく、父親や祖父、母親や祖母、配偶者、つまり人々の問題だ』と呼びかけました。危機であっても、最大多数の最大幸福という功利計算のなかに個人を埋没させてはいけない、というメッセージで、日本の憲法13条とも呼応する問題意識です。

もうひとつ、緊急事態の議論は、国や地方行政という行政の視点で議論されることが多い。その裏返しとして「国を守るため」「地方を守るため」という大義名分のもと、個々の人々の生活や権利はないがしろにされる。緊急事態に個人の権利などない、と言っているかのようだ。国がなくなれば個人も生きていけないのだから、個人の生活など後回しでいいのだ。パニックの中ではそんな議論が先行しがちではないか。

ここでも、冷静に考えなければいけない。本当に国家がなくなれば、個人もないのだろうか。企業というものが個々の社員の営みによって成り立っているのと同じように、国家というのは、個人の自由や独立があってはじめて意味がある共同体になる、と私は考える。個人の自由と権利を守ることで、すなわち、個人がその能力を最大限に発揮することで、個人の共同体である国家も繁栄する。それが正しい順序なのではないか。

もし個人の行動を抑圧する空気を感じたなら、簡単にそれに従うのではなく、それが正当な制限なのかを考えるべきだ。自分や、自分の周りの人々がその能力を活かして働く方が、この国の未来はよくなる。そう思うなら、個人の権利は絶対に捨ててはいけない。個人を尊重することこそ「お国のため」になるのだ、と私は確信している。