モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「緊急事態」の議論で見落としがちなこと

digital.asahi.com

憲法学者石川健治さんのオピニオン。今話題の「緊急事態」について、私たちが何を見落としているのかに、気づかされる意見だ。

「犯人は身内にいる」という視点

緊急事態の議論には2種類あります。何が緊急事態かを問題にし、独裁権力を想定しない『客観的緊急事態』論と、独裁権力を想定し、誰がそれを握るかを論ずる『主観的緊急事態』論です。この二つを区別すべきだと説いたのは、ドイツの公法学者ユリウス・ハチェックでした。彼の意見では、前者が立憲主義にとっての正道、後者は邪道です。

推理小説での「あるある」は、犯人が身内にいる、というやつ。その小説の話し手が犯人だった、みたいなものもあって、最初は「そりゃないだろー」と思ったものだが、現実世界に目を向けてみると「身内に犯人がいる」というのは、けっして例外的なことではなく、むしろ身内の犯人の方が多いんじゃないだろうか。犯人が顔見知りなら安心して気を許してしまうだろうし、犯人にとっても相手のことや場所をよく知っているので「効率」がいい。

「緊急事態」を想定する時、普通は「敵」は外から襲ってくる、と考えるだろう。隣国であったり、今回のようにウィルスであったり、もしかしたら宇宙人がやってくるかもしれない。しかし、冷静に考えてみると、将来やってくる「敵」としてもっともあり得るのは、同じ国の人間ではないだろうか。ある人間がある日、「日本を支配してやる」と思い立ち、用意周到に権力の座についたらどうなるだろうか。いや、さらに用意周到な「犯人」なら自分自身は権力の座につかず、権力を持った人を自由に操る立場を得るだろう。日本のこれまでの歴史を振り返ってみても、独裁的な天皇が現れて人々を弾圧したのではなく、武士が摂政や関白といった地位について天皇を自分の手中に収めてきたではないか)

そんな「身内が犯人」という状況は、現在の緊急事態の法律にはどうも想定されていない。むしろ身内の独裁者の力をより強くする。ここに大きな問題がある。

<追記> 身近なことで言うなら、たとえば今、「自粛ポリス」なるものがはびこっているらしい。自粛要請が続く中でマスクをせずに外を歩いている人や、繁華街をうろつく人を、まるで憲兵のように「取り締まる」人たちだ。面と向かってならまだしも、写真をとってSNSにあげる人もいる。 しかし、自粛ポリスに「摘発」された人たちは、もしかしたら倒れた知人のもとに慌てて向かっているのかもしれないし、自分の店が心配で見に行ったのかもしれない。いわゆる「不要不急」でなくても、誰しもたまには外の空気を吸って息抜きしたいのだ。 政府や行政が要請していることを、そのまま鵜呑みにし、誰にも頼まれてもいないのに、そんな権利も資格もないのに、まさに警察官のように他人を非難する。新型コロナウィルスに感染して健康を害するよりも、自粛ポリスに出会って心を病む人のほうが多い、なんてこともあり得るかもしれない。これもまた、同じ社会にすむ「身内」による犯罪といえるだろう。

「個人が国家を作っている」という視点

ドイツのメルケル首相は、テレビ演説で、国民に『これは抽象的な統計の数の話ではなく、父親や祖父、母親や祖母、配偶者、つまり人々の問題だ』と呼びかけました。危機であっても、最大多数の最大幸福という功利計算のなかに個人を埋没させてはいけない、というメッセージで、日本の憲法13条とも呼応する問題意識です。

もうひとつ、緊急事態の議論は、国や地方行政という行政の視点で議論されることが多い。その裏返しとして「国を守るため」「地方を守るため」という大義名分のもと、個々の人々の生活や権利はないがしろにされる。緊急事態に個人の権利などない、と言っているかのようだ。国がなくなれば個人も生きていけないのだから、個人の生活など後回しでいいのだ。パニックの中ではそんな議論が先行しがちではないか。

ここでも、冷静に考えなければいけない。本当に国家がなくなれば、個人もないのだろうか。企業というものが個々の社員の営みによって成り立っているのと同じように、国家というのは、個人の自由や独立があってはじめて意味がある共同体になる、と私は考える。個人の自由と権利を守ることで、すなわち、個人がその能力を最大限に発揮することで、個人の共同体である国家も繁栄する。それが正しい順序なのではないか。

もし個人の行動を抑圧する空気を感じたなら、簡単にそれに従うのではなく、それが正当な制限なのかを考えるべきだ。自分や、自分の周りの人々がその能力を活かして働く方が、この国の未来はよくなる。そう思うなら、個人の権利は絶対に捨ててはいけない。個人を尊重することこそ「お国のため」になるのだ、と私は確信している。

【西元町ニュース 2020年4月3日】発酵食品に感染せよ!ある町の食堂の生き残り戦略

f:id:yasuda0404:20200415085319j:plain

飲食店に大逆風が吹き荒れる中、西元町のカッコいい野菜食堂・堀江座が、持ち帰り専門店に変身した。

店主の 堀江 斉 (Sei Horie) さん(40才くらい?)は「三日間、国内外のさまざまな情報を見て、これしかないと思った」と、突然のリニューアルに踏み切った胸の内を語る。

店舗の入口をまるで「ロックアウト」するように新設された、持ち帰り専用のカウンターは堀江さんの手作り。3日で作ったとは思えない、木製のしっかりした作りだ。提供するメニューは、店舗時代定番だった、野菜と発酵食品をベースにした健康志向の料理が中心。中でも人気の高い「発酵しませんか定食(980万円1000万円(*1))」は、キムチや納豆などの発酵食品と、旬の無農薬野菜が「これでもか!」というほど盛り沢山の、堀江座オリジナル料理だ。「栄養が偏りがちなオフィスワーカーには最高。減量も期待できる」と、近くで零細企業を営む保田充彦さん(50+?)は絶賛する。

より環境志向の来店者は「30年持つステンレス弁当箱」でのお持ち帰りもできる。高級感のある弁当箱は「ゴージャスでエコなお持ち帰り」という新しい外食ジャンルとして、隠れファンも多い。弁当箱は後日、店の前に置いておくだけの完全リサイクル型ビジネスモデルだ。

さらに、今回のリニューアルを記念して、来店者にはもれなく、堀江さんの長女・イトちゃんが作成した「なぞなぞカード」が無料で付いてくる。なぞなぞの答はカードの裏に書いてある、という配慮も嬉しい。

「堀江座持ち帰り店」の挑戦はまだ始まったばかりだが、UberEatsなどとも連携した新しい飲食店の形は徐々に浸透し、「お持ち帰りって意外にいいかも」という声も増え始めている。そんな周囲の反応に、堀江さんも手応えを感じているようだ。

「うちの発酵食品食べて、みんなで良い菌に感染して、新型コロナをやっつけちゃえ!」と、堀江さんの夢も、ますます発酵している。


(*1) ここ堀江座では「万円」が通貨の単位である。日本の円との交換レートは、1日本円=1「堀江座」万円となる。「1000万円」と口にすると、なんともリッチになった気分になれる。


f:id:yasuda0404:20200415084732j:plain
西元町のカッコいい野菜食堂、堀江座。この度、持ち帰り専門店に「変身」した。

f:id:yasuda0404:20200415084729j:plain
店舗の入口には、白いテーブルと椅子があらたに置かれた。晴れた日、青空をみながらテイクアウトを食べれば、ちょっとしたリゾート気分を味わえる。

f:id:yasuda0404:20200415084726j:plain
堀江座店主・堀江セイさん。店の入口を「ロックアウト」する手作りの持ち帰りカウンターに、堀江さんの強い決意が感じられる。

f:id:yasuda0404:20200415084720j:plain
堀江座ではAIも人力。入り口で「OKホリエザ!」と叫ぶと、中から(堀江)セイさんが出てくる(だけ)。


f:id:yasuda0404:20200415084713j:plain
堀江座名物の「発酵しませんか定食」。自転車で持ち帰ったので少しぐちゃぐちゃになったが、味は最高。健康にもグッド!

f:id:yasuda0404:20200415084716j:plain
ひとつひとつの弁当に書かれた手書きメッセージが嬉しい。ただし、最後の「クラスター」は、「いい人のつながりを作って行こう!」という期待と希望だろうか。


f:id:yasuda0404:20200415084723j:plain
音楽好きの堀江さんの店の棚の中にはさまざまなCDが並ぶ。持ち帰り店になってもBGMに変わりはない。

f:id:yasuda0404:20200415085822j:plain
堀江さんの長女・イトちゃんが作った「なぞなぞカード」。来店者は無料でもらえるが、正解したら何かもらえるの?と聴いたら、「うーん、考えとく」。

f:id:yasuda0404:20200415084706j:plain
取材中やってきたUberEatsの配達員。ちょっと派手な、いかしたバッグは海外製だそうだ。カッコいいので思わず写真を撮らせてもらった。


f:id:yasuda0404:20200415084703j:plain
飲食店に逆風が吹き荒れる中、「お持ち帰り」は浸透するか。堀江座の新たな挑戦に大いに期待したい。

小咄


各国の首脳が乗りあわせた船が、大洋の真ん中で突然、沈没しはじめた。自国のリーダーを救うため、それぞれの国の民間船会社は救助船を派遣した。危険を顧みず、自発的に救助にやってきた自国の船会社の社員に、各国のリーダーは次のように述べた。


習近平「君を共産党の幹部にしてあげよう。ただし条件がある。船の沈没事故のことは誰にも言ってはだめだ。死者は誰もいないし、私は逃げていない。沈没した船は中国製ではない。とりあえず1年ほど姿を消してもらう。わかったね」


トランプ大統領「救助に対して金はいっさい払わないが、今度、日本にアメリカ製の船を買わせるよ。それと、救助船に外国人を乗せないように甲板のまわりに高い壁を作っておけ。アメリカ・ファースト!」


安倍総理「私はまさに救助を要請したわけですが、政府としては補償はしないことを、たった今、閣議決定しました。やはり、補償をするべきかどうか、という問題においては、消費税増税憲法改正を力強く進めていく必要があります。その点において、トランプ大統領とも意見は完全に一致しています」

"Social Distancing"と"Social Distance"は意味が違う

Facebookで、翻訳家の青木 薫さんのコメントをみて、はじめて知ったのだが、"Social Distancing"と"Social Distance"は、意味が違うのだそうだ。


今、新型コロナウィルス対策としてやっている「人と人の距離を十分取る」ことは、"Social Distancing"が正しい。

…のであるが、今朝のテレビのニュースでは、何度も「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)」と紹介していた。このグローバル時代に、マスメディアが先頭を切って「和製英語」を広めるのは、少し問題がある。


ただし、英語のWikipediaで"Social Distancing"を調べてみると、冒頭に「Not to be confused with Social distance or Social isolation.(社会的距離や社会的孤立と混同しないように)」とあるので、ネイティブも混同している人はいるのだろう。

ちなみに、Google翻訳で、"Social Distance"と入れると「社会的距離」、"Social Distancing"は「人混みを避ける」と訳された。これは、わかりやすい。


(もう一方の「Social Distance(社会的距離)」とは、「社会階級、人種/民族、ジェンダー/性別など、社会の異なるグループ間の距離」)


Social distancing - Wikipedia

Social distance - Wikipedia

ウィルスは私たちに「働く」ことを考え直させるだろう

今日、うちのオフィスに、神戸大学の学生がやってきた。彼は、学生の「長期インターン」を広めたいと、友達とベンチャー企業を興したという。その「営業」に訪れたのだ。

一通り事業の話を聴いた後(長期のインターンを広めることで、ミスマッチをなくそうという事業自体は、なかなか興味深かった)、新型コロナウィルスの影響で今はインターンも控えるところが多いだろうね、そもそも就職活動自体も控えているでしょう、と話を振ると、実は彼は今年3回生になるが、ベンチャーを続ける気はなく、できれば大企業に就職したいという。しかし、就職活動が始められず、困っている、と教えてくれた。(この時点から、「営業」ではなく、学生の「相談」になってきた。)


わざわざこんな零細企業に来てくれたので、「大丈夫、そのうち混乱はおさまるよ」といった、通り一遍の励ましを伝えてもつまらないと思ったので、今回の混乱で、社会は「働く」ということを根本から考え直すことになるかもしれないね、という話をした。今まで通りの就職活動ができなくなった学生たちや、強制的にリモートワーク・在宅ワークをやらされた労働者たちは、「働くとは何か」を考えざるを得ない。そうすると、今までのように大きな組織に雇用され、毎朝出勤して夜に帰宅する、というような働き方以外の働き方もあるんじゃないか、と気づいて、きっと意識が変わるに違いない、と。


そして、今この瞬間は、君にとって逆風だと思うかもしれないけど、もしかしたら社会が大きく変わることになるかもしれない。それは若い人たちにとって大きなチャンスになるかもね、というと、それまで「型通りの優等生」っぽい彼の眼が、少し輝いたような気がした。



文章としては中途半端だということはわかっているが、この話は、今はここで終わりにしておきたい。なぜなら、この後どうするのかは、この学生やその仲間が、自分たち自身で決めることだと思うからだ。数カ月後、あるいは、数年後、世の中はどう変わっているだろうか。もしかしたら何も変わっていないのかもしれないし、今この時点では想像できないような、まったく違う生き方をしているのかもしれない。それは傍観者的な未来予測ではなく、主体的な人生計画であるはずだ。「コロナ後」を作るのは、一人ひとりの意志と行動だから。



(この投稿のきっかけとなった記事を参考にあげておく。)

www.nikkei.com

なぜ書くのか?(G.オーウェルの遺言)

全体主義国家の恐怖を描いた近未来小説、「1984」の著者として知られるジョージ・オーウェルは、「なぜ書くか?」という短いエッセイの中で、文章を書く理由(動機)には、次の4つがある、と述べている。

  • 「単なるエゴイズム」。これは、有名になりたい、人から尊敬されたいという願望は、人間のあらゆる営みにつきまとう、表に出すことは少ないが、誰もが持っている、もっとも普遍的なモチベーションだろう。
  • 「美的熱意」。文章や言葉の美を追求する姿勢は、アーティストとしての作家を突き動かすことは間違いない。逆言えば、「美的熱意」がなければ、作品と呼ばれるものを生み出すことはできない。
  • 「歴史的衝動」。有史以来、あらゆる時代において、歴史を記録する文章が綴られ、人類の大きな資産となった。個人のエゴとは別に、人類の存続に貢献することも、遺伝子に組み込まれた人間の本能であるに違いない。
  • 「政治的な目的」。作家がどれくらい意図しているかどうかは別として、時に、一冊の本や一遍の文章は世の中を動かし、時代を変えてきた。「歴史的衝動」が過去を書き留め、未来に託すことだとすれば、「政治的な目的」は今、現在の、より直接的な変革を求める欲求だ。

たまに文章を書く僕にとって、オーウェルの4つの「書く理由」はいずれも納得できるものだ。オーウェルが述べている通り、何かを書く時は、これらのどれかひとつの動機に動かされているというよりは、それぞれの強さ・弱さの違いはあっても、4つの理由すべてが混在した動機に突き動かされているのだと思う。

意外なことに、オーウェル自身は、「最初の三つの動機が四番目の動機よりも強い人間である」と自己分析している。「平和な時代に生まれ落ちていたなら、私は華麗な文体とかあるいは単に記述的な本を書いていたかもしれない」と。

オーウェル第二次世界大戦やスペイン内戦の時代に生きた、という理由だけでなく、それらに当事者として強く関わったことは、彼に大きな影響を与えたはずだ。その体験から得たある種の衝撃は、繊細な感受性を持つ天才にとって、避けられないこどだったのだろう。オーウェルは、息苦しさと怒りの中で文章を書いたのかもしれないが、当時の世の中の不正や欺瞞が「1984」や「動物農場」という文学作品として残されたことは、僕たち後世の者にとって大きな資産となった。


オーウェルの死からちょうど70年が経つ。今、オーウェルの著作を読んでみると、オーウェルの生きた時代と現在の世の中の空気が、とてもよく似ていると感じる。私たちは、再び、対立と全体主義の時代に戻ろうとしているのだろうか。不正と欺瞞が権力の一部として当然のごとく使われ、弱者は言葉を発することができず、その言葉さえ奪われようとしているのだろうか。

オーウェルが残した「遺言」を理解し、未来に活かせるかどうかが、今、僕たち21世紀を生きるすべての人に問われている気がする。

頭の良い人は

頭の良い人は、自分がすべてを知っていないことを知っているから、知らないことを求めて質問する。たとえ相手の言うことの99は知っていても、知らなかった1を知るために。

 

頭の良くない人はそのことを知らないから、質問する人のことを無知だと見下し、横柄な態度を取る。自分が何でも知っていると勘違いして、何も学ぼうとしない。

 

そうして頭の良い人はさらに賢くなり、頭の良くない人は、何も知らないまま、知らないことに目を向けることさえなくなっていく。

 

そんな風景を、今まで何度も見てきた気がする。