モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

雑感2018年6月〜7月

6.2

久しぶりにTEDを観てみようと思いたち、タイトルで「面白そう」と直感したものを見てみたら、どれも面白かった。

そのひとつがこれ。こういう嘘なら、いいな。

www.ted.com


6.4

全ては読みきれてないし、サッカーの深いところはわからないけど、集団的と組織的の違いに納得。

日本人は、集団的な行動に慣らされてしまったがゆえに、組織的な行動ができないのだな。なるほど!漠然と感じて来たことを説得力のある言葉にしてくれた感じ。

必然だったサッカー日本代表ハリルホジッチ監督解任、その要因となった「世界基準」に到達出来なかった選手の問題 : Totemo512メモ



6.19

今、「アルゴリズム」が、人々の生活や社会に大きな影響を与える中、何を考え、どう行動すればいいのか。

そのきっかけを与えてくれる講演です。まずは知ることから。



6.24

人様にしかられたくらいで引込むような心臓は、持ち合わせがない!誇りを持て!白洲次郎の名言



6.25

いつからかオフィスでの仕事中は、アマゾン・プライムで音楽をかけっぱなしにしています。プレイリストのいいところは、自分の知らない曲を教えてくれること。たまに、あ、この曲いいな、このミュージシャン好きだな、という発見があって、その後、そのミュージシャンのアルバムを聴いたりしてます。

最近の「いいな」はこの曲。今週は仕事がなかなか進まず、朝早くから遅くまでオフィスにいて、気が滅入っていたのですが、夜中、薄暗いオフィスでこの曲を聴いて、なんだかいやされる感じがして。

で、今、ネットで調べたら、このボーカルの女性、数年前に亡くなっていたのですね。それを知って、さらに優しくて、素敵な曲に聞こえてきました。

ずっと ずっと ずっと - YouTube



6.26

やれどもやれどもうまくいかない時はつらい。人と心が通じない時はもっとつらい。

そんな時はこのセリフを呟きながら眠ることにしています。

「パトラッシュ……疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ……パトラッシュ……」



7.25

これ、けっこう鋭い指摘だと思う。イノベーションやさまざまな改革が日本で進まないのは、技術や法律・社会構造よりも、「他人を信用できない」心の持ち方に原因があるのではないかと。

「信用しつつ過度に依存しないという振る舞い方」を心がけたい。

他人を信用できない「ROM専」日本人のせいで経済が伸びない? | 加谷珪一 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト



7.26

だから、もうみんな自営業になろうよ。みんながなれば怖くない!



7.27

最近考えてることに関連して、以前、こういうブログを書いたことを思い出しました。結局、働くって何?ということをずっと考えてるのだな、僕は。

あれからもう5年以上。世の中は良くなったのだろうか、それとも、悪くなったのだろうか?

脱企業の社会〜ダグラス・ラシュコフ "Life Inc." - モノオモイな日々 Lost in Thought



7.29

https://www.facebook.com/jun.tak.39?hc_ref=ARQgv1t22UzIyjEnL7H3cHodFqtYRXwRsM2RO2aw24z16PseFcVQVL5-IO2HxtR_uAY&fref=nf


不確実性の高い時代に「選択と集中」を進めるのは博打ですよ。「強いリーダーシップ」を示したいだけのために、日本の救いだった科学技術も犠牲に‥。


現場のボトムアップから自然と生まれた選択と集中は賛成です。というか、小さな企業はそうしないと深いものは作れないですから。
ただ、国レベルでは多様性を認めなければならないし、多様性のあることが強さになると思います。特にその分野に見識の無い人が大きな声を持ちすぎるのは高度な分野にとっては邪魔だと思います。(たまには外圧も必要ですが)


繰り返しにかるかもしれませんが、国レベルの科学技術政策を博打の比喩で語ることは間違いだ、ということです。企業でも将来の研究開発は同じかもしれません。
科学技術や研究開発は、博打ではなく、種まきだと考えることだと思います。多様な品種を植えている農地が飢饉に強いように、多様性のある科学技術の種や芽があることが強さになる。「選択と集中」は、そこから葉が出て、茎が伸びて、ある程度育った段階で必要なら考えればいいと思います。
どんな種があって、どこに芽が育っていて、どんな果実ができそうか、そして、どの段階で「間引き」をすればいいのかを見極められるのが科学技術政策を担う者が持つべき見識です。それが今の政府にあるのか?という問題提起です。というか、科学技術の本質を考えればそもそも無理なことをやっていると思います。
僕は、現場の自主と自然淘汰にまかせたほうがはるかにいいと思っています。

付け加えれば、その意味では、研究予算がないから研究できないと、はずけしげもなく言う研究者もだめだな、と思います。逆境を頭脳でどれだけカバーできるかが研究者の能力だし、せめて発芽させるくらいは自分でやってよ、と、だれも研究費をくれない一民間人として思いますね。

雑感 2018年6月・7月

6.1
安倍政権が続けば、まじめに仕事をしよう、嘘はダメだ、法律を守ろう、という人はどんどん減っていく。

で、日本は加速度的に劣悪な国になっていく。

十年後、中国人が「日本の製品は買っちゃダメよ。嘘だらけの粗悪品だから」って言ってるかもね。

日本の良さ、この政権でどんどん無くなってない?


6.1
財務省官僚や、日大の指導者たちの謝罪は確かにひどかったが、何よりひどいのは、謝罪しない政治家だ。

罪を認めたものが叩かれ、罪を認めない者がのうのうとしている。

そんな社会、おかしくない?


6.11
別に安倍首相に限った話ではないけど、日本の政治家、特に閣僚と呼ばれる人は、海外で会議に参加できる程度の英語力は必須じゃないか?

ビジネスマンでも英語で打ち合わせしたり、交渉してる人はたくさんいるよ。今の時代、普通のことです。


6.11
これは同感です。保護主義自国主義を批判するならば、ロシアでも中国でも、対話の機会は作るべきでは。


6.11
ベンチャーやスタートアップのプレゼンでは、「眉唾もの」の話のオンパレードなのだが、最近は政府や国会の話の方が何百倍も信用できないので、ベンチャー・スタートアップの方がまだまともに感じてしまう。

あぶない、危ない‥。(嘘つき政府の逆経済効果を、誰か評価してくれないかな)


6.12
個人的には外交の安倍だなんて思ったことないが、これ以外でもマスコミの誘導には影響されてしまうもの。
マスコミの言うことをまず疑うようになったのは、よかったのかもしれませんが‥‥


6.14
いま、森毅さんがいたら、なんていうかなあ、って思う。
頑張れ、京大生!


6.14
偏向したフェイクまがいのコメントを発する岩田明子はもちろん問題だが、彼女を起用し、語らせ続けるNHK幹部はもっと問題だ。風向きが変われば岩田を切ればいい、と目論んでるんだろう。

もう時間はない。悪事は手先ではなく、首謀者に向かわなければ。

日大アメフトでは、そうしたではないか!


6.24
ほんとに。印象操作って、こんな風にやってるんだよなあ。
この局の場合、公共放送と名乗ってるところがさらに害悪。

そもそも公共放送って何?なんとなく公平中立って印象与えてるけど、客観的基準は?だれが保証してるの?


6.24
「見出し総理」、なるほど。

総理は最低だが、国民の多くは見出ししか見ないから、それでオーケー、とやりたい放題なのが悔しい。

広告代理店政治に勝つには、一人一人が賢くなること。


6.24
こんな風に思われる人が、本当のリーダーだよね。沖縄県民ではないのに、涙が出そうになる。


7.1
この5、6年、自分の価値観と社会の流れがどんどん乖離して、精神的にも参ってる。

これ自分の考えがおかしいんじゃなくて、社会がおかしいんだよね。昔はこんな日本じゃなかったよね。
もうわけがわからなくなりそう。


7.7
悪い奴か悪くない奴かって、悪事がバレたかバレてないか、ってだけのことじゃないか。


7.8
おれ、もう嫌なんだよね。
明らかに狂った世の中に自分を合わせるのは。
おかしいだろ、って言葉を押し殺すのは。
嫌なんだよ。


7.11
ほんとに。
以前は日本人は謝りすぎる、とやゆされたもんだが、今は謝ったら負けって感じ。特にこの政権になってからは、政府が謝ったら負けの権化だから、庶民な言わずもがな。
広告代理店の情報操作と組み合わさって、もう何も信用できない。


7.22
間違いを認めて考えを変えることは恥ずかしいことじゃない。むしろ、知的で勇気ある行為なんだ。

そういう「文化」を作ることが、日本の民主主義の第一歩だと思う。


7.22
僕も今、ちゃんとした判断力と倫理観を持ってる人は、安倍政権を見限りはじめたと感じます。

彼らもある種の善意から安倍政権を応援していたわけで、そこは理解してあげる必要がある。それに、立場が変われば逆にこれほど強い味方はない。


7.28
日本の技術力は世界一、と言ってる人はたいてい技術のことをわかってないです。

コミュニケーションは幻想かもしれないが、それでいい

以前、ある著名な数学者の講演を聴いたことがある。一般向けの講演だったが、場所が大学だったこともあってか、講演者は他の研究者・学者にむけて話しているようで、話の本質を捉えるのは難しかった。自分がどこまで理解できているかを測る尺度さえわからないほど、理解できなかった。

数学や基礎物理学には興味があるので、たまに講演を聴きにいくのだが、正直なところ「腑に落ちた」と思えるほど理解できることは稀だ。数学にしても基礎物理学にしても、ある壁を越えるか越えないかで、理解度は大きく違う。「ゼロかイチか」に近い状態だ。ただ、理解できない時は知ったかぶりもできないので、講演の後、知り合いに間違った意見を述べることもないのは、せめてもの救いではある。

一方で、人文系の学問では、理解しているかしていないかの境界線はもっと曖昧になる。相当難しい哲学書を読んでも、部分的にはわかった気になる。実は自分が理解できてそうな部分だけを取り出して理解した気になっているだけなのだろうが、それでも何かを理解した気にはなれる。そのほんの小さな、もしかしたら本質とはかけ離れた理解を、他人に話すこともできてしまうのだ。そこは、数学や物理学のような「ゼロかイチか」タイプの学問とはまったく違う。


人文系学問のこの性質は、学問のような高尚なものだけでなく、人の話や書いたものでも同じだ。話を聴いたり文章を読んだりして、まったくわからない、ということは稀だと思う(それが日本語であれば)。実は一割も理解していないのかもしれないのに、その一割だけを元手に友だちと議論しているかもしれない。議論できてしまうのだ。


コミュニケーションの前提条件は、コミュニケーションの対象となっている事柄について最低限の知識や経験を共有しているということだと思う。それがなければ真のコミュニケーションは成立しないはずだ。たとえば、僕が、突然地球にやってきたサイヤ人とコミュニケーションできないのは、共有している知識や経験が何もないからだ。

サイヤ人とまではいかなくても、普段の生活の中で、同僚や顧客、友人や家族との間でさえ、コミュニケーションの対象となっている事柄について十分な知識・経験を共有しているかは疑わしい。しかし、その点には「目をつぶって」、必要な知識を共有していると仮定してコミュニケーションを進めている。逆に言えば、共有の程度について目をつぶらなければ、コミュニケーションできないと薄々気づいている。必要な知識・経験を完全に共有できていることなんてほぼあり得ないことは、少し考えればわかるにもかかわらず、だ。

人とコミュニケーションする時、このことを忘れてはいけないと思う。たとえば、フェイスブックである記事について議論する時、その記事をどのように理解するかは、読む人の知識や経験に大きく影響され、人によって違うはずだ。ただコミュニケーションを前に進めるために「ほぼ同程度理解している」と仮定して議論しているにすぎない。その違いを意識しないと、論点があやふやになってしまう。時にはお互いがすれ違っていることさえ気づかずに不毛な議論が続く。いや、実際にはほとんどのやり取りはすれ違っているのかもしれない。ただお互いに「相手を理解し、相手に理解されている」と信じているだけなのだ。


つまり、コミュニケーションは幻想だ。十分な知識・経験を共有し、ある事実について同じ「感覚」からスタートできるなんて、ほぼありえない。ただ、お互いに理解していると思い込もうとしているだけなのだ。


そう書くと何か絶望的で、「人と話しても無駄だ」と自暴自棄になりそうだが、それもまた違うと思う。人はみな理解の内容・程度が違うのだと割り切り、それを知った上でそれぞれの意見を述べ合えばいい。人々の多様性は集合知にとってむしろプラスなのだ。集合知は「みんな違ってみんないい」という基本思想の上に成り立つ。その違いを受け入れることは、集合知を正しく機能させるためにもっとも重要なことだ。つまり、「すれ違い」があるからこそ、新しい発見・進歩があるのだ。

コミュニケーションは幻想である。だからこそ、膨大な幻想の中から共通した部分を拾っていくことが大事だ。それが人類の知識・知恵を発展させる唯一の道なのだから。


…と威勢よく書いてはみたが、僕の意見に同意しない人もたくさんいるだろう。でも、それでいいのだ。

手書きのノートと情報の再構成

京極夏彦氏はここまで「読みやすさ」を追求していた 版面の細かい制御のため、InDesignで小説を執筆 | JBpress(日本ビジネスプレス)

京極夏彦氏の言ってること、すごくわかる。

学生時代、授業のノートを友だちに貸した時、「君のノートは読みやすい」と言われて嬉しかった。なぜなら、ただ板書を書き写すだけでなく、自分なりに階層化・構造化して文字ではあってもビジュアルに再構成しようと思ってノートを書いていたので。

今は雑になってしまったなあ、と京極氏の姿勢を見て反省。

そして、表現の自由度という観点では、今でも手書きに勝るものはない。テクノロジーが進歩したとはいえ、まだ多くの場所で、人間が機械にあわせている。それは人間が本来もっている能力を発揮できていない、ということだ。

人間の能力をいかに開放するか。テクノロジーが人間の真の部下となるのを目指すのが、テクノロジーの最大で唯一の目標ではないだろうか。

人生の土台作り

昨夜の、SONGSスペシャルで、宇多田ヒカルさんがこんなことを言っていた。


もし今、つらくても、そのつらさがあるから、この先、たとえば五年後、十年後、よりよい人生になるかもしれない。もっと幸せになれるかもしれない。そう考えると、どんなことでも、今この瞬間を見るだけでは評価できないと思う。


最近少々落ち込んでいた僕は、この言葉を聞いた時、反射的にその通りだな、と感じた。暗かった周囲に少し光が差し込んだように思った。

でも、それから少したってみると、はっきりと意識はしていないにせよ、僕はずっと、宇多田さんと同じように思いながら、生きてきたようにも思えてきた。自分が今、知らないこと、できないことにチャレンジするのは、自分の経験や知識を広げて「土台」を作ろうと思ってきたからだ。広くて強い土台があれば、その上に大きな塔を建てることができる。そう信じて生きてきた。

でも、僕はただ土台を作ってきただけで、塔の建設には着手できなかったのではないか。土台を作ることばかりに力をかけ、塔を作る仲間を見つけに行くことも、お金を集めることもおろそかにしてきた。そうしているうちに、残りの時間も少なくなってきた。他のことを犠牲にして作ってきたその土台さえ、気に入らなくて、まだ何度も作り直している。

そんな僕の「人生の工事」はどこまで行き着けるのだろうか。人生の最後に、何か人に見せられるものを作ることができるだろうか。


宇多田さんのいう通り、どんなことも今だけでは評価できない。一方で、未来を知ることもできない。そのバランスの中で何か行動を起こすのが、生きる、ということなんだろう。

パラリンピックなんて、やめちまえ!

タイトルを見て即座に、お前は何を言ってるんだ!いい加減にしろ!と思った人は多いと思う。でも、ちょっと僕の意見を聞いてほしい。僕はパラリンピックをやめろ、という理由を。

今やパラリンピックを知らない者はほとんどいないだろう。ウィキペデイアによれば、「身体障害者(肢体不自由(上肢・下肢および欠損、麻痺)、脳性麻痺視覚障害、知的障害)を対象とした世界最高峰の障害者スポーツの総合競技大会」だ。

東京オリンピックが近づくにつれ、パラリンピックの広報や障害者スポーツに関わる番組や記事も増えてきた。これからさらに多くなっていくだろう。


でも僕は、そんなパラリンピックというものを認知、定着させようという動きにふれるたび、違和感を感じている。なぜなら、それは、障害者への差別を助長し、彼らを社会的に隔離する可能性があるからだ。


近代オリンピックは、誰もが認める、世界最高峰のスポーツ大会だ。肉体、さらにはその裏にある知性も含めて、人間の能力の限界に挑戦する活動だ。そこには、人種や文化の違いはない。スポーツ種目の性質上、男女の性別こそ分かれているが、少なことも目指す理念としては、公平・平等に競ういあう。だからこそ、人々は感動し、勝者に心から敬意を払おうと思うのだ。

一方、パラリンピックは最初から、「障害者」という枠をはめている。「障害者」という集団だけの競技なのだ。いわゆる健常者には出場資格はない。

それはパラリンピックを、限定された、誤解を恐れずに言えば、隔離された内向きの競技にしてしまわないだろうか。すなわち、障害者に対する理解ではなく、逆に無意識な差別を助長しないだろうか。

もちろん、パラリンピックに興味を持つ人、協力する人が差別意識を持っているとは言わない。むしろ逆で、障害者の立場や権利を少しでもよくしたい、と強く願っている人たちだと思う。

ただ、考えてほしい。例えば、アフリカ(アフリカでなくてもいいが)だけのバスケット大会を開くことが、アフリカへの理解向上につながるだろうか。あるいは、兵庫県(僕がたまたま住んでいるからで他意はない)だけのスポーツ大会に、興味をもつだろうか。持てたとしても、そこでの優勝者に敬意を払うだろうか。

アフリカだけの、あるいは、兵庫県だけのイベントがそれだけで終わる可能性が高いように、パラリンピックもそれで終わりになってしまう。それは、障害者を、健常者とは別な世界に閉じ込めたままに終わらないだろうか。

ではどうすればいいのか。それは、障害者と健常者が同列で競い合えるスポーツを作ればいいのだと思う。

僕は以前、友人に誘われて車椅子バスケットをやったことがある。僕は学生の頃バスケットをやっていたが、車椅子バスケットはまったく別のスポーツだ。まず車椅子を自由にあやつれない。スピードも出ない。ボールをさわることさえ至難の業だ。

ところが障害者のプレーヤーはいとも簡単に車椅子をあやつり、楽しそうにプレイしている。車椅子バスケットでは、障害者のほうが格段に強い。

あるいは、車椅子マラソンは、一般のマラソンよりはるかに速い。車椅子を使うのだから当然と言えば当然だが、そのスピード感は爽快だ。自動車レースにも似た興奮がある。もちろん、普段、車椅子で(文字通り)腕を鍛えた障害者のほうが、健常者よりはるかに速い。

テクノロジーの力を借りれば、障害者と健常者が同等で競い合えるスポーツを開発することも十分可能だ。腕がなくてもボールを投げたり、脚がなくてもジャンプしたりできる。目が見えなくても相手や的の場所がわかる。そんなことも、テクノロジーを使えば可能になってくる。

そんな新しいスポーツは、テクノロジーが面白いだけでなく、それをあやつる人間の能力も興味深いものにできるはずだ。健常者と障害者が同列で競い合えるものになるはずだ。そうなれば、そもそも健常者と障害者の壁自体がなくなっていく。僕はそんな期待を持っている。


パラリンピックにも、障害者への理解を向上させる意味はもちろんある。でも、そこで終わらないで、その先に向かってほしい。テクノロジーが高度で身近になった今、それは十分に可能だと思うのだ。

「お金で買えないもの」がある社会

www.ted.com

最近、朝早く目が覚める。朝からネットをするのも気が引けるし、本を読む気にもなれない。そこで、撮りためていたTV番組を見ることにしている。中でもお気に入りが、「スーパープレゼンテーション」だ。TEDの中から選りすぐりのスピーチを紹介してくるNHKの番組だが、これがどれも面白い。というか、考えさせられる。

今朝見たのは、マイケル・サンデルの「なぜ市場に市民生活を託すべきではないのか?」

サンデルは、そのスピーチの冒頭で、刑務所の監房もお金を払えば「アップグレード」できる、という例を紹介する。あるいは、テーマパークでは、お金を払えば長い列に並ばなくてもいい「ファストトラック」がある。公聴会などの列に代わりに並んでくれる「行列代行会社」もある。そこではホームレスの人たちが雇われているそうだ。野球観戦でも、まるでホテルの部屋のような高級ボックスシートが販売されている。

これらは特別な例ではない。まわりを見回してみれば、かつては商品ではなかった様々なものが、いつのまにか「買える」ようになっていることに気がつく。たしかに、お金は僕たちの社会の中により深く、より広く入り込むようになっている。それがサンデルの言う「市場社会(Market Society)」だ。

市場社会には2つの問題がある。ひとつは格差をさらに拡大すること。お金が「モノを言う」領域が増えるほど、お金を持つものがより有利になり、持たないものはさらに不利になる。

もうひとつの問題は、様々なことにお金がからむことで、僕たちのものの見方、価値観も変わっていくことだ。知らず知らずの間にお金があらゆることの尺度になり、一方で、お金以外の評価は重視されなくなる。たとえば、いくら善良で能力が高くても、お金を稼いでなければ認められない。そんな風に世の中の価値観が変わっていく。

そんな社会に僕たちはいつの間にか慣れてしまい、気が付かないうちに、その片棒を担いでさえいるのかもしれない。


一方で、「お金で買えないもの」を見直し、生き方を変えようという人たちも増えてきていると感じる。僕の周りでも、自給自足に近い生活をしている知人や、かなりの給料をもらっていた外資系の会社をやめて、自己発見をテーマにしたセミナーの講師を始めた友人がいる。

彼らが、お金で測られる今の社会を変えたい、と思っているかどうかはわからない。しかし、少なくとも、お金を一番大事なものだとは考えてはいないはずだ。

お金は人類の偉大な発明である。だからこそ人類社会全体に広がり、何世紀にもわたって使われてきたのだ。この社会全体にあまねく行き渡った道具を、このあたりで少し立ち止まって見直してみるのもいいかもしれない。あまりにも当たり前なので見えているのに意識していない、空気のような存在について、先入観なしに考えてみたい。もしかしたら、そこから、自分がどう生きたいと思っているのかが見えてくるかもしれない。

そんなことを「無料で」教えてくれた、マイケル・サンデル氏に感謝したい。