モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

知恵と勇気とより、カネとコネ。そんな国で誰がリスクを取って起業しようと思うだろうか?

https://www.mag2.com/p/news/370992/2

 

「輪の中に入れればいい目を見られるけれど、輪の中に入れなければ生きていくのも困難、日本経済はそういう状態になっているのです。つまり「コネ」があるものだけが潤い、それ以外の者はやっていけない社会になりつつあるという事です。」

===================

企業も少子高齢化。なるほど、その通りだと思う。

 

 

少し前、とある科学技術行政機関が主催するイベントに出た時のこと。有識者のパネルディスカッションの後の質疑応答の時間に、地方で交通系のインフラに取り組むベンチャーが手を挙げてこう言った。

「私たちはいろいろ新しい取り組みをやってきたが、結局、地方行政は大企業を選ぶので、私たちは入ることもできない。そういう状況をなんとかしてほしい」。


それなりに実績のあるベンチャー企業だったし、僕はその勇気ある意見に、登壇していた有識者がどんな回答をするのかを、ベンチャーの端っこにいる僕は、期待した。

 

ところが、その発言はまったく無視されて、誰も何の意見も言わずに質疑応答は終了。おそらく、出席者の中に多数いる、国と共同で大きなプロジェクトに取り組む大企業に配慮してのことだろうが、肩透かしどころか、弱い立場で頑張っている若い企業へのあからさまな態度に、僕は怒りさえ覚えた。

 


こんな世の中じゃ、リスクを取って新しいことに挑戦しようという、本来あるべき姿勢を持った企業は増えないだろう。

 

知恵と勇気より、カネとコネ。イノベーションだ、起業だ、と耳障りのいい言葉を並べながら、現実には、既得権益の城の扉はガッチリと固められ、「新参者はお断り」なのだ。

 

そんな社会で、世の中のために起業しようなんていう「孝行息子」が育つはずない。まじめに、誠実にやろうとしている者ほど、グレていくんだろう。

 

少子高齢化の影響は単に数の問題じゃない。精神的な影響の方が、はるかに恐ろしいのだ。

しんどいけど面白い

テクノロジーにもいろいろなレイヤーがあるけど、やっぱりインフラに近いものはワクワク感のレベルが違う。


舗装された道を与えられて「ここを歩きなさい」といわれるより、原野に連れていかれて「何やってもいいよ」と言われる方が面白いよね。しんどいけど面白い、って言うのが、最高に面白い。いや、本当は、しんどいから面白いんだよね。


と書きながら、日々の現実の中では、楽な方に行ってしまうのだけど。

 

「そんなことをやってもいいのか」と「そんなことができるのか」

qiita.com


クリエイティブには、前提や制約をぶち壊して「そんなことをやってもいいのか」というものを作る人と、与えられた制約を最大限に利用して「そんなことができるのか」というものを作る人がいるのではないだろうか。

後者はたとえばこういう人。大好きです。

科学教育は「たけし軍団」でいいのではないだろうか

科学ほどクリエイティブなものはない、と思ってきたので、科学を、決められたルールに従うだけの退屈なもの、と感じる人が多いのなら、残念なことです。

科学教育が、芸術でいえば、絵筆の使い方や色彩論みたいなところで止まっていて、自由に絵を描く、というところまで行きついていないのかもしれません。芸術家でなくても絵を描くのと同じように、科学者ではなくても自由に実験したり、理論を考えてもいいはずだし、それが楽しいのです。

科学に限らず、教育の唯一の目標はそこにあるんじゃないだろうか、と、教育の専門家でない僕が、自分なりの仮説を立ててもいいのだ、と教えてくれたのも教育、なんですよね。

===================

「そうは言っても、科学の手法は絵筆を習うようにはいかんだろう」と考える人にむけて補足します。


この文章を書きながら思い出していたのは、以前、テレビで放送されていた「たけしのコマ大(コマネチ大学)数学科」です。毎回、ある数学の問題が出され、現役東大生とたけし軍団とたけしが解答を競いあうバラエティ番組で、東大生が受験数学を駆使してエレガントに解く一方で、たけし軍団は「体を張って」「しらみつぶしに」問題を解きます。高校レベルの数学を勉強した人にとっては、たけし軍団のやり方は、やぼったく、滑稽なわけですが、実はたけし軍団のやり方のほうが、科学の本質に近いのではないでしょうか。

解き方がわかっているものは、その解き方を当てはめれば良いわけですが、まだ教科書にのっていない問題、すなわち、科学者が取り組んでいるような問題は、当然習ったことだけで対応できないので、まず、実験したり、観察したり、シミュレーションをします。科学者はそのような試行錯誤をもとに仮説を立て、仮の理論を作り、それが正しいかどうかを再び実験やシミュレーションで確かめるというプロセスを行っていると思います。とりわけ、最先端の科学ほど試行錯誤の連続ではないでしょうか。「千三つ」と表現する人もいますが、まさに千回チャレンジして3回成功すれば御の字というような大変な作業を行っているわけで、その「勝率」はたけし軍団より低いかもしれません。これは一種の「体を張った」作業と言えないでしょうか。それでも、その試行錯誤が楽しいのだ、と科学者は思っているはずです。


そういう科学の姿を知っていれば、実験方法や理論ばかり習うのではなく、たけし軍団のように実際に手や体を動かして、自分で体感してみることが大事だとわかるでしょう。そういう自分の体を張った経験から得た「勘」は、その後、理論を学ぶ時に大きな糧になるはずです。そのような土台がなければ、ほんとうの学習はできない、とさえ思います。だから、教育が目指すべきことは、この「勘」を育てることだと思いますし、それは難しいことではなくて、たけし軍団と同じようなことをやればいいのではないか、と思います。


僕は仕事でプログラムを書きますが、はじめての課題の時は、完璧な設計図を書いてからプログラミングするよりも、ある程度考えたら中途半端でもコードを書いて、具体的なデータをいれて動かしてみて、おかしなところを修正していく、というやり方の方が早くて確実だと経験的に学びました。つまり、日々行っていることは、たけし軍団のやり方と変わりませんし、それが正解だと思っています。


再び芸術に例えるなら、そのような科学の営みは、墨絵よりは油絵に近いかもしれません。いきなり完璧な絵を無駄なく描きあげるのではなくて、構図を考えたら、下書きして、色を塗ってみて、おかしいところは上塗りして、あるいは構図から考え直してまた描いてみて、全体を見ながら細部を修正して…というような感じで、試行錯誤しながら完成させていくのがプロセスです。科学もそれに近いのではないか、と思います。科学に限らず、どんな分野でも、そんな感じなのかもしれません。


僕は、この「試行錯誤をする能力」と、試行錯誤の体験から得た「勘」こそ、人間の最大の知恵だと思うのです。つまり、どんな教育もそれを最終的な目標とするべきだ、と思います。


wired.jp

「無縁」で生きること

anmintei.net


れいわ新選組から立候補した、やすとみ歩さんは、れいわ新選組を「無縁者の集まり」という。最初は「無縁」ってどういうこと?と思ったが、ブログを読むと、「無縁」という言葉が心にすっと入ってくる。なるほど、と思う。

僕は、世の中の人がすべて自営業(フリーエージェント)になればいい、と言い続けてきたが、それは、やすとみさんの言葉を借りるなら、「無縁」になれるから、ということなんだろう。


僕は15年間働いた大企業をやめて、今は小さな会社を経営している。現在は、会社というのもおこがましく、ほぼ一人で仕事をしている。そんな働き方をしてきた中でのなかなか面白い発見は、大企業や大きな組織にいれば「格が違う」と言われて、対等に話ができなかった相手でも、自営業やフリーランスなら(一応、ではあるが)対等に話ができるということだ。従業員数万人の大会社であろうが、一人の超零細企業であろうが、あるいは自営業だろうが、「代表者」という肩書は同じなのだ。

要するに「偉い人と話したいなら、一人になればいい」という発見は、目からウロコの発見なのですね。半分冗談だけど、半分は真実だと思っている。肩書なんて意味ないな、と、けっして負け惜しみではなく、実感としてそう思うようになったのだ。組織から離れたおかげで。


「肩書」という外見的なことだけではない。内面的にも、自営業に近い今のほうが、大組織にいたときより自立している感覚が強くなった。一人になれば自立せざるを得ない。考え方が自然と「無縁」になっていく。そして、自立することで「生きている」という実感が、自然に湧いてくる。

そうすると、他人への関心も強くなる。不思議なことに、一人だからこそ、他の人と一緒にいるこの社会が気になってくる。大企業にいたときには、自分の周りしか見えなかったけれど、今は、もっと大きなスケールで人々が気になる。それは属する組織に縛られている状態とはまったく逆の、独立した個として社会に関わりたい、という欲求といえるかもしれない。


大組織の中にいた時と、頼る組織のない今とで、こんなに考え方や感じ方が変わったのは、前にも書いたとおり、人間、とりわけ日本人は、「組織」というものに飲み込まれすぎるからだ、と思う。周りの空気を読み、周りの人々を尊重し「和」を尊ぶ、という日本人の性質にはいい面もあるけれど、組織にいることで、自分の持つ優れた能力を殺してしまって、できることもやらないようになっていく、という負の側面は間違いなくある。自分の可能性を自分自身で潰していくのは、とてももったいないことだ。それは、社会の中での「自殺」に等しいことではないだろうか。


組織は、いつのまにか人々の心のなかに「立場」というものをつくり、立場がその人の言動を変えていく。やすとみさんの言うとおり、「立場でしか話さなない」人間になっていく。まるで、「立場」というモンスターに遠隔コントロールされたロボットのようだ。人間は社会的動物だから、組織という社会の中でどうやって行動するかを考えるのも、人間の優れた知恵だろう。しかし、今、それが行き過ぎているのではないか、と強く思う。


以上は、この十年以上ずっと考えていることなのだが、それは、大きな組織から離れてはじめてわかったことで、組織の中にいながら発見することはとても難しいことだと思う。


だから、できるだけ多くの人に、広い意味での「自営業」になってもらいたい。一人で生きてみれば、僕が感じてきたことは絶対にわかってもらえると思う。そして、毎日が、少なくとも今よりは楽しく感じられる、ということは保証する。楽しい、というのは、自分が生きている、という感覚だ。そうなったら、いつの間にか世の中のシステムが大きく変わっている、と思うんだけどな。

政治への無関心という病

昨日の夕方、ある政党の街頭演説を聴きに行った。

百貨店の前の歩道の一角でマイクを握って演説する候補者を、僕は少し離れた場所から見ていた。足早に通り過ぎていく、通勤帰りと思われる人たちの向こうで、ひとりの女性が政党のチラシを通行人に配っているのが目に入った。普段着の姿から、街頭演説の現場に来て、飛び込みで手伝っている人のようだった。その両横には、小学生くらい男の子と女の子が、寄り添うように立っている。おそらく彼女の子どもなのだろう。年齢が上の男の子は、母親を手伝おうと、時折、少し恥ずかしそうな声で、お願いします、と通行人に声をかけていた。小さな女の子は、まだ選挙というものが何なのかわからない様子で、母親のスカートの裾を握って、退屈な時間を我慢しているようだった。


演説を聴いていたのは小一時間ほどだったろうか、彼女たちの前を通り過ぎていった人は、百人以上いただろう。女性は、通行人一人ひとりに「〜をお願いします」と丁寧に声をかけながら、チラシを差し出す。しかし、チラシを手にとったのは、ほんの数名だった。

ごめんね、チラシはけっこうです、という態度を取る人はまだましで、ほとんどの人は彼女と目を合わせることすらしない。まるで、彼女が存在がしていないかのように、前を向いたまま無表情で通り過ぎていく。それはとても奇妙な光景だった。私はあなたには関心はないのだから、あなたも私にちょっかいをかけないで。無表情で、無関心で、冷淡な、他人を排除する態度。

そんな風景をしばらく見ているうちに、僕は、だんだんと心が重たくなってきた。


通行人の中には、他の政党を支持している人もいるだろうが、ほとんどは政治には無関心なのだろう。あるいは、政治に無関心であることを装っているのかもしれない。チラシを受け取ることで、自分が政治に興味があると他人に思われたら困る。そう考えているのかもしれない。

この、政治に関心をもたない方がいい、政治に関心がないと思われる方がいい、という空気は、いったいいつから生まれたのだろう。政治に関心を持つ、持たないは個人の自由だ。しかし、たとえそうだとしても、昔は、政治に関心のないことには多少の罪悪感を伴っていたのではないか。今はこの政党について知識も関心もないけれど、話は聴いてみよう、という態度が、普通の人間の態度ではなかっただろうか。


人の話を聴こうともせず入口でシャットアウトして、政治に関わろうとする市民をまるで異世界からやってきた生物を見るかのように、言葉を交わすことすらしない。自分のまわりの狭い世界しか見ず、その外で誰が何をやっているのかにはまったく無関心。そんな人々が増えているのなら、悲しいことだ。「悲しい」というのは控えめな言い方で、本音では、とても恐ろしいことだと思っている。

この、政治への人々の無関心が拡がった責任は、まさに政治にあるのではないか。これまでの政治が大きな間違いを犯してきた、ということの現れではないだろうか。政治への無関心は、自分のいる国を、国民の心の中にある願いとは異なった方向に進ませる。心のなかにある願いさえ、やがてなくなってしまうかもしれない。それは、今の日本が抱える様々な問題の根源にある「病」ではないか。



チラシを配り続ける彼女の前を無表情で通り過ぎる人々を睨みながら、「お前らみんなバカじゃねーの?」と僕は何度かつぶやいた。でも、本当は「今の政治、バカじゃねーの?」と言うべきだったかもしれない。

山本太郎の思いは、国民ひとりひとりの希望である

youtu.be


「一人で国会を変えれるんかな?」そんな聴衆の質問への山本太郎の回答。そこには彼の思いが詰まっている。と、同時に、その言葉は、おおくの人々が薄々おかしいと思いながら、どうせ変わらないし、変えられない、と見て見ぬふりし、思考停止してきたことなんじゃないだろうか。

政治家なんて、自分の出世と名声だけを考えている尊敬できない人間たち。選挙演説は嘘とまやかしのオンパレード、税金を使った「ゲーム」でしかない。これまで、本音ではそんな風に思っていても、何もしてこなかったし、声に出すことさえしてこなかった。そんな人は多いのではないだろうか。


そんな白けた空気、未来への夢も希望もない閉塞感を作ってきたのは、これまでの政治だということに、山本太郎は気づかせてくれる。そして、そんな政治を許してきたのは、ひとりひとりの国民なのだということを、直球で訴える。

人々の心に根深く植え付けられ、もはや意識することすらなくなってしまった無力感こそ、山本太郎が変えようとしていることだ。


山本太郎の、この十分足らずの街頭での言葉に、僕は涙した。これまでの人生で、政治家からこれほど胸を打つ言葉を聴いたことがあっただろうか。山本太郎は、政治家になっても市民、とりわけ弱者の気持ちを忘れない、ほんものの政治家だ。


今、彼を応援することは、小さな希望にすぎない。しかし、それは、将来、日本全体に拡がる大きな希望に成長する可能性を秘めている。その小さな希望を成長させるのは、私たちひとりひとりの勇気だ。