モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「次の時代に来るもの」を知り、次の時代に何をするかを考える

f:id:yasuda0404:20151109215001j:plain:h360


今朝、以前書いたブログのことを思い出した。「次の時代に来るもの」というタイトルで、これから社会に送る変化を予想した、GOODマガジンの記事'The Next Big Thing'に触発されて書いたものだ。もう3年半も前のことになる。


その記事に書かれていたのは、次のような変化だ。


  • 農産物直売所から、スーパーマーケット農場へ。
  • 教材から、ゲームへ。
  • ベンチャー・キャピタルから、Kickstarterへ。
  • 雑誌から、Flipboardへ。
  • 母親から、Siriへ。
  • 都市計画から、地域計画へ。
  • 結婚から、同棲へ。
  • 大統領から、市長へ。
  • バイリンガルから、バイカルチュラル(多文化)へ。
  • インフォグラフィックから、物語へ。
  • 環境に優しいから、社会を変えるへ。
  • 贅沢から、基本へ。
  • 所有から、共有へ。
  • 「〜のために」から、「〜と一緒に」へ。


まだこれから、というものもあるが、全体としては、このとおり進んでいるのではないだろうか。

このような大きな流れに、ただ流されるだけではだめだ。その中で、自分はいったい何をするのか。どこへいくのか。

できるだけ早く動き出さなければいけない。


scivis.hateblo.jp

人間の理性は感情に勝てない

f:id:yasuda0404:20151030162701p:plain

上の絵は、錯覚(錯視)の代表例だ。AとBの色は実はまったく同じ。でも、人間の目には、Aが濃く、Bが薄く見える。「AとBはまったく同じ色だ」と知った後でも、やはり同じ色には見えないから、こんなに不思議な事はない。

解説によれば、Bのマス目は円柱の影にあるから、物理的に暗く見えるはず。これを人間の脳は無意識に補正して、「白」に戻してしまうのだ、と書かれている。ただ、この絵の円柱のある部分を除外しても、やっぱりAとBは同じ色には見えないから、それだけではないようだ。
おそらく、白黒の市松模様(チェッカーボード)の規則性から、「ここは白のはずだ」という無意識の補正が働いてしまうのではないかと思う。


f:id:yasuda0404:20151030163328p:plain


錯覚のメカニズムはともかく、この絵が教えてくれることは、人間はまわりの環境によって見えるものが変わる、ということだ。そして「神の目から観た真実」、すなわち、「客観的事実」をいくら脳の理性の側が納得していても、「主観的事実」を主張する知覚には、けっして勝てないのだ。ここで知覚とは、感性・感情と言い換えてもいいだろう。

この事実には、ちょっとした絶望を感じざるを得ない。なぜなら、現代人は、「話せば分かる」ということを民主主義の根底にある真理だと信じているからだ。理性と感情の乖離は、「いくら話してもわからない」という状況は存在するのだ、という別な真理を突きつける。これは、感情に対する理性の敗北と言える。

どうしても分かり合えない時、理性だけでは解決できない問題があるということを覚悟しておかねばならない。それを解決しようと思うなら、その人間がおかれている環境を変えるしか手は無いのだ。

ところで、その「変えるべき」環境がなんであるかは、常に理性でわかるものだろうか。今のところは、そう信じたい。なぜなら、もしそれさえ「錯覚」だとしたら、本当に絶望してしまうからだ。

                                    • -

<追記:2015/10/31>

そもそもこの問題に関心を持ったのは、最近話題になった下の画像がきっかけだ。このドレスが白と金にみえる人と、青と黒に見える人がいる、という事実は、大きな驚きだった。それまでは、意見や思考の相違は、同じものに対する「解釈」の違いであって、考えは人によって違っても、その共通認識となる事実は変わらない、と信じていたからだ。

しかし、この写真は、物理的には同じものであっても、人によって異なって見えている、ということを教えてくれる。これは、解釈の前提となる、人が知覚する「事実」は、人によって違うのだということを意味する。

このことは、色彩に関するニュートンゲーテの考え方の相違を連想させる。「色」というものは、人間の存在に関係なく絶対的に存在するものなのか、あるいは、人間が知覚し解釈することで初めて色が存在するのか、という相反する考え方だ。

このようなことは、今、開発が進められている「人間のような人工知能」にとって、けっこう大きな問題になるかもしれない。未来の人工知能は、AとBを同じ色と見るのか、違う色と見るのか、これもまた、人工知能を開発する研究者の考え方によるのだろうか。

f:id:yasuda0404:20151031081206j:plain

岡本喜八監督「肉弾」が教えてくれたこと

f:id:yasuda0404:20151028205024p:plain

今日、いつもより早めに自宅に帰って、なにげなくテレビをつけると、岡本喜八監督を取り上げた番組をやっていた。岡本監督が、今、若者の間で再評価されているという。

岡本喜八、と聞いて僕が思い出すのは、大学生の頃見た「肉弾」だ。


大学生として京都に住んでいた頃、下宿のすぐ近くに「京一会館」という伝説の名画座があった。一乗寺商店街のスーパーマーケットの横の狭い階段を上がっていくと、京一会館の小さな窓口があった。

大学の近くにある喫茶店でカレーライスを食べて、京一会館のチラシをもらって映画を観に行く、というのがお決まりのコースだった。そのチラシは「割引券」になっていて、もともと安い名画座に、さらに安く入ることができたのだ。(噂では、その喫茶店のマスターは、京一会館のもぎりのおばちゃんの息子だということだった。だから、その喫茶店のチラシを持って行くと、おばちゃんは「いつもありがとうね」と言って、他の割引券よりさらに安くしてくれた。たしか400円か500円か、そんな料金で入れたと思う。)

京一会館ではたくさんの映画を観た。その中で、今でも印象に残っているのは、案外、あまり期待せずに観た映画だったりする。岡本監督の「肉弾」もそのひとつだ。


「肉弾」を観たのは、岡本喜八特集と銘打った3本立て興行だった。「近ごろなぜかチャールストン」「ブルークリスマス」「肉弾」の3本立てだ。今、ネットで調べると1984年の2月の興行のようなので、僕が2回生の終わりごろだ。(そんな情報までネットにあげてくれている方に感謝!)

実はお目当ては「近ごろ…」だったのだが、一番印象に残ったのは、まったく予備知識もなく観た「肉弾」だった。


「肉弾」は、青春映画であり、喜劇であり、戦争映画だ。低予算の自主制作映画のような作り(岡本監督が自費を投じて作った映画だったことを、後で知った)で、ある意味愚直で、シンプルなストーリーなのに、なにかが心のなかに深く突き刺さった。「シンプルな」と書いたが、それは見かけであって、一皮むけば言葉では表現できない、深い思いがあることを感じた。

それを無理して言葉にするなら、世の中は深刻で馬鹿げているということ。戦争は悲劇であり喜劇であること。人間は複雑で単純だということ。そんな矛盾と皮肉に、大学生だった僕はリアリティを感じた。


当時、何のために生きているのかなど考えることもなく、今日と同じような明日が来るのを当然だと思って過ごしていた僕には、戦争はまったく無縁のものだった。自分が戦争に行くということは想像もできなかったし、想像する理由もなかった。「反戦」とか「戦争反対」なんて叫んでいる奴は、時代遅れの「ださい」奴だと思っていた。


でも、今の学生たちは、全く違う世の中に身を置いている。

少なくとも社会全体としては、今のほうがさらに豊かになった。でも、心のなかには、あの頃よりずっと明瞭な将来への不安があるのだろう。今日と同じ明日は、もしかしたら来ないかもしれない。そんな、30年前にはなかった不安が、今の若者にはリアルになりつつある。


岡本監督が戦争映画に込めたメッセージは、かならずしも評価されてきたわけではない。脚光を浴びたのは喜劇や娯楽の側面であって、ヒット作を連発した手腕は、一流の「エンターテイナー」として賞賛されてきたものだ。しかし、その華やかな外套をはぐと、体には無数の傷がある。戦争体験者としての強い思いがある。

昨日のテレビ番組で大林宣彦監督が言っていたように、「肉弾」は、その思いがもっとも強くあらわれた、もっとも岡本喜八の素顔に近い作品かもしれない。

戦争とは無縁の学生生活だったからこそ、あの時、岡本監督の映画に触れられたことに感謝している。僕たちや僕たちの少し下の世代が、もし岡本監督のような戦争体験者のメッセージにもっと触れる機会があったら、戦争というものに対してこんなにも鈍感にはならなかっただろう。


いくら頭が良くても、たくさんの「知識」を詰め込んでも、ただ自分で考えているだけではわからないことはたくさんある。たとえば、映画を通じて体験者のメッセージを世代を越えて受け取ることも、人類のすばらしい英知なのだ。

生身で体験し、真剣に考え抜いた人の思いは、何ものにも代えがたい。そういうものに触れることで、はじめて本当に賢く、謙虚になれる気がする。

社名に込めた思い

f:id:yasuda0404:20151007231620j:plain

先日、ある短いインタビューを受けた。「どんな価値観をもっているか」について話してほしいいうことで、思いつくまま話をしたのだが、その流れの中で、うちの会社の名前の由来を話していた。


内の会社の社名は、XOOMS(ズームス)という。映像制作がメインだったので、「ズーム(ZOOM)」という響きと、当時、’OO”が社名につく会社は大きくなる(たとえばYahoo!Google)というジンクスがあったこともあるが、れっきとした意味もある。XOOMSは、’eXperimental Object-Oriented Media Syndicate’からつけた名前なのだ。


最初のexperimentは、実験(の)という意味。あたらしいもの・ことを、試行錯誤しながら、自分たちの手で創り出したいという思いがあった。実はその頃(今でも)、[All life is an Experiment’=人生はすべて実験である、というラルフ・ワルド・エマーソンの名言がえらく気に入っていたのだ。

次のobject-orientedは、「オブジェクト指向」というプログラミング用語だが、ここで込めた思いは「目的志向」の人であれ、すなわち、ただ言われたことに従うだけではなく、自律した個人であれ、ということがある。
そして、Mediaは、メディア。映像やコンテンツ制作が主要業務であることとから、世の中の「媒介」するような仕事をしたい、という思いを込めた。

Syndicate、シンジケートは日本では裏の組織的なイメージもあるが、「いい意味での悪さ」(というと変な表現だが)をもった組織、とんがった集団でありたい、という思いから選んだ言葉だ。


こうやって社名に込めた思いを久しぶりに思い出してみると、自分の考えは、ずっと変わってないな、と思う。日々、思いつくままに動いている割には、けっこう芯はぶれてないじゃないか、と思う。ただ、理想と結果はけっして一致しているとはいえないけれど。

とにかく、社名にこめた思いを思い出せてくれたインタビュワーのIさんに感謝だ。あとは、実行と結果のみ、です。はい。

安保賛成派の言ってることって、逆じゃないの?

f:id:yasuda0404:20150908051337j:plain

安保法制の是非について、さまざまな視点から議論すること自体はいいことだ、と僕は思う。でも、中には明らかに誤解、というか、受け手をミスリードする意見もある。とくに感情に訴えようとするものは、怪しい。安保法制のような重要な意見は、より冷静に、より理性的に考え、判断しなければいけない。そのような「ミスリード意見」が無知からくるのならまだ諭せるが、故意で言っているなら不毛なやりとりにしかならない。だから、受け取る側はそういう意見は無視すべきだ、と言いたい。そうしないと議論が混乱し、本来の論点がずれてしまうからだ。


そのような「ミスリード意見」には、次のようなものがある。

ひとつめは、「安保法制に反対する奴は自分たちは汗をかかず、自衛隊まかせ。なにもしない利己主義者だ」というもの。賛成派にはこういう人、けっこう多い。

まったく逆でしょ、これ。安保法制に反対している人は、もちろん自分や子ども、友だちに死んでほしくないと思っている。それと同じように、自衛隊員にも犬死にしてほしくない、と思っているのです。だから反対してるんだよ。安保法制の賛成派こそ、集団的自衛権の行使のために自衛隊員をより危険な状況に追いやって、自分たちはなにもしないで平気なわけ?それこそ、究極の利己主義、じゃないですか?


ふたつめは、「安保法制反対派は売国奴」とかいう紋切り言葉。これもまったく逆。今の安保法制が通れば、まちがいなく防衛費(もはや軍事費、と言ったほうが正確か)は増える。そして、上に書いたように、犠牲者が出る可能性は高くなるし、敵国も増える。これが国益といえるのですか?なにが国益なのか。それがはっきりしないまま、ただ「国益」という言葉を振りかざす。

僕が賛成派の考えをなんとか理解しようと考えた限りでは、どうも彼らの考える国益は、どうも竹島を奪い返して、尖閣諸島を守り切ることらしい。それが実現したとして、どれくらいの「利益」があるのですか?そこを明確にして、それを実現するために払う費用や犠牲とを天秤にかけるのが議論ではないですか。僕だって、それらの島が日本の領土であってほしいとは思う。でもその解決方法は軍事力に訴えることではない、と思うわけ。軍事力で竹島を取り返し、尖閣を死守できたとしても、その後、どんなことがおこりますか?そこまで考えて「国益」を議論しようよ。それに、そもそもそれら領土の維持と、集団的自衛権とはまったく関係ない。集団的自衛権の「国益」ってなんなのだろう。そんな風に考えていくと、今の政権こそ「売国奴」じゃないのか?と思ってしまうけど。


そして、もうひとつ。「安保法制反対派は自虐的。国の尊厳などどうでもいいと考えている」という意見。これも理解不能。だって、国民の象徴である天皇陛下も、そのお立場で可能な範囲で懸命に平和を訴えておられるじゃないですか。安保賛成派は、それも無視してる。つまり、賛成派は天皇嫌いなんだね。天皇陛下は平和を望む国民の声を代表しておられるのだから。日本の尊厳を傷つけているのは、安保賛成派の方だと思うのだが。

民主化の波を「第2の天安門事件」にしないために

f:id:yasuda0404:20150829091309j:plain

www.newsweekjapan.jp


このニューズ・ウィークの記事を読むと、中国の強硬な反日政策は、江沢民という一人の政治家の見栄と恨みに源があることがわかる。彼は、天安門事件に代表される国民の民主化の動きを封じ込めるために、愛国主義教育を強化した。それは、やがて反日政策へとつながり、ある時点で国民の一部は「自律的に」反日を訴えるようになり、おそらく中国政府でさえ制御できなくなっていったのだろう。要するに、中国の強硬な反日政策は、国民の民主化への願いの反動からおきたことなのだ。

そういう歴史に学んだ時、日本で中国を避難する人たちが、今、中国の真似をして同じ道を歩もうとしていることに、日本の政治レベルの低さを感じるし、また、この先が恐ろしい。今、全国各地でおころうとしている、真の民主政治を求める国民の波を、「第2の天安門事件」にしてはならない。そのためには、個人の信条や怨嗟で国家を動かそうとするような政治家を拒否し、私たちの未来を、国民の叡智を集めて議論しようとする者を応援することだろう。

そしてまた、統治システムが崩壊しつつある中国も、この先、政治の方向は必ず変わる。他の国々はそう考えて、中国とつきあっている。日本も、未来を客観的に見て、今、何をすればいいかを考えるべきだ。それが政治であり、政治家に求められる唯一の見識だろう。

自衛隊は「国際救助隊」になれ!

f:id:yasuda0404:20060201180224j:plain

www.huffingtonpost.jp


軍事ジャーナリストの清谷信一氏の指摘に、僕は同感だ。この記事にかかれている自衛隊の現実ーーーーー自衛隊の「軍事力」不足ーーーーーは、外部から指摘されるまでもなく、現場に近い「制服組」のエリートはよくわかっていると思う。わかっていないのは、あるいは、あえて見ようとしないのは、外交力のない「背広組」と、軍隊をもつことが「国益」だと狂信する与党議員と、幻想でもいいから夢を抱きたい過激な市民の一部が過大評価をしている(誇大妄想を描いている)というのが現実だろう。まるで、「制服」の暴走を「背広」が止めるという本来の抑止構造が、まったく逆転しているように見える。(余談だが、このようなことは、防衛通の石破氏などはよくわかっていると思うのだが、彼もまた何らかの理由で持論を封印しているようだ。)

このような自衛隊の現実を踏まえた上で現在の安保法制を通すということは、イコール、今後、自衛隊にヒト・モノ・カネをかなりの量、投入し続ける決断をするということだ。おそらく、年数千億円なんかのレベルではないだろう。そういうリアルな問題を議論することなく、理想論だけで違憲法案を押し通すのは、あまりに姑息。というか、馬鹿げている。

安保法制賛成派の主張である、自衛隊が世界に貢献する道を探るのだとすれば、僕は自衛隊が「国際救助隊」になることだと訴えたい。不幸なことではあったが、いくつもの災害を経て、自衛隊には救助力のノウハウは蓄積されてきた。自然災害国日本だからこそ世界に貢献できるポテンシャルを自衛隊はもっている。これを世界のためにいかすことが、日本にふさわしい国際貢献だ。日本にとっても、後追いの二流軍事国家になって、膨大な人と金を投入しながら国際社会に認められれないような割の合わない「外交」より、はるかにいい。