モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

消費税は中小零細企業にとって最悪の税金(日本の将来を考えるなら、消費税は廃止すべきだ)

企業が滞納している税金のうち、もっとも多いのが消費税だ 。税金滞納統計によると、平成29年度の新規発生滞納額6,595億円のうち、消費税は3,706億円。滞納税金の56%以上を消費税が占めている。

この数字から、消費税が負担になっている企業・自営業者が多いということが容易に推測できる。自分自身が小さな企業を経営する身として、消費税負担の重さは実感している。


消費税が中小零細企業・自営業者に負担になるのは、「赤字でも払わなければならない」税金だからだ。ここに大きな問題がある。利益に対して税金がかかる所得税なら、儲けがあれば税金を払い、儲けがなければ税金は払わなくていい。儲けがあれば税金を払う余裕もあるから、自然な課税方法だ。

消費税だって同じだろう、と思う人もいるかもしれない。売上にかかる消費税と仕入れに係る消費税は相殺されるのだから、儲けがなければ消費税は払わなくていいではないか、と。でもこれは違うのだ。売上にはほぼすべて消費税がかかるが、支出の中には消費税がかからないものがある。代表的な「不課税」支出が社員の給料(給与)や役員報酬だ。


簡単な数字で考えよう。ある企業が、税抜で年間1000万円の売上があり、そのために1000万円の仕入れをしたとする。売上にかかる消費税は100万円。仕入れ分の消費税も100万円。実質の消費税負担は差し引きゼロになる。利益(この場合、ゼロ)に対する消費税負担額(やはりゼロ)は妥当だといえる。

一方、同じ1000万円の売り上げでも、かかった経費がすべて社内の人件費だったとする。人件費であろうが支出には変わらないので、企業の利益はゼロでかわりがない。仕入れとの違いは、給与には消費税はかからない、ということだ。支出が人件費の場合は、事業主は売上にかかる消費税100万円をまるまる収めなければならない。


実際、僕の経営する小さな会社は前期赤字だったにもかかわらず、かなりの消費税を払わなければならなかった。サービス業の性質上、支出の中で人件費の占める割合は大きいから、消費税の負担率も高くなる。

人件費の割合が高いのは、サービス業に限ることではない。一般に、小さな企業は、大規模な設備にかけるお金は少ないし、下請けの末端にいるとそれ以上外注することがない。結果的に労働集約型の企業が多くなるから、人件費の割合が高くなる。中小零細企業や自営業にとって、消費税は大きな重荷になるのだ。


人件費の割合が多いほど消費税負担が増えるという問題は、経営者だけの問題ではない。消費税負担が大きくなれば、経営者のマインドは、自社で人を雇用するより、外注したほうがいい、という方向に傾く。同じ作業でも外注なら消費税がかかるので、売上から相殺できるからだ。つまり、消費税は雇用にも大きな影響を与える。


もちろん、世の中の経済がすべて「税抜き」で組み立てられ、消費税が2%上がれば売上も2%あがるようなしくみなら問題はない。しかし経営者であれば誰もが知っているように、現実は違う。この10月の増税でも税込み価格を変えていない店は多い。税込みの値段が上がれば、消費者が離れてしまう、と恐れる経営者は多いのだ。

あるいは、ほとんどの行政や大企業には「○○円以下」なら簡単な手続き(入札や相見積もりが不要など)で発注できるというルールがあるから、担当者はその額以下で発注しようとする。しかし、その上限額は「税込み」で定められている組織も多く、消費税率が上がってもルールは変わらない。つまり、消費税があがれば、税抜の売上は目減りしてしまう。


このように中小/零細企業、個人事業主を苦しめる消費税は、日本の経済低迷の根源的な犯人だと僕は考えている。日本に消費税が導入されたのは、バブルが下り坂にかかった1989年。それと時を同じくして、日本の経済は長い低迷が続いている。消費税の導入と日本経済の低迷はぴったりと重なるのだ。これは単なる偶然だろうか?


バブルの前の経済には消費税はなかった。消費税を廃止して、経済がどうなるかを見てみるのは、けっして暴論ではない。(だいたい経済の理論なんて仮定次第でなんとでも言えるから、予測に毛の生えた程度のものだと考えている。)消費税を廃止して、必要なら所得税を戻せばいい。

少子高齢化、人口減少、格差・貧困などさまざまな問題に直面し、日本の経済はボロボロなのだ。将来後悔しないためには引き返す勇気もいる。

少人数で戦っている人ほど強い

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僕が、大組織よりも、小さなグループや個人に期待するようになった理由は、少人数で取り組んでいる人たちほど「強い」ということを発見したからだ。


少人数(ときには一人)の組織で他の人に頼ることができない環境にいる人たちは、自分自身で、さまざまな問題と格闘せざるを得ない。それは辛いことだけど、日々の問題を乗り越えるうちに、自然に知識が身につき、経験が蓄積され、視野が広くなっていく。


政治も同じだと思う。「大組織の問題点ショールーム」みたいな今の与党の中では、たとえ有能な人物でも成長できず、腐っていくだろう。小グループで戦っている政治家の方が、多様な人々の意見を伝え、より間違いのない判断をしてくれる。なにより自分自身で考え、行動する人になる。そうやって苦労してきた人は、タフで、優しい。

これは逆説的な発見かもしれない。だって、本来は、たくさん人がいる方がいい仕事ができる、とずっと信じてきたのだから。でも僕は気がついた。人が多いほうがよい仕事ができるということが正しいのは、個々の人がそれぞれの能力を最大限に発揮できる環境にいるならば、とうい前提条件のもとでの話なのだ。上意下達、組織優先、「忖度」の中では、個人の能力は殺されていく。有能な人ほど、能力を捨てることになる。なんとも、もったいない話ではないか。


能力のある人々が、一人で戦う勇気を持てば、世の中は画期的によくなるだろう。そして何より、本人自身が今よりはるかにハッピーになるだろう。

「中身より外見」時代への憂い

https://note.mu/jacknakamura/n/nc491ecf5b7fb

 

先日、仕事でお世話になっている方から、「もっとちゃんとした服装をしなさい。いくら中身があっても、外見が悪ければ人は目を向けてくれないよ」と言われた。そのニュアンスから、けっして批判的なものではなくて、僕のことを思って言ってくれているのだと感じた。最近、僕は仕事の場所でもラフな格好で行くことが多いので、すこし上の世代のその人は、損をしていると感じてアドバイスをくれたのだろう。

 

自画自賛になるが、僕はプレゼンテーションは上手いほうだと思う。正確に言うと、以前は上手かったと思う。でも、プレゼンを重ねるうちに、中身がまだ足りないのに外見を取り繕って、実際よりもよく見せて評価される、ということに、一種の罪悪感というのか、嫌悪感のようなものが芽生えてきたのだ。そして、外見に手間と時間をかけるより、中身の質を高めることに労力を注ごう、と思うようになった。

 

たとえば、上で引用した、グレタさんとマララさんのプレゼンを比較する投稿。マララさんの洗練された話し方と比較して、グレタさんの話し方は愚直で、多くの人には届かない、と筆者は言う。ある一面を見ればそうかもしれない。しかし、僕は、このような、中身ではなく外見のことだけを評価する人に、とても残念な気持ちをもってしまう。

 

文章を書いた本人に悪気はないと思う。彼は、グレタさんの意見を反発なく世の中に受け入れてもらいたいために、自分の知識と経験からアドバイスしたくなったのかもしれない。ただそれはまさしく「一面的」な味方だ。中身の是非には触れず、外見や技術についての意見を堂々と述べることこそ、コミュニケーションの本質から外れていると思う。

 

これは、評価しやすいものしか見ない、「マニュアル主義」教育の弊害なのかもしれない。たとえば、会社の面接でも、何をどう考えるかよりも、いかに相手の共感を呼ぶ表現をするかのほうが大事だ、と考えているんじゃないかと憂える。(ただ、それは若者が悪いのではなく、学校でそういう教育しかせず、面接する方も表層的なことしか見ない、上の世代が悪いということなんだろう。)

 

 
コミュニケーション能力が大事だと言うことに異論はない。しかし、コミュニケーション能力を「テクニック」の次元だけで捉えるのは、コミュニケーションを活性化するどろころか、ますますコミュニケーションの質を落とすことに加担するだけだ。その結果、社会はますます空虚になっていく。

 

僕は米国での海外勤務の経験がある。その時、自分自身の体験として知ったのは、ネイティブの相手がこちらの話を聴くか聴かないかは、けっしてこちらの英語の上手い下手ではない、ということだ。今、僕が話している中身に価値がある、と相手が考えているから、話を聴いてくれるのだ。たとえ英語が下手でも、伝えようとしていることに価値があると思えば、彼らは真剣に聴いてくれる。

 

一方、日本では中身より形式が重視される。ときには中身なんかどうでもよくて、形式さえ整っていれば評価される。それが上に書いた、面接のテクニックようなものを助長する風潮の背後にあるのではないだろうか。日本は昔からタテマエ社会だと言われるが、昨今、さらにタテマエ社会になっているような気がしてならない。若者と話していると、そつなく、「正しいこと」を述べる人が多い。でもそれは、本当に自分自身が考え、感じたことなのだろうか。正直なところ、そんな疑問を持つことも多い。若者たちの本音は、公の場で本音を語るなんてありえない、ということなのかもしれない。

 

日本の「タテマエ」は、海外の「ポリティカル・コレクトネス」とは全く違うものだ。ポリティカル・コレクトネスは社会全体の自由平等や民主的な考えから生まれたものだが、日本のタテマエは上下関係などの古い考え方や、責任回避というネガティブな思考、「場の空気」という得体のしれないものに根ざしているように思う。

 

昨今叫ばれている、起業家マインドの不足や政治への関心の低さ、社会全体にただよう息苦しい雰囲気なども、「中身より外見」という考え方に、その根っこがあるのではないだろうか。

 

人々の間に信頼を取り戻し、毎日生きているのが楽しいという世の中にするには、まず「外見より中身」と考える人を増やすことではないだろうか。

 

だから、今日、仕事の場でTシャツを着ている僕を見て、あなたが不快に思っても、少し我慢してまずは話を聞いてほしい。

 

 

「共通文化」が世代の思想を作る(どんな世の中になってほしいのかを伝えるのは、大人の責務)

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僕たちの時代は、間違いなくテレビ、とりわけ、アニメに大きな影響を受けてきた。少し大げさにいうと、それぞれの世代に「共有文化」となるアニメ(と漫画)があって、それらがその世代の考え方や感じ方を形作ってきた、と思っている。

これからの世代は、何に影響を受け、何がその世代の「文化」になっていくのだろうか。



付け加えておきたいのは、子どもたちが見るアニメや漫画を作ってきたのは、大人たち、ということ。その時代の大人たちが、自分たちが考える夢や理想、逆に疑問点や社会の問題を、アニメや漫画の中に直接、間接に取り込み、子どもたちに伝えてきた。

つまり、どんな人たちを育て、どんな世の中になってほしいのか、そのために何を伝えるべきなのかを考えるのは、大人の責務だと思う。



最近、そんなことを考えている。

ヨミスギガー症候群

アスペルガー症候群の特徴って、簡単に言うと「空気が読めない」ことらしい。

アスペルガー」なんて名前がつくと不気味な感じがするけど、昔から「バカ正直」って言われる人はいたし、そういう人がいる方がうまくいく場合もたくさんあるよね。

日本は職人の国だと思ってるんだけど、職人っていうのは、空気が読めないから、最高のものにむかって突き詰められる。

「空気が読めない」のが障害なら、「空気を読みすぎる」というのも障害。今の日本の社会は「空気読みすぎ」が障害になってると思うね。

そういう人たちに「ヨミスギガー症候群」とか名前つければ、少しは世の中のバランスが取れるんじゃない?

興味と文句と無視

たとえば、誰かが道ばたで突然踊りはじめた時、まわりにいる人々の反応は3つに分かれるんじゃないだろうか。




なんだろう?と興味をもって、見に行く人と、

なにやってるんだ!、と怒って、文句を言いに行く人と、

なにごともなかったように、通り過ぎるだけの人、だ。




日本は三番目の人たちが多いんだろうな。

そして、二番目の人たちが増えてるんだろうか。




でも、やっぱり楽しいのは、一番目の人たちだよね。

「デザインの常識は変わっていく」というのがデザインの常識なんだろう

wired.jp


SnapchatやTikTokといった、今、若者に支持されているアプリのインターフェース・デザインはとてもわかりにくい、という記事。なかなか示唆に飛んだ指摘だと思った。


記事にかかれているように、わかりにくいデザインは「古い世代を入れないため」という陰謀論(?)もあるようだ。その真偽は横においておくが、そもそも古い世代が「わかりにくい」と思うのは、ある種の「常識」にとらわれているからだ。自分たちが「こうだ」と思っているものと違うものが出てくると、戸惑い、時に怒りを感じる。


こういう時は、自分自身がまだ若者だった頃を思い出すのがいい。「ホームページ」なるものが企業に浸透し始めた頃、あるデザインを持っていったら、クライアント企業で「ホームページの見識がある」担当者に全面的に否定された。一番のダメ出しをくらったのが、画像を使わず、テキストだけのメニューボタンだった。たしかにその頃のフォントは貧弱で、画像をつかったボタンに比べると見た目は「しょぼい」。でも、データ量の小さいテキストのほうが、表示スピードは早いし、変更も簡単だ。僕はそちらのほうが企業向けだと思った。

今なら僕の言うことを理解してくれると思うが、当時の「まともな」ホームページのボタンは、ほぼ100%、画像でデザインしていたのだ。


他にも、当時巷で言われていた「デザインの常識」を思い返すと、その頃否定されていたデザインが、今 は普通になってたりする。まあ、人間は都合の悪いことはすぐ忘れてしまうのだけど。



引用した記事は、「これから1〜2年のうちに、厳格なデザインのルールに対する反発が起こり、もっとクリエイティヴなパターンや、リラックスしたアプローチが好まれるようになると予測している」という言葉で締めくくられている。この予測は正しいだろう。

なぜなら、「デザインの常識は変わっていく」というのがデザインの常識だからだ。