モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

責任回避・リスク回避の仕事に、生きる意味はあるか?

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仕事をお願いされたら、少しでも良いものにしたいし、誰かが困っているなら、できるだけ助けてあげたい、と思う。

しかし、そうしようと思うと、どこまでやればいいのかがはっきり見えないし、手伝ってくれる人に無理をお願いすることにもなる。

仕様書や契約書の一字一句に縛られるのはむなしいし、リスクと責任を回避するだけの生き方はつまらない。。。そう思う一方、ボランティアだけで生きていくわけにもいかないのも事実だ。

このバランスを取るのは、いまだに難しい。結局、いい仕事って、なんだろう?という問いは、永遠に問いのままだ。


ただ、最近の世の中を見ていると、リスク回避・責任回避の側に寄りすぎていると感じる。たとえば仕事でなにか問題がおきて、それを解決するために、関係者に相談したとする。その第一声が「これはうちの責任ではありません」という言葉だと、悲しく、虚しくなる。こちらは、問題がおきたから解決しよう、困っている人を助けよう、という純粋な気持ちで知見のある人に相談したつもりでも、相談された方は自分が責められれている、利用されている、と感じるようだ。


もっと広く見れば、現代社会では「仕事のデキる人」とは、責任を取らない人・うまく押し付ける人、なのかもしれない。なぜなら、そのほうが儲かるからだ。少なくとも短期的には。

仕事=お金を稼ぐこと、という、経済最優先の社会での「基本定理」を前提とするなら、それは正しい。でも、それでいいのか。仕事とは経済だけでなく、もっと広い、人間が生きている意味みたいなものではないか。今は、さまざまな制約でそれが実現できていないとしても、そうなるよう努力して、理想に近づける営みが「仕事」ではだろうか。

漠然とそんなふうに思っていたけれど、そんな「理想」はもう、人々に共有されていないのかもしれない。

人の思いと行動を直結できるのが、うちのような小さな会社の良さのはず。そう信じて頑張ろうと思う。

いつから「チクる奴」が、正々堂々としている社会になったのだろう

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jbpress.ismedia.jp


「超小型モビリティ」の将来像が見えない、と批判する記事をたまたま見た。

僕は、このテクノロジーについて見識を持っていないので、中身についてコメントしたいわけではない。ただ、僕が、何かあたらしいことをやろうとしている場でいつも思うことをこの記事からも感じたので、書き留めておこうと思った。(けっして記者の視点や主張を避難しているのではない。この記事に触発されて、僕が今ままで感じてきたことを思い出した、と理解して欲しい。)


それは、日本人は、ロードマップとか法律とか「お上のご意向に従う」のが滑稽なほどに好きだな、ということだ。たとえば、法律ができれば、その字面通り従い、法律が整わなければ何もしない。同じ人間が作った法律が、まるで、神からの啓示のように思っている人々。あるいは、他人からの非難を恐れ、小さなリスクさえ取らない人々。


防災・減災、安全に関わることなら、そういうアプローチも必要だろうが、未来の産業を創造する、と威勢良い掛け声をかけながら、自分から行動を起こさずに誰かが指示してくれるのを待っているなんて、まったく矛盾している。


やる理由が完璧に揃っていないとやらない(やれない)国と、やる理由がひとつでもあればやる(やれる)国の、どちらに未来があるだろうか。「石橋を叩いて渡らない」のと、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」のと、どちらが今の時代にあっているだろうか。


もっとも法律は無意味だ、不要だ、と言いたいのではない。法律は必要だが、新産業の分野で必要な法律は、(まだよくわからない)個々の技術やサービスだけを対象にした「付け焼き刃」で「後追い」の法律ではないだろう。必要なのは、もっと根元的で社会全体にかかわるような、人々の考え方の枠組みになるような法律のはずだ。「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」といった勇気あるスタンスを、体現し、バックアップする思想ともいえる。


要するに、法律などという「形」にこだわらず、「お上」は「下々」のやることに目をつぶり、「下々」は「お上」を適当にあしらう。それが、個人が独立し、自分自身で生きている実感のある、健全な社会だと思う。(それが、現在の「お上」の言葉を借りれば、「一億総活躍社会」だと僕は解釈している。あまり好きな言葉ではないが…。)


そして、「下々」の中には、「お上」にチクる最低な人間もいるのが、さらに残念なことだ。「足を引っ張る」日本の社会の息苦しさ。そういう、嫉妬から「チクる」人々が、逆にチクられる社会こそ、健全な社会だと思う。小学校の頃、「言いつけ魔」はみんなに嫌われたはずだ。そんなことも忘れた情けない大人を、子どもたちはどう見ているだろう。それにしても、いつから「チクる奴」が堂々と正義のヒーローのような顔をする社会になってしまったのか…。


本当の問題は、法律や行政にあるのではなく、この社会の空気にある。それが一番、悲しく、恐ろしいことだ。

捏造を咎められない「国家権力」を、どうして信じられるの?

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http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000066056.htmlnews.tv-asahi.co.jp

4年前、鹿児島で女性に乱暴した罪で逮捕・起訴された男性が、逆転無罪になったというニュースが有った。再審の過程で、DNA鑑定で体液が他人のものだと明らかになったそうだ。

鹿児島県警は当初「採取した体液が微量なため鑑定できなかった」と述べていたそうだ。しかし、ある専門家はテレビで、体液が採取できれば、DNA鑑定ができないことはない、と述べていた。おそらくそれは正しいだろう。警察が以前、「髪の毛一本、血液一滴からでも犯人を割り出せる」と鼻高々に言っていた覚えがあるし。

しかも、今回の捜査の途中で、県警はDNA鑑定を行っていたにもかかわらず、DNA溶液や鑑定結果のメモを廃棄していたという。



こういうニュースに接する度、「ああ、またか」という気分にさせられる。しかし、「ああ、またか」ですませてしまう自分にも腹が立つ。よく考えれば、この問題はそんなに小さな問題ではない。世の中の「非対称性」の典型だからだ。

ここ最近の出来事を振り返ってみると、たくさんの捏造があった。その多くは「民間人」や「個人」の犯罪だとされている。たとえば、研究者や企業の幹部・経営者たちだ。

捏造を行った彼らは、完全に黒と言えない段階からメディアやネットで名前や顔がさらされ、社会的に大きな制裁を受けてきた。


その一方で、今回のような警察や検察、すなわち「国家権力」をもつ人たちが行った捏造は、どうか。明らかな捏造、悪質な犯罪行為をおこなっても、彼ら個人が表に出ることはない。罰は受けたとしても、停職何ヶ月とか、傷つけられた人の苦しみに比べれば遥かに小さいと思う。少なくとも、その人たちの人生が変わるようなことはない。

つまり、この社会では、同じ捏造をしても、抹殺される人と、何も咎められない人がいる。ただ、権力と無関係な人と、権力側にいる人、というだけの違いで。

このような非対称で歪んだ世の中に疑問を感じなくなっている自分に気づき、怖くなった。これって、普段、日本人が攻めているあの国々と変わらないんじゃないだろうか?日本は進んでいる、といえるのだろうか?


こんな事実が大手を振って歩いている国で、機密情報保護法や集団的自衛権が正しく行使されるなんて、どうして信じられるのだろうか?


僕が、それらの法制に反対する根源的な理由は、こういうことにある。




(記録のため、テレビ朝日の記事テキストを転載させていただきます。転載が不可の場合はご連絡ください。ただちに消去します)

 男性に逆転無罪の判決です。

 2012年、鹿児島市の路上で当時17歳の女性が無理やり乱暴されたという事件で、飲食店に勤務していた鹿児島市在住の男性が逮捕・起訴され、1審で懲役4年の実刑判決を受けました。有罪の決め手とされたのは警察のDNA鑑定です。女性の胸に付いていた唾液(だえき)から、男性と一致するDNA型が検出されたということです。しかし、女性の体内から検出された体液のDNA型について、鹿児島県警は「微量なため鑑定できなかった」と主張していました。これに対して、弁護側は控訴します。再鑑定を請求。裁判所もこれを認めて再鑑定したところ、女性の体内から検出された体液のDNA型が鹿児島市在住の23歳の男性とは別人のものであるということが判明しました。12日の控訴審判決で、福岡高裁宮崎支部は1審の判決を破棄し、無罪判決を言い渡しました。

抑圧が人の考え方を変え、世の中は息苦しくなる

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digital.asahi.com


自分の感じていたことを、的確で明瞭な言葉にしてくれた文章に出会った。中村文則氏の朝日新聞への寄稿だ。

中村氏の短い寄稿は、毎日の生活で、徐々に強くなっていく「息苦しさ」の正体をうまく表現してくれている。

 そして格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは日本だけでなく歴史・世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく、「強い政府」と自己同一化を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。

なぜ、このような思考に陥るのだろうか。はっきりした原因はわからないが、そこには、さまざまな形での「抑圧」があると僕は思う。

学校で、職場で、家庭で、そして国家レベルで、「強者」が「弱者」を抑圧する。カッコ書きにしたのは、それらが本当の「強者」や「弱者」ではないと思うからだ。「強者」になりたい者が「弱者」と誤解している者をしいたげているのだ。傍から見れば極めて滑稽な、まるで配役のあわない演劇のような光景だが、当事者にはそれが見えない。だからそこから抜け出せないし、抜けだそうとしない。

そうしているうちに、その「抑圧」は、人々の考え方を徐々に変えていく。それは、渦中の人が、自分の考えが環境に強制されていることには気づかないうちに静かに進んでいく。そして、かつて幻想だったことが、現実になるのだ。その変化に自分が加担していることにも気づかずに。


今、世の中をむしばむ様々な「歪み」ーーーーー学校でのいじめや家庭での暴力、世界各地でおきている民族や宗教に根ざした対立、安全保障の名のもとに進む軍事化、それらすべてーーーーーは、小さな、個人レベルの「抑圧」から始まったものではないだろうか。それを、人々が、その願いに反して、自身が加担して拡大してきたものなのだ。

僕たち個人個人ができること。それは、自分に課せられた抑圧に気づき、それから逃れること。そして、自分自身や、自分の近くの人たちへの抑圧をなくす方法を考えることだ

個人は非力だ。弱い個人の戦いを助け、よい方向に導くのが、本来の国や政治の役目だと思う。しかし、残念ながら、今の政治は抑圧を取り除くどころか、抑圧をより強固で安定した「統治のしくみ」に組み込もうとしている。すくなくとも僕にはそう見える。「自由」より「統制」、「希望」よりも「恐怖」を植えつける政治は、抑圧の政治そのものだ。


すべての問題はつながっている。個人個人の身の回りの問題から、地球規模の問題まで、あらゆるものは連続しているのだ。それを意識することが、この問題に対峙する第一歩になる。

僕たち一人ひとりの変化は小さなものだが、それらが積み重なれば家族や仲間、地域、そして国も変わる。たとえ小さくても無駄な変化はない。

すべての営みは、たとえ小さなものでも、かならず未来につながっている。それが希望だ。


■寄稿 作家・中村文則さん

 僕の大学入学は一九九六年。既にバブルは崩壊していた。

 それまで、僕達(たち)の世代は社会・文化などが発する「夢を持って生きよう」とのメッセージに囲まれ育ってきたように思う。「普通に」就職するのでなく、ちょっと変わった道に進むのが格好いい。そんな空気がずっとあった。

 でも社会に経済的余裕がなくなると、今度は「正社員になれ/公務員はいい」の風潮に囲まれるようになる。勤労の尊さの再発見ではない。単に「そうでないと路頭に迷う」危機感からだった。

 その変化に僕達は混乱することになる。大学を卒業する二〇〇〇年、就職はいつの間にか「超氷河期」と呼ばれていた。「普通」の就職はそれほど格好いいと思われてなかったのに、正社員・公務員は「憧れの職業」となった。

 僕は元々、フリーターをしながら小説家になろうとしていたので関係なかったが、横目で見るに就職活動は大変厳しい状況だった。

 正社員が「特権階級」のようになっていたため、面接官達に横柄な人達が多かったと何度も聞いた。面接の段階で人格までも否定され、精神を病んだ友人もいた。

 「なぜ資格もないの? この時代に?」。そう言われても、社会の大変化の渦中にあった僕達の世代は、その準備を前もってやるのは困難だった。「ならその面接官達に『あなた達はどうだったの? たまたま好景気の時に就職できただけだろ?』と告げてやれ」。そんなことを友人達に言っていた僕は、まだ社会を知らなかった。

 その大学時代、奇妙な傾向を感じた「一言」があった。

 友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の癒着、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、彼が僕を心底嫌そうに見ながら「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。

 「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。

 当時の僕は、こんな人もいるのだな、と思った程度だった。その言葉の恐ろしさをはっきり自覚したのはもっと後のことになる。

 ログイン前の続きその後東京でフリーターになった。バイトなどいくらでもある、と楽観した僕は甘かった。コンビニのバイト採用ですら倍率が八倍。僕がたまたま経験者だから採用された。時給八百五十円。特別高いわけでもない。

 そのコンビニは直営店で、本社がそのまま経営する体制。本社勤務の正社員達も売り場にいた。

 正社員達には「特権階級」の意識があったのだろう。叱る時に容赦はなかった。バイトの女の子が「正社員を舐(な)めるなよ」と怒鳴られていた場面に遭遇した時は本当に驚いた。フリーターはちょっと「外れた」人生を歩む夢追い人ではもはやなく、社会では「負け組」のように定義されていた。

 派遣のバイトもしたが、そこでは社員が「できない」バイトを見つけいじめていた。では正社員達はみな幸福だったのか? 同じコンビニで働く正社員の男性が、客として家電量販店におり、そこの店員を相手に怒鳴り散らしているのを見たことがあった。コンビニで客から怒鳴られた後、彼は別の店で怒鳴っていたのである。不景気であるほど客は王に近づき、働く者は奴隷に近づいていく。

 その頃バイト仲間に一冊の本を渡された。題は伏せるが右派の本で第二次大戦の日本を美化していた。僕が色々言うと、その彼も僕を嫌そうに見た。そして「お前在日?」と言ったのだった。

 僕は在日でないが、そう言うのも億劫(おっくう)で黙った。彼はそれを認めたと思ったのか、色々言いふらしたらしい。放っておいたが、あの時も「こんな人もいるのだな」と思った程度だった。時代はどんどん格差が広がる傾向にあった。

 僕が小説家になって約一年半後の〇四年、「イラク人質事件」が起きる。三人の日本人がイラクで誘拐され、犯行グループが自衛隊の撤退を要求。あの時、世論は彼らの救出をまず考えると思った。

 なぜなら、それが従来の日本人の姿だったから。自衛隊が撤退するかどうかは難しい問題だが、まずは彼らの命の有無を心配し、その家族達に同情し、何とか救出する手段はないものか憂うだろうと思った。だがバッシングの嵐だった。「国の邪魔をするな」。国が持つ自国民保護の原則も考えず、およそ先進国では考えられない無残な状態を目の当たりにし、僕は先に書いた二人のことを思い出したのだった。

 不景気などで自信をなくした人々が「日本人である」アイデンティティに目覚める。それはいいのだが「日本人としての誇り」を持ちたいがため、過去の汚点、第二次大戦での日本の愚かなふるまいをなかったことにしようとする。「日本は間違っていた」と言われてきたのに「日本は正しかった」と言われたら気持ちがいいだろう。その気持ちよさに人は弱いのである。

 そして格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは日本だけでなく歴史・世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく、「強い政府」と自己同一化を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。

 経済的に大丈夫でも「自信を持ち、強くなりたい」時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに「強い政府」を求めやすい。当然現在の右傾化の流れはそれだけでないが、多くの理由の一つにこれもあるということだ。今の日本の状態は、あまりにも歴史学的な典型の一つにある。いつの間にか息苦しい国になっていた。

 イラク人質事件は、日本の根底でずっと動いていたものが表に出た瞬間だった。政府側から「自己責任」という凄(すご)い言葉が流れたのもあの頃。政策で格差がさらに広がっていく中、落ちた人々を切り捨てられる便利な言葉としてもその後機能していくことになる。時代はブレーキを失っていく。

 昨年急に目立つようになったのはメディアでの「両論併記」というものだ。政府のやることに厳しい目を向けるのがマスコミとして当然なのに、「多様な意見を紹介しろ」という「善的」な理由で「政府への批判」が巧妙に弱められる仕組み。

 否定意見に肯定意見を加えれば、政府への批判は「印象として」プラマイゼロとなり、批判がムーブメントを起こすほどの過熱に結びつかなくなる。実に上手(うま)い戦略である。それに甘んじているマスコミの態度は驚愕(きょうがく)に値する。

 たとえば悪い政治家が何かやろうとし、その部下が「でも先生、そんなことしたらマスコミが黙ってないですよ」と言い、その政治家が「うーん。そうだよな……」と言うような、ほのぼのとした古き良き場面はいずれもうなくなるかもしれない。

 ネットも今の流れを後押ししていた。人は自分の顔が隠れる時、躊躇(ちゅうちょ)なく内面の攻撃性を解放する。だが、自分の正体を隠し人を攻撃する癖をつけるのは、その本人にとってよくない。攻撃される相手が可哀想とかいう善悪の問題というより、これは正体を隠す側のプライドの問題だ。僕の人格は酷(ひど)く褒められたものじゃないが、せめてそんな格好悪いことだけはしないようにしている。今すぐやめた方が、無理なら徐々にやめた方が本人にとっていい。人間の攻撃性は違う良いエネルギーに転化することもできるから、他のことにその力を注いだ方がきっと楽しい。

 この格差や息苦しさ、ブレーキのなさの果てに何があるだろうか。僕は憲法改正と戦争と思っている。こう書けば、自分の考えを述べねばならないから少し書く。

 僕は九条は守らなければならないと考える。日本人による憲法研究会の草案が土台として使われているのは言うまでもなく、現憲法は単純な押し付け憲法でない。そもそもどんな憲法も他国の憲法に影響されたりして作られる。

 自衛隊は、国際社会における軍隊が持つ意味での戦力ではない。違憲ではない。こじつけ感があるが、現実の中で平和の理想を守るのは容易でなく、自衛隊は存在しなければならない。平和論は困難だ。だが現実に翻弄(ほんろう)されながらも、何とかギリギリのところで踏み止(とど)まってきたのがこれまでの日本の姿でなかったか。それもこの流れの中、昨年の安保関連法でとうとう一線を越えた。

 九条を失えば、僕達日本人はいよいよ決定的なアイデンティティを失う。あの悲惨を経験した直後、世界も平和を希求したあの空気の中で生まれたあの文言は大変貴重なものだ。全てを忘れ、裏で様々な利権が絡み合う戦争という醜さに、距離を取ることなく突っ込む「普通の国」。現代の悪は善の殻を被る。その奥の正体を見極めなければならない。日本はあの戦争の加害者であるが、原爆・空襲などの民間人大量虐殺の被害者でもある。そんな特殊な経験をした日本人のオリジナリティを失っていいのだろうか。これは遠い未来をも含む人類史全体の問題だ。

 僕達は今、世界史の中で、一つの国が格差などの果てに平和の理想を着々と放棄し、いずれ有無を言わせない形で戦争に巻き込まれ暴発する過程を目の当たりにしている。政府への批判は弱いが他国との対立だけは喜々として煽(あお)る危険なメディア、格差を生む今の経済、この巨大な流れの中で、僕達は個々として本来の自分を保つことができるだろうか。大きな出来事が起きた時、その表面だけを見て感情的になるのではなく、あらゆる方向からその事柄を見つめ、裏には何があり、誰が得をするかまで見極める必要がある。歴史の流れは全て自然発生的に動くのではなく、意図的に誘導されることが多々ある。いずれにしろ、今年は決定的な一年になるだろう。

 最後に一つ。現与党が危機感から良くなるためにも、今最も必要なのは確かな中道左派政党だと考える。民主党内の保守派は現与党の改憲保守派を利すること以外何をしたいのかわからないので、党から出て参院選に臨めばいかがだろうか。その方がわかりやすい。

     ◇

 1977年生まれ。2005年、「土の中の子供」で芥川賞。近著に「教団X」「あなたが消えた夜に」。「掏摸(スリ)」をはじめ、作品は各国で翻訳されている

幸福は、GDPでは測れない:50年前、ロバート・ケネディが語ったこと

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この週末、「シャーリー&ヒンダ」という映画を観た。歩行もままならないふたりの老女が、ふとしたきっかけで「経済成長」というものに疑問を持つ。そして、経済成長とはいったい何かを知るために、地元の大学の先生やウォルストリートの財界パーティーに「突撃取材」する、というドキュメンタリーだ。

ドキュメンタリーとは言え美しい映像で、ストーリー性もあって、とても面白い映画だった。

この映画の冒頭、「経済成長と幸福」という映画のテーマを提示するように、ロバート・ケネディーの演説の動画が流れる。その中でロバート・ケネディは、人や国の価値を、GDP=国民総生産、すなわちモノの量だけで測る当時の社会を憂い、GDPでは測ることができないものにこそ、人間や共同体の価値や幸福があることを訴えた。

このメッセージが印象的だったので、もう一度見たいと思って(映画の中のシャーリーとヒンダと同じように)グーグルで検索したところ、なんとか見つけることができた。

演説は、1968年3月18日にカンザス大学でおこなったものらしい。今から50年近く前に、その後の社会を見通していたかのような問題を指摘していたR.ケネディは、やはり優れた政治家だと思う。



Robert F. Kennedy challenges Gross Domestic ...


ロバート・ケネディの演説は、こんなことを述べている。

【訳】
私たちはもうずっと前から、個人の優秀さや共同体の価値を、単なるモノの量で測るようになってしまった。

この国のGDPは、8000億ドルを越えた。しかし、もしGDPアメリカ合衆国の価値を測るのなら、GDPには、大気汚染や、たばこの広告や、交通事故で出動する救急車も含まれている。

GDPには、ナパーム弾や核弾頭、街でおきた暴動を鎮圧するための、武装した警察の車両も含まれている。

GDPには、玄関の特殊な鍵、囚人をかこう牢屋、森林の破壊、都市の無秩序な拡大による大自然の喪失も含まれている。

GDPには、ライフルやナイフ、子どもにおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれている。


一方、GDPには、子どもたちの健康や教育の質、遊ぶ喜びは入っていない。

GDPには、詩の美しさや夫婦の絆の強さ、公の議論の知性や、公務員の高潔さは入っていない。

GDPには、私たちの機転や勇気も、知恵や学びも、思いやりや国への献身も、入っていない。


つまり、GDPは、私たちの人生を意味あるものにしてくれるものを、何も測ることはできないのだ。

GDPは、私たちがアメリカ人であることを誇りに思えることについて、いっさい教えてくれないのだ。


もしそれが、この国において真実であるなら、世界中のどの国でもやはり真実だろう。

(原文ではGNP(Gross National Product)を使っているが、現在の標準に合わせてGDP (Gross Domestic Product)と訳した。

                  • -

ロバート・ケネディはこの演説を行った3ヶ月後(1968年6月5日)、ロサンゼルスで暗殺された。犯人はエルサレム出身のパレスチナアメリカ人だと言われているが、この事件には謎が多いとされ、真相は闇に包まれている。

今、もしロバート・ケネディが生きていれば、どんな政治をするだろうか。



【原文】
www.theguardian.com

「次の時代に来るもの」を知り、次の時代に何をするかを考える

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今朝、以前書いたブログのことを思い出した。「次の時代に来るもの」というタイトルで、これから社会に送る変化を予想した、GOODマガジンの記事'The Next Big Thing'に触発されて書いたものだ。もう3年半も前のことになる。


その記事に書かれていたのは、次のような変化だ。


  • 農産物直売所から、スーパーマーケット農場へ。
  • 教材から、ゲームへ。
  • ベンチャー・キャピタルから、Kickstarterへ。
  • 雑誌から、Flipboardへ。
  • 母親から、Siriへ。
  • 都市計画から、地域計画へ。
  • 結婚から、同棲へ。
  • 大統領から、市長へ。
  • バイリンガルから、バイカルチュラル(多文化)へ。
  • インフォグラフィックから、物語へ。
  • 環境に優しいから、社会を変えるへ。
  • 贅沢から、基本へ。
  • 所有から、共有へ。
  • 「〜のために」から、「〜と一緒に」へ。


まだこれから、というものもあるが、全体としては、このとおり進んでいるのではないだろうか。

このような大きな流れに、ただ流されるだけではだめだ。その中で、自分はいったい何をするのか。どこへいくのか。

できるだけ早く動き出さなければいけない。


scivis.hateblo.jp

人間の理性は感情に勝てない

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上の絵は、錯覚(錯視)の代表例だ。AとBの色は実はまったく同じ。でも、人間の目には、Aが濃く、Bが薄く見える。「AとBはまったく同じ色だ」と知った後でも、やはり同じ色には見えないから、こんなに不思議な事はない。

解説によれば、Bのマス目は円柱の影にあるから、物理的に暗く見えるはず。これを人間の脳は無意識に補正して、「白」に戻してしまうのだ、と書かれている。ただ、この絵の円柱のある部分を除外しても、やっぱりAとBは同じ色には見えないから、それだけではないようだ。
おそらく、白黒の市松模様(チェッカーボード)の規則性から、「ここは白のはずだ」という無意識の補正が働いてしまうのではないかと思う。


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錯覚のメカニズムはともかく、この絵が教えてくれることは、人間はまわりの環境によって見えるものが変わる、ということだ。そして「神の目から観た真実」、すなわち、「客観的事実」をいくら脳の理性の側が納得していても、「主観的事実」を主張する知覚には、けっして勝てないのだ。ここで知覚とは、感性・感情と言い換えてもいいだろう。

この事実には、ちょっとした絶望を感じざるを得ない。なぜなら、現代人は、「話せば分かる」ということを民主主義の根底にある真理だと信じているからだ。理性と感情の乖離は、「いくら話してもわからない」という状況は存在するのだ、という別な真理を突きつける。これは、感情に対する理性の敗北と言える。

どうしても分かり合えない時、理性だけでは解決できない問題があるということを覚悟しておかねばならない。それを解決しようと思うなら、その人間がおかれている環境を変えるしか手は無いのだ。

ところで、その「変えるべき」環境がなんであるかは、常に理性でわかるものだろうか。今のところは、そう信じたい。なぜなら、もしそれさえ「錯覚」だとしたら、本当に絶望してしまうからだ。

                                    • -

<追記:2015/10/31>

そもそもこの問題に関心を持ったのは、最近話題になった下の画像がきっかけだ。このドレスが白と金にみえる人と、青と黒に見える人がいる、という事実は、大きな驚きだった。それまでは、意見や思考の相違は、同じものに対する「解釈」の違いであって、考えは人によって違っても、その共通認識となる事実は変わらない、と信じていたからだ。

しかし、この写真は、物理的には同じものであっても、人によって異なって見えている、ということを教えてくれる。これは、解釈の前提となる、人が知覚する「事実」は、人によって違うのだということを意味する。

このことは、色彩に関するニュートンゲーテの考え方の相違を連想させる。「色」というものは、人間の存在に関係なく絶対的に存在するものなのか、あるいは、人間が知覚し解釈することで初めて色が存在するのか、という相反する考え方だ。

このようなことは、今、開発が進められている「人間のような人工知能」にとって、けっこう大きな問題になるかもしれない。未来の人工知能は、AとBを同じ色と見るのか、違う色と見るのか、これもまた、人工知能を開発する研究者の考え方によるのだろうか。

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