モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

独裁は、悪人が一人でやる政治ではない

「安倍独裁」とかいうと否定する人がいるけど、今回の自民党総裁選の状況を見て、そう思わないのは頭から「安倍支持ありき」色眼鏡で見ているとしか思えない。

 


「独裁」って、なにもひとりのわがままな暴君が起こすものじゃない。むしろ最初はその逆に見えるポヒユラリズムから始まると思う。そして周りにいる子分たちが影で操っているのだ。

 

それはれっきとした独裁であり、見えにくい分、よりタチの悪い独裁だ。

 

表面的な損得だけではなく、その裏にあること、これからの社会がどうなるのか、その未来への影響を予想するのが市民の見識だと思う。

 

本当はそういう見識を持った人が政治家になるべきなのだが。

 

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石破氏「安倍さん支持の大合唱、自民党変質したのかも」
http://www.asahi.com/articles/ASL8B00VGL89UTFK026.html


民主化より王政がいい、というなら話は噛み合わないが、そうでなければ、表面的なことだけでなく、その裏にあることをしっかりと見なければならない。

生産性で人間を測る時代に・その2

自民党杉田水脈議員が、「LGBTの人々は生産性がない」と述べたことが、大きな波紋を呼んでいる。その多くは杉田議員に対する批判だと思うが、残念ながら議員を擁護する意見もある。

僕が見た「擁護論」の主旨はこうだ。「杉田議員は子供を産まないという事実を『生産性』という言葉でたとえただけである。真意は、少子高齢化の時代に子供を産まない者に対して税金を投入する施策は優先度が低くなる、それは限られた予算という制約のもとでは仕方がない、と言っているに過ぎない。杉田議員は、LGBTの人たちを『人間として生きる意味がない』とまで言ったのではない。つまり、杉田氏の発言は問題ない」。そういう「杉田擁護論」だ。


「生産性がない」という言葉を「生きる意味がない」と「誤解」したために怒ったというのもおかしいが、それは別にしても、杉田議員の発言にはあきらかに問題が多い。「杉田擁護論」も「杉田発言」も、ツッコミどころ満載だ。

もっとも根本的なことを指摘しておきたい。そもそも経済用語である「生産性」という言葉を、子供を産むか産まないかという人間的な行為にあてはめることがおかしいのだ。それがおかしくないというなら、結婚していない人、子供のいない人、子供が亡くなってしまった人に「あなたは生産性がないね」と言ってもいいことになる。それを問題ないと言うのなら、実際に言ってみればいい。あなたの評判は急落するはずだ。

百歩譲って「子供がいない=生産性がない、だから税金を投入できない」という理屈を認めるとしよう。そういうLGBTの人たちは本当に「生産性がない」のだろうか?少子高齢化の問題でも、下に引用した記事のように、LGBTの人たちが少子化にプラスになる面もある。アメリカで、家庭で暮らせない子どもたちを養子にしたいと希望するLGBTカップルが増えているという記事だ(三年前の記事なので、けっして杉田議員の発言を受けた「サヨクの屁理屈」ではないことは述べておく笑。)。

www.huffingtonpost.jp


少子高齢化は、LGBTかそうでないかという「外見的で目立つこと」が問題なのではなく、下の記事の背景にもあるような、暴力や貧困、長時間労働といった「内面的で見えにくいこと」の方がずっと深刻な問題だと思う。LGBTの人たちはその解決の邪魔者ではないどころか、解決のための協力者になりうる人たちだ。

本質的ではない「差異」だけに注目し、「生産性」などという不適切な評価基準を国民に押し付けるのは明らかにおかしい。


以上は、一民間人である僕の「個人的な意見」に過ぎない。しかし、政治家の「意見」は単なる個人的な意見でもないし、表現の自由ですべてが許されるものでもない。政治家は国民の(少なくとも選挙区民の)代表だからだ。自分の嗜好と独断だけで物事を決めることは許されない。自分からは遠いグループも含めて社会全体を広い視野で見て、少数意見にも耳を傾け、考えるのが政治家の基本だ。

一方、有権者である国民も、「目先の利益」や「誇張された脅威」に惑わされず、社会全体の幸福を目指そうとする人物を冷静に見抜き、選びたいものだ。(杉田議員は比例区当選なので、個人への信頼があって選ばれたのではないことは付け加えておく)。

最後にやや極論ではあるが。。。LGBTはだめ、移民はだめ、某国はだめ、サヨク・リベラルはだめ、。。。とか言っているうちに、日本は世界から孤立し、そう遠くない将来、ほんとうに「生産性の低い」二流国になってしまうのではないだろうか。今の政権与党の言動を見ていると、僕にはそちらの危惧のほうがはるかに大きい。

生産性で人間を測る時代に

近頃は「生産性」という言葉で人間まで評価する世の中になったらしい。アホな政治家もいるもんだ、と思ったが、それを擁護する人もいるのには驚きを通り越して、心が重くなる。

50年前のこの演説を聞いてほしい。こういう理想を掲げ、それが希望と感じられた50年前の方が人類は進歩してたのかもしれない。

(ところで今、R.ケネディみたいなことを言うと、あるグループからは「サヨクが〜!」って噛みつかれるのだろう。それならサヨクでけっこうだ。それがサヨクなら、サヨクってかっこいいじゃないか!)

monoomoi.hatenablog.jp

雑感 2018年6月・7月

6.1
安倍政権が続けば、まじめに仕事をしよう、嘘はダメだ、法律を守ろう、という人はどんどん減っていく。

で、日本は加速度的に劣悪な国になっていく。

十年後、中国人が「日本の製品は買っちゃダメよ。嘘だらけの粗悪品だから」って言ってるかもね。

日本の良さ、この政権でどんどん無くなってない?


6.1
財務省官僚や、日大の指導者たちの謝罪は確かにひどかったが、何よりひどいのは、謝罪しない政治家だ。

罪を認めたものが叩かれ、罪を認めない者がのうのうとしている。

そんな社会、おかしくない?


6.11
別に安倍首相に限った話ではないけど、日本の政治家、特に閣僚と呼ばれる人は、海外で会議に参加できる程度の英語力は必須じゃないか?

ビジネスマンでも英語で打ち合わせしたり、交渉してる人はたくさんいるよ。今の時代、普通のことです。


6.11
これは同感です。保護主義自国主義を批判するならば、ロシアでも中国でも、対話の機会は作るべきでは。


6.11
ベンチャーやスタートアップのプレゼンでは、「眉唾もの」の話のオンパレードなのだが、最近は政府や国会の話の方が何百倍も信用できないので、ベンチャー・スタートアップの方がまだまともに感じてしまう。

あぶない、危ない‥。(嘘つき政府の逆経済効果を、誰か評価してくれないかな)


6.12
個人的には外交の安倍だなんて思ったことないが、これ以外でもマスコミの誘導には影響されてしまうもの。
マスコミの言うことをまず疑うようになったのは、よかったのかもしれませんが‥‥


6.14
いま、森毅さんがいたら、なんていうかなあ、って思う。
頑張れ、京大生!


6.14
偏向したフェイクまがいのコメントを発する岩田明子はもちろん問題だが、彼女を起用し、語らせ続けるNHK幹部はもっと問題だ。風向きが変われば岩田を切ればいい、と目論んでるんだろう。

もう時間はない。悪事は手先ではなく、首謀者に向かわなければ。

日大アメフトでは、そうしたではないか!


6.24
ほんとに。印象操作って、こんな風にやってるんだよなあ。
この局の場合、公共放送と名乗ってるところがさらに害悪。

そもそも公共放送って何?なんとなく公平中立って印象与えてるけど、客観的基準は?だれが保証してるの?


6.24
「見出し総理」、なるほど。

総理は最低だが、国民の多くは見出ししか見ないから、それでオーケー、とやりたい放題なのが悔しい。

広告代理店政治に勝つには、一人一人が賢くなること。


6.24
こんな風に思われる人が、本当のリーダーだよね。沖縄県民ではないのに、涙が出そうになる。


7.1
この5、6年、自分の価値観と社会の流れがどんどん乖離して、精神的にも参ってる。

これ自分の考えがおかしいんじゃなくて、社会がおかしいんだよね。昔はこんな日本じゃなかったよね。
もうわけがわからなくなりそう。


7.7
悪い奴か悪くない奴かって、悪事がバレたかバレてないか、ってだけのことじゃないか。


7.8
おれ、もう嫌なんだよね。
明らかに狂った世の中に自分を合わせるのは。
おかしいだろ、って言葉を押し殺すのは。
嫌なんだよ。


7.11
ほんとに。
以前は日本人は謝りすぎる、とやゆされたもんだが、今は謝ったら負けって感じ。特にこの政権になってからは、政府が謝ったら負けの権化だから、庶民な言わずもがな。
広告代理店の情報操作と組み合わさって、もう何も信用できない。


7.22
間違いを認めて考えを変えることは恥ずかしいことじゃない。むしろ、知的で勇気ある行為なんだ。

そういう「文化」を作ることが、日本の民主主義の第一歩だと思う。


7.22
僕も今、ちゃんとした判断力と倫理観を持ってる人は、安倍政権を見限りはじめたと感じます。

彼らもある種の善意から安倍政権を応援していたわけで、そこは理解してあげる必要がある。それに、立場が変われば逆にこれほど強い味方はない。


7.28
日本の技術力は世界一、と言ってる人はたいてい技術のことをわかってないです。

コミュニケーションは幻想かもしれないが、それでいい

以前、ある著名な数学者の講演を聴いたことがある。一般向けの講演だったが、場所が大学だったこともあってか、講演者は他の研究者・学者にむけて話しているようで、話の本質を捉えるのは難しかった。自分がどこまで理解できているかを測る尺度さえわからないほど、理解できなかった。

数学や基礎物理学には興味があるので、たまに講演を聴きにいくのだが、正直なところ「腑に落ちた」と思えるほど理解できることは稀だ。数学にしても基礎物理学にしても、ある壁を越えるか越えないかで、理解度は大きく違う。「ゼロかイチか」に近い状態だ。ただ、理解できない時は知ったかぶりもできないので、講演の後、知り合いに間違った意見を述べることもないのは、せめてもの救いではある。

一方で、人文系の学問では、理解しているかしていないかの境界線はもっと曖昧になる。相当難しい哲学書を読んでも、部分的にはわかった気になる。実は自分が理解できてそうな部分だけを取り出して理解した気になっているだけなのだろうが、それでも何かを理解した気にはなれる。そのほんの小さな、もしかしたら本質とはかけ離れた理解を、他人に話すこともできてしまうのだ。そこは、数学や物理学のような「ゼロかイチか」タイプの学問とはまったく違う。


人文系学問のこの性質は、学問のような高尚なものだけでなく、人の話や書いたものでも同じだ。話を聴いたり文章を読んだりして、まったくわからない、ということは稀だと思う(それが日本語であれば)。実は一割も理解していないのかもしれないのに、その一割だけを元手に友だちと議論しているかもしれない。議論できてしまうのだ。


コミュニケーションの前提条件は、コミュニケーションの対象となっている事柄について最低限の知識や経験を共有しているということだと思う。それがなければ真のコミュニケーションは成立しないはずだ。たとえば、僕が、突然地球にやってきたサイヤ人とコミュニケーションできないのは、共有している知識や経験が何もないからだ。

サイヤ人とまではいかなくても、普段の生活の中で、同僚や顧客、友人や家族との間でさえ、コミュニケーションの対象となっている事柄について十分な知識・経験を共有しているかは疑わしい。しかし、その点には「目をつぶって」、必要な知識を共有していると仮定してコミュニケーションを進めている。逆に言えば、共有の程度について目をつぶらなければ、コミュニケーションできないと薄々気づいている。必要な知識・経験を完全に共有できていることなんてほぼあり得ないことは、少し考えればわかるにもかかわらず、だ。

人とコミュニケーションする時、このことを忘れてはいけないと思う。たとえば、フェイスブックである記事について議論する時、その記事をどのように理解するかは、読む人の知識や経験に大きく影響され、人によって違うはずだ。ただコミュニケーションを前に進めるために「ほぼ同程度理解している」と仮定して議論しているにすぎない。その違いを意識しないと、論点があやふやになってしまう。時にはお互いがすれ違っていることさえ気づかずに不毛な議論が続く。いや、実際にはほとんどのやり取りはすれ違っているのかもしれない。ただお互いに「相手を理解し、相手に理解されている」と信じているだけなのだ。


つまり、コミュニケーションは幻想だ。十分な知識・経験を共有し、ある事実について同じ「感覚」からスタートできるなんて、ほぼありえない。ただ、お互いに理解していると思い込もうとしているだけなのだ。


そう書くと何か絶望的で、「人と話しても無駄だ」と自暴自棄になりそうだが、それもまた違うと思う。人はみな理解の内容・程度が違うのだと割り切り、それを知った上でそれぞれの意見を述べ合えばいい。人々の多様性は集合知にとってむしろプラスなのだ。集合知は「みんな違ってみんないい」という基本思想の上に成り立つ。その違いを受け入れることは、集合知を正しく機能させるためにもっとも重要なことだ。つまり、「すれ違い」があるからこそ、新しい発見・進歩があるのだ。

コミュニケーションは幻想である。だからこそ、膨大な幻想の中から共通した部分を拾っていくことが大事だ。それが人類の知識・知恵を発展させる唯一の道なのだから。


…と威勢よく書いてはみたが、僕の意見に同意しない人もたくさんいるだろう。でも、それでいいのだ。

手書きのノートと情報の再構成

京極夏彦氏はここまで「読みやすさ」を追求していた 版面の細かい制御のため、InDesignで小説を執筆 | JBpress(日本ビジネスプレス)

京極夏彦氏の言ってること、すごくわかる。

学生時代、授業のノートを友だちに貸した時、「君のノートは読みやすい」と言われて嬉しかった。なぜなら、ただ板書を書き写すだけでなく、自分なりに階層化・構造化して文字ではあってもビジュアルに再構成しようと思ってノートを書いていたので。

今は雑になってしまったなあ、と京極氏の姿勢を見て反省。

そして、表現の自由度という観点では、今でも手書きに勝るものはない。テクノロジーが進歩したとはいえ、まだ多くの場所で、人間が機械にあわせている。それは人間が本来もっている能力を発揮できていない、ということだ。

人間の能力をいかに開放するか。テクノロジーが人間の真の部下となるのを目指すのが、テクノロジーの最大で唯一の目標ではないだろうか。

人生の土台作り

昨夜の、SONGSスペシャルで、宇多田ヒカルさんがこんなことを言っていた。


もし今、つらくても、そのつらさがあるから、この先、たとえば五年後、十年後、よりよい人生になるかもしれない。もっと幸せになれるかもしれない。そう考えると、どんなことでも、今この瞬間を見るだけでは評価できないと思う。


最近少々落ち込んでいた僕は、この言葉を聞いた時、反射的にその通りだな、と感じた。暗かった周囲に少し光が差し込んだように思った。

でも、それから少したってみると、はっきりと意識はしていないにせよ、僕はずっと、宇多田さんと同じように思いながら、生きてきたようにも思えてきた。自分が今、知らないこと、できないことにチャレンジするのは、自分の経験や知識を広げて「土台」を作ろうと思ってきたからだ。広くて強い土台があれば、その上に大きな塔を建てることができる。そう信じて生きてきた。

でも、僕はただ土台を作ってきただけで、塔の建設には着手できなかったのではないか。土台を作ることばかりに力をかけ、塔を作る仲間を見つけに行くことも、お金を集めることもおろそかにしてきた。そうしているうちに、残りの時間も少なくなってきた。他のことを犠牲にして作ってきたその土台さえ、気に入らなくて、まだ何度も作り直している。

そんな僕の「人生の工事」はどこまで行き着けるのだろうか。人生の最後に、何か人に見せられるものを作ることができるだろうか。


宇多田さんのいう通り、どんなことも今だけでは評価できない。一方で、未来を知ることもできない。そのバランスの中で何か行動を起こすのが、生きる、ということなんだろう。