モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ものすごいこと

今まで生きてきて、その中で見たこと、知ったことの中で、何が一番ものすごいことかって、芋虫がサナギになって蝶になる、あれほどすごいことはない。蝶じゃなければ、カブトムシでもいい。

今まで葉っぱの上や、地面の中で、うだうだと生きてきた幼虫が、「もうすぐ空飛べますよ」ってなって、サナギという生きてるのか死んでるのかわからないモノを経て、一週間ほどでまったく違う体になってしまう。空まで飛べてしまうのだ。これぞ黒魔術かと思うくらい、ものすごいことだ。(それに比べると人間の一生は代わり映えしない。驚きのない、いたって平凡なものだ。)


でも、大人になると、そんな虫たちが見せてくれる「ものすごいこと」に目を向けることもなくなってしまう。そういう「ものすごいこと」を見ていたのは、子どもの頃だけなんだ。


だから、大人はつまらない。大人自身もつまらないと思ってるだろうけど、それだけじゃなく、外からみて、非常につまらない生き物なのだ、大人は。毎日、当たり前のことをみて、当たり前のことをやっているだけ。感動のない日々にボーッとしているうちに、時間だけがすぎていく。子どものように「ものすごいこと」に出会うことはめったにない。というか、近くにある「ものすごいこと」が見えていない。


大人も、たまに「ものすごいこと」をみてみれば、今自分が悩んでいることや、手に入れたいと思っていることが、なんと小さなことか、と思えるんじゃないだろうか。


大人と子どもの違いって、体格とか脳の発達とか、そういうのではなくて、「ものすごいこと」にどれだけ触れようとしているかだけなのかもしれない。子どもの頃、楽しかったのは、幼くて経験がないから何でも楽しく思えたのではなくて、本当に「ものすごいこと」に出会ってたからだと思う。


子どもが明日に希望を持てるのは、まだ知らない「ものすごいこと」がたくさんあって、明日、また新しい「ものすごいこと」に出会えると、心から信じているからなんだろう。

雑感 2018年10月

10.14

"生徒が知らなければならないことを教えるのが教育だ。生徒が理解できないなら、理解できるように工夫するのが筋である。「理解できない人がいるから教えないようにすればいい」というのはもはや教育ではない。単なる教育の放棄だ。

 そもそも「数学は理系の教科」という考え方が現実にそぐわなくなってきている。文系とされている経済学、社会学、心理学といった分野でも、統計をはじめとした数学の手法が多用されるようになっている。理系はもちろん文系でも、数学の重要性が増すことはあっても減ることはない。"

tech.nikkeibp.co.jp


確かに、「量が減った」とか「○○を教えなくなった」(だからだめ)という表面的な話はあまり意味がないですね。

高校でも、現在の生物学なんかは、僕たちの頃には教えてくれなかった(教えられなかった)DNAの構造やタンパク質合成みたいなことも教えているようだし、ある分野では昔よりはるかに高度なことを教えていますよね。

少し話がそれるかもしれませんが、先日、ある大学の先生が、大学教員を論文の数とか引用数で評価するのはまったく意味がない、と断言していました。論文数を増やしたいなら、本来はひとつの論文にまとめられるものを小分けするようになるし、数しか見ないから論文の質がどんどん落ちていると。最近、それこそ高校数学レベルの微分を間違っている論文もあった、と嘆いてました。

また、引用数を増やすのも、要するに「1+1=2」みたいな自明の論文をひとつ書けばいいだけだから、やっぱり意味がないと。たとえば、もし今、アインシュタインみたいな天才が論文を書いたとしても、さっぱり引用されないだろう。将来世の中を変えるようなすごい論文は、今の人たちには理解できないから、と言われてました。

で、高校の話に戻ると、僕も国語と数学は賛成です。僕の恩師の松田先生は、最後は「読み書きソロバン」と言ってます。僕の大学時代の授業では、「今、君たちに最先端のことを教えてもすぐ古くなるから、ここでは徹底的に基礎を教える」と言って、本当にそういう授業でした。教科書に乗っている基礎方程式を、そもそもその式がどうやって導かれるのかを、ほとんどゼロから理解するような授業でした。

その時は勉強も大変だし、そんなことをやる意味がわかりませんでしたが、その時学んだ「考え方の考え方」みたいなものは、まったく違う仕事をしている今でも役立っているように思います。何ごとも基礎の基礎まで立ち返れば必ず理解できるし、そうしないと本当には理解できない、という確信みたいなものがあるんでしょうかね。




10.18

男女平等の視点だけでなく、有能な人を認めなければ、社会はどんどん劣化するよ。

そんな奴らが「先生」って呼ばれる社会、ほとんどコメディーだな。

教育に限らず、「世の中はカネとコネ」とかうそぶき、イエスマンばかり集めて「適材適所」としらを切る者が幅を利かせている限り、日本の凋落は加速するだけ。

女子評価、一律1段階下に 追加合格決定、学長へ一任 不適切入試、複数大で判明:朝日新聞デジタル


10.19

「どんな阿呆でもものごとを複雑にすることはできるが、単純化するには天才がいる」。
E. F. シューマッハー

“Any fool can make things complicated, it requires a genius to make things simple”
― E.F. Schumacher



10.21

近々、ホワイトアルバムの50周年記念エディションが発売されるそうだ。

ビートルズを初めて聞いたのは中学生になってすぐ。FM放送をカセットテープに「エアチェック」して、本当にテープが擦り切れるくらい毎日聴きまくった。

ただ、このホワイト・アルバムだけは、夜、1人では怖くて聞けなかったのだ。

ヘルタースケルター」とか、「レボリューションNo.9」とか、エクソシストのテーマ曲(あれもトラウマ)並に怖くて、それらを聴いた後は、「ワイルド・ハニー・パイ」や「コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウヒル」さえ不気味に感じてきて…。

50週年記念エディションは、マルチテープからのリミックスも興味深いけど、メンバーがジョージ・ハリスンの家に集まって、全編アコースティックで弾いた「イーシャー・デモ」は、なんとしても聴きたい。

もう一人でも怖くないし笑!

www.youtube.com



10.26

「2019年10月の消費増税に備えた景気下支え策を巡り、財務省総務省マイナンバーカードにためられる自治体のポイント制度を「プレミアム商品券」に活用する検討に入った。」そうだ。

そもそも消費税の導入には、反累進課税、すなわち、所得の多少によらずに税を負担させたいという意図があるわけだから、そこに低所得者対策を入れるなんて矛盾してる。小手先のごまかしにしか見えない。

それに「プレミアム商品券」って何なんだ? 国政・国税の変更を商品やサービスの「販促」としか見てないみたい。携帯電話の販売で「実質0円」とか言うのと同じ手口だよねー。それに必要なコストは?

「プレミアム商品券」を導入するんじゃなくて、消費税は不要ってことになるんじゃないの?

なんかバカにされてる気がするな…。



10.29

"多様性を必要としている時代とは、
多様を思いつけない膠着した時代の別名である。

「バカとワル」に期待する時代とは、
ほんとうは「芸術」が、
その役割を果たせてない時代とも言える。

「バカとワル」に匹敵するパワーを持った
「アート」が、いつ出てきてもいいはずだ。"

糸井重里

仕事は人間を向上させる、もっとも大切な行為である

女性や失業者、障害者たちは「私たちに働く機会を!」と訴える。

一方で、多くの雇用者たちは「残業も休日出勤もやめてくれ!」と叫ぶ。


そんな世の中を日々見ながら、大きな矛盾、というか、根本的な疑問を感じている。それはここ十年くらい、ずっと考えている疑問だ。


いったい、人間にとって、仕事とは何なのだろうか ――――?


「仕事」と呼ばれるものが人間にとって何なのか、僕にはよくわからなかった。

すくなくともそれは、人々にとって楽しいことではなく、辛いことになっているように見える。その傾向は年々強まっているように感じられる。

仕事は、やらずに暮らしていけるならやらないでおきたい「苦痛」「害悪」なのだろうか。それでも人々が仕事をするのは、生きていくため、収入を得るために仕方がないからだ。そんな考え方が強まっているように思う。

マルクスは、労働者は「労働」を切り売りし、それを資本家が搾取している、と言った。労働は奴隷を作るために、社会が発明した巧妙なしくみなのだろうか。



逆に、もし仕事をしなくても暮らしていける世の中が実現したとしたら、人々は幸せだろうか。そんな世の中で、人々はいったい何をやって暮らしていくのだろう?そんな人生に意味はあるのだろうか?


インドの経済学者、クマラッパはこう述べている。「仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。 <中略> 仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上する上で最高の舞台となる」。



僕はクマラッパの言っていることを支持したい。仕事は、知性と感性を高度に発展させた動物が本能的に行う行為であり、人間がもつ素晴らしい能力をさらに高める高度な営みであり、人類という種が継続・進化していくための重要な行動である。最近僕はそう思っている。


ミツバチは毎日蜂蜜を集める。でもそれはけっして義務感からやっているのではないし、ましてや奴隷だとあきらめてやっているのでもない。彼ら(?)にとって蜂蜜を集めるのは自然な行動であるし、その行為によって、ミツバチという種が永続できる。

それと同じく、仕事は、人間にとって、人間であるための自然な行為なのだ。それは、微視的に見れば、生産とコミュニケーションという技術といえるかもしれないが、もっと大きな視点では、人間という種を存続、発展させる基本的な行為なのだ。




仕事が人間の基本的な行為であるなら、なぜ、今、仕事が社会的な問題となっているのか。仕事が人々の重荷になり、精神を病み、最悪の場合、仕事が原因で自死にいたるような悲劇がおきているのだろうか。

それは、仕事そのものが問題なのではなく、仕事を行うために作ったシステムの老朽化、すなわち、形骸化した組織が問題なのだと思う。本来、「人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出す」はずの仕事が、組織のせいでまったく逆のものになっている。仕事という行為は崇高なものだが、その行為を行う「場所」が悪さをしている。


だから今、僕たちは、仕事をつづけるために別の場所を探すか、見つからなければ、新しく作ればいいのだ。その第一歩は、会社や組織がなければ仕事はできない、という先入観を捨てさることだと思う。


クマラッパのいうような仕事を体現している人々に、たとえば、職人がいる。職人は、お金を得るためだけにモノを作っているのではない。自分自身の手でモノを作ることは、自分自身の喜びなのだ。そして、作られたモノを通じて、他の人々も少し幸せになる。それがまた職人の喜びとして加わる。そこでは、お金は目的でも主役でもない。人々の感謝の表れであり、職人が仕事を続けていくための糧にすぎない。



政治に目を向けるなら、「働き方改革」などと空虚な言葉で、残業を規制したり、正社員を増やしたりするのは、現在の疲弊した「働き方」をごまかしながら延命するだけで、人間の本質的な幸福にはつながらないと思う。そもそも間違った場所で働いているのだから、小手先のごまかしではなんともならない。間違ったことに目を向けているうちに、もっと大きな重要なことを忘れてしまい、手遅れになってしまうかもしれない。


仕事は人間を疲弊させ、不幸にするものではない。人間を非人間化するものではない。その逆に、仕事は、人間が人間であるために、もっとも大切な行為だ、ということを再認識すること。そして「この仕事は私にとって生きがいだ」と思える人を一人でも増やす世の中をつくらなければいけない。

ひとりひとりが、小さな執着心と間違った先入観をすてれば、大きな対価が得られると思う。

昨夜の異常な入閣ニュース速報についての仮説

昨夜のNHKのニュース速報は異常だった。

リビングである番組を見ていたらニュース速報が流れてきた。けたたましいチャイム音と「ニュース速報」というひときわ目立つ文字。あれを見ると、いつもドキッとする。またどこかで地震が起きたのだろうか、国内で航空機が墜落したのだろうか、原子力発電所で事故がおきたのだろうか、まさか近くで戦争が始まったのではないだろうな…。そんなさまざまな想像が瞬間的に頭の中をかけめぐり、「最悪の事態」に備えて無意識に身構える。


しかし、昨夜流れてきたニュース速報はまったく「想定外」のものだった。それは「○○氏が入閣」というニュース速報だったのだ。しかも、一人ずつ別のニュース速報として、何連発ものニュース速報が垂れ流された。もちろん、それぞれのニュース速報のたびに、あの、心臓に悪いチャイム音と「ニュース速報」という文字が襲ってきた。


入閣のニュース速報がすべて意味がない、というのではない。とても意外な人(安室奈美恵とか)や、多くの国民が期待している人(誰も思い浮かばないが)が入閣したというニュース速報なら、まだわかる。しかし今回は「いったい誰?」と言う感じの、たいして大物でもない政治家の名前が「入閣者」として次々と知らされていくだけだ。しかも「○○氏の入閣固まる」という情報だけで、どの大臣・どのポストについたのかもわからない。そんな情報を一刻も早く知りたいと思うのは政治家に近い与党党員くらいだろう。後でまとめて「ニュースウォッチ9」で伝えれば十分な情報だ。


この異常な「入閣ニュース速報」の連発に、僕は最初とまどい、次にイライラし、最後にはあきれてきた。そして少し冷静になった後、なぜこのような異常なニュース速報が流れたのかを考え始めていた。今回のニュース速報は、「ちょっとひっかっかた」程度で忘れてしまうにはあまりにも異常だし、その裏に何らかの理由がなければ納得できないからだ。


僕が行き着いたのは、テレビ朝日の「玉城デニー当確ニュース速報」へのNHKのリベンジ、という仮説だ。



昨日、9月30日・日曜日の夜、沖縄県知事選が行われた。テレビ朝日は、開票が始まった八時過ぎに、いち早く玉城デニー氏当確のニュース速報を流した。そのあまりに早い当確速報は正直言って意外だった。これだけ注目を集めている知事選なのだから接戦になると思っていたし、中央政権と地元市民の対立の構図は、与党・野党の対立と重なり、伝える側のメディアも慎重になるだろうと思っていたからだ。だから、朝日の迅速なニュース速報には驚くとともに「強い思い」を感じた。それは僕だけではないだろう。その「強い思い」が、ジャーナリズムとして正統なのかどうかの判断は、また別の議論としてあるだろうが。


その逆に、NHKは、あきらかに沖縄県知事選の報道に及び腰だった。僕が見た限りでは、開票が始まった八時を過ぎても台風の報道ばかりで、県知事選の話題は一向に扱われなかった。僕は県知事選の夜は主に民放を見ていたので、NHKが玉城氏当確のニュース速報をいつ出したのかは知らない。ただ、他のネットの記事によれば、通常のニュースとして伝えたのは午後九時半を過ぎていたようだ。これは朝日の当確ニュース速報から1時間半も後だ。

日曜の夜は、日本列島を襲った台風24号を最優先で報道すべきだったことは間違いない。しかし、台風のニュースの中でも、まったく他の出来事を伝えられないはずはない。ましてやニュース速報なら、台風の報道を行いながら流すこともできる。この日、NHKは台風報道のために通常の番組スケジュールを変更して、ほぼずっと台風関連の報道番組を流していたから、沖縄知事選の報道を挟むのは通常より迅速にできたはずだ。


つまり、率直に言って、NHK(の政治部)は、玉城デニー氏の当選を伝えたくなかったのだ、と思わざるを得ない。NHKなら、事前の調査で玉城氏が勝つことはほぼわかっていたはずだ。ニュース速報も想定できただろう。しかし、伝えたくなかった。だから台風のニュースばかり流し、玉城氏当確の報道も遅らせたのだろう。


そんなNHKの、玉城デニー氏当確についてのニュース速報に不信感を持ったのは僕だけではないはずだし、多くの市民からの批判もあっただろう。「朝日はすぐに正しい当確情報を出したのに、なぜNHKは遅れたのか?NHKの調査能力が低いのか?政権への忖度で、中立・公正な報道がなされていないのではないか?」当確速報の遅れの背後に、NHKの、政権への「忖度」があったと推測するのは、けっして飛躍したことではない。今までの一連の状況をそれなりに見ている者なら、すぐに感じられる、自然な推論だ。


そのような批判を受け、NHKはリベンジしたかったはずだ。朝日にも、市民にも。NHKは、国内の他のどのメディアよりも情報調査能力がある、日本でもっとも優れたメディアだということを示したかったのかもしれない。NHKは現政権に強いパイプを持っている。朝日にはできない、政治の裏の情報を伝えることで、汚名を返上してやる。

そんな気持ちが現れたリベンジが、今回の「入閣ニュース速報」だったのではないだろうか。



と書くと、まだNHKにはジャーナリズムとしての気概が残っていると捉える人もいるかもしれない。隠された情報を先人を切って暴く、という強い意志はジャーナリズムにとって生命線だ。しかし、今回の入閣速報は、もはやそんな「ジャーナリズムの気概」ではなく、ある種ジャーナリズムを放棄した開き直りのようにも感じる。何をやっても「政権の犬」と言われるのなら、もっと政権に近づいて、もっと政権寄りの情報を流してやる、という開き直りだ。(なお、異常だと感じるのはNHKの中でも政治部だけで、社会部は良質なドキュメンタリーを作っていることは付け加えておきたい。)


以上はあくまでも、普通の市民として知りうること、感じられることだけからの勝手な推測である。しかし、何度も書くが、ここ数年のNHK報道、特に政治報道の内容から、行き過ぎた政権への忖度を感じとっているのは僕だけではないことは明らかだ。今回の僕の仮説にはそういう背景も影響している。それはけっして偏向ではない。むしろ、より強い根拠になっているし、深刻な懸念なのだ。



ーーーー追記ーーーーー

その後、ネットを見たところ、入閣のニュース速報は今回に始まったことではなく、前回の組閣時も流していたらしい。そして、僕と同じような違和感を持った人もいたようだ。それを鑑みればこの放送局には今、「玉城デニー氏の当確速報のリベンジ」ではすまされない、一市民が想像しているよりはるかに大きな力が日常的に働いていることを確信する。そしてその力が、日に日に強くなっていることを。

近い将来、私たち市民が向かい合うことになりそうな憲法改正は、憲法改正の内容の是非もさることながら、その是非を国民が正常・正当、公平に議論する環境がない、ということが最大の懸念だ。だから今回の問題を「入閣のニュース速報はちょっと仰々しかったけど、まあ害はないし、いいんじゃない」程度ですませてはならない、と強く思う。

どんな災害にも兆候がある。その兆候を見逃さず、適切な対応を取れるかどうかが生死を分ける。以前、災害のプロからそう習ったことを思い出した。

雑感2018年8月・9月

8.5

東京に来る時は息子のところに泊まるのだが、情報系の学生なので、ちょっと話すだけでいろいろと教えてくれる。昨日も画像認識で困っていることを聴いたら、ものの30分ほどで「できたよ」ってサンプルを見せてくれた。

息子に教えられることの方が多くなってきたのは、嬉しいようなくやしいような複雑な気持ち……(昨夜は「高級ずし」をおごらされたけど)。

写真はMaker Faire Tokyo初日の様子。本日、最終日も頑張ります!



8.10

これが国際社会が日本へ期待していることでしょう。

現政権が「国際社会」「平和」って口にするたび、いつも???と思ってます。浅はかであからさまな印象操作。だから信用できないわけだ。

来年こそ、世の中が平和にむかっている、と感じられる8月を迎えたいものです。

長崎原爆の日、グテーレス国連総長は訴えた「長崎を核兵器で苦しんだ地球最後の場所に」



8.14

まだわからないことだらけだからこそ、偏らないよう注意して、様々な側面を知っておくことことかな、と。

「愛情ホルモン」オキシトシンのダークサイド|WIRED.jp


8.16

情報の隠蔽や改ざん、派閥争いや縁故主義がどんな結末をもたらすかをノモンハン事件は教えてくれる。これはなにも戦争に限ったことではないですよね。

賢者は歴史に学ぶ、という言葉も、賢者にしか届かないという切なさ。

NHKスペシャル | ノモンハン 責任なき戦い



8.18

ピーター・ティールの語っていること、すごく刺激的で面白い。「ゼロ・トゥ・ワン」読んでみよう。

『ゼロ・トゥ・ワン』対談 賛成する人がいない、大切な真実とはなにか。 ピーター・ティール Peter Thiel × 糸井重里 Shigesato Itoi - ほぼ日刊イトイ新聞



8.20

「能力を個人ではなく、その場にいる人びとの全体が共有しているものだと考えて、「個人単位で見た場合の能力差があっても、みんなが面白く楽しめるように、この場を運営すること」こそが、本当の意味でやりがいのある「ゲーム」ではないか。」

能力を競争に使うのではなく、「能力のコミュニズム」を目指すという考え方。それは教え、教わる関係とつながるかも。(最近、読みたい本が貯まる一方......(^^); )

うつの体験から考えぬいた、平成の反知性主義を克服する方法 『知性は死なない 平成の鬱をこえて』 與那覇潤氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)



8.23

司馬遼太郎さんの言葉、身につまされる。

武士道は完全に消滅し、精神のグローバル化もできなかった日本。
司馬さんの憂いていた時代の方が、今よりずっとマシだったのではないか、と思ってしまう。



8.24

「ここにいるよ」と言えない社会 - ロバート キャンベル公式サイト



8.25

「信じるが、期待せず」。そう思えたらいいのに、と何度も反省してきた気がする。でも現実は逆に「信じないけど期待する」になりがちで、そういう時はたいてい不幸な結果になる。

どうしたらいいのだろう‥‥と悩んでるうちに人生も残り少なくなってきたなあ。



8.28

「21世紀のファシズムと独裁は、データの独占によって行われる。現代のファシストはデータを通じて、恐怖や憎しみ、虚栄心といった人々の感情を支配し、民主主義を破壊する。

ファシズムの鏡」は、本来の自分より自分を美しく見せる。だから魅力的なのだ。ファシストは必ずしも冷酷ではない。時にとても美しく見えるものだ。

その誘惑に抗するには、誰がデータを支配しているかを考えること。そして、鏡に映った自分ではなく、本来の自分自身を知ること。

人間の愚かさを過小評価してはいけない。愚かさは、私たちの歴史を形作ってきた大きな力なのだ。」

www.ted.com



9.1
GithubではRuby率が高い。

日本にいると、「海外モノのほうがすごい(かっこいい)」と思いがちだけど、日本生まれのRubyやChainerが世界で評価されているのはすごいことだと思う。

一般論として、日本人は日本で生まれた技術を過小評価している気がする。あるいは、逆に、突如(プロパガンダ的に)「日本のこの技術はすごい!」と言い始めたり。

海外モノをありがたがるのでも、日本製だから贔屓するのでもなく、そのモノの本質を見て、いいものはいいと判断できるようになりたい。



9.4

「自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続けるというのは非常に難しいことです。大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」という、これまた陳腐な表現が意図することです。」

https://j.ktamura.com/this-is-water



9.17

今の政治を見ていると、それは違うだろ、逆だろ、と思うことばかり。加速度的にだめになっていく日本を見るのはもう嫌です


9.20

高校数学はこんな状況なのか?

逆に考えれば、これからは希少価値のある「行列のできる学生」に行列ができる、のかな。。。なんて気楽に考えていいのだろうか。

科学技術が進むほど、一般の人は難しいことを考えなくてよくなるので、科学技術離れが進むという矛盾、どうにかならないのか。


ちょっと冷静になると、世代によって学校で習ったことが違う、ということは、普段から意識する必要があるだろう。どちらがいいか、悪いかは別な問題として、コミュニケーションがうまくいかない原因のひとつ、かもしれない。


9.22

「もし自分の能力について悩む人がいるなら、『こうすれば能力が上がる』、ではなく、『能力は私有物ではない』と伝えたいと思います。
‥‥社会とはそもそも、個体ごとにみてしまえば必ず高低差が生じる能力を共有し、補うあうことで動いているのだから、今いる場所であなたと周囲がよりよく能力を共有できないなら、たがいに調整し、どうしても無理なら、共有しやすい場所へ移ればいいのです」

那覇潤「知性は死なないー平成の鬱をこえて」



9.23

「…共感は現在のコストを過大評価し、未来のコストを過小評価する……。私たちが下す判断はこの偏見によって歪曲される。たとえば『自分のよく知る子どもがたった今死ぬケースと、名前も知らない二十人の子どもが一年後に死ぬケースのどちらか一つを選べ』という選択に直面すると、共感は一人を救うよう私たちを導くのだ。…これは共感の問題である」

ポール・ブルーム「反共感論〜社会はいかに判断を誤るか」



9.25
出先で打ち合わせが5時に終わり。オフィスに戻るか直帰するか、すごく悩んだので、駅ナカでコーヒー飲みながら考える。


最近のいくつかの出来事を見るに、この国ではもはや、倫理観も責任感も、公よりも民の方が上じゃないだろうか。
少なくとも、民には自浄作用は残ってるように見える。



9.30
「…アダム・スミスの『道徳情操論』にある、人間にとってもっとも有用な性質を論じた箇所を取り上げよう。二つの特徴があげられているが、それらは道徳的な意味でもそれ以外の意味でも直接感情には関係しない。それら二つの特徴とは、『卓越した理性と理解力』、そして『自制(self-command)』である。

『卓越した理性と理解力』が重要なのは、それによって自分の行動の結果を正しく評価できるからだ。どのような行動をとることで目的を達成できるのかがわかるくらい賢くなければ、世界をよりよい場所にすることなどできない。自制が重要なのは、長期的な結果に焦点を置くことで当面の欲望を抑えられるからである。」

ポール・ブルーム「反共感論〜社会はいかに判断を誤るか」

新潮45の廃刊で、問題の本質に蓋をしてはいけない

自民・杉田水脈議員のLGBTについての寄稿から始まった一連の問題ーーー杉田氏のLGBTへの見解、それに対する懸念と非難、杉田議員の「だんまり」、杉田議員を擁護する意見を集めた特集を出した新潮45と、それに対する強い非難、新潮社社長の声明と新潮45の廃刊ーーーには、なにかもやもやとしたものが残る。


これはあらゆる喧嘩に言えることだと思うが、喧嘩のすれ違いの根本原因は、言葉で伝えられていないことが多い。表面的な言葉の応酬は、問題の本質を不要な言葉で覆い隠してしまい、極端に言えば「不快だから不快だ」「良いものはいい」といったトートロジーに陥る。挙句の果てには「お前は嫌いだ」「言い方が悪い」といった低レベルな物別れに終わってしまう。


今回の問題が、一雑誌の廃刊で解決したとは思えない。それどころか、問題の本質に蓋をすることで、問題は表面化したのに、議論はなされず、この問題で二分された人々の間の確執はさらに強くなってしまうのではないか、と懸念する。


新潮社が良識あるメディアなら、「新潮45問題」を、雑誌の廃刊という面倒なことを避けようというのが見え見えの安易な幕引で終わらせるのではなく、議論を継続して、すれ違いの根本原因に近づける努力をしてほしいと思う。冷静さを失った議論をリードし、建設的な議論に変えてほしい。それが良識あるメディアの役目であるし、プロの仕事だと思う。


昔、「臭いものは元から絶たなきゃだめ」というCMがあったが、メディアの役割はけっして「臭いものに蓋をする」ことではない。メディアの役割とは、「臭さ」をいち早く感じ取り、他の人たちに教えること。自ら蓋を取り、何が腐っているのか、人々はどう不快なのか、どれくらいの被害があるのか、臭いものはすべてだめなのか、臭さにも違いはあるのか、など、見えにくい問題の本質に目を向けさせることではないだろうか。そして、最終的には「物事を少しでも深く考える文化」を醸成することだと思う。



もし、新潮社が、新潮45の廃刊でこの問題の幕引きを考えているなら、杉田氏を擁護していた者だけでなく、新潮社の決断を認めている人たちにも不満は残るだろう。この問題の本質を覆い隠すことで、この問題、さらにこの問題の根本にあるより大きな問題をさらに悪化させ、社会をより悪い方向に向けてしまうのではないだろうか。

タイマーズに叱られているような今

同世代のアーティストで、若い頃はさして興味がなかったのに、歳をとってからその価値がわかってくる人がいる。

今、僕がそんなふうに思うアーティストのひとり(ひとつ)が、タイマーズだ。

タイマーズの曲は、メッセージの塊だ。「ほんとうの世の中はこうだ。こんなだめな世の中なんだ」と言わんばかりに、過激な、しかし、真実を切り取った歌詞が攻撃してくる。メジャーになってしまったRCサクセションでは、おそらく許されなかった歌を、タイマーズという自分の分身を使って、清志郎タイマーズでは「ゼリー」と名乗っている)は世の中に出したのだろう。


たとえば「偉人のうた」はこんな歌詞だ。

もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人の邪魔をしたりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人をバカにしたりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
偉い人だけでつるんだりしないさ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
えらくない人たちやさえない人たちを忘れたりしないさ。ハハハハハ。
もしも僕が偉くなったら(やっほー)
君が歌う歌を止めたりしないさ。ハハハハハ。
当たり前だろ。ハハハハハハハ。
いくら偉い人でも。ハハハハハハハ。
そんな権利はないさ。ハハハハハハハ。

強いものに媚びない、弱者への優しいまなざしが溢れた歌詞は、ミュージシャンが弱者の代弁者だった頃を思い出させてくれる。もし清志郎(ゼリー)が生きていたら、音楽産業が金儲けのツールに成り下がった現在を、どんな歌にして世の中に問うだろうか。

彼が三十年前に伝えようとしたことは、ようやく今、その意味や価値がわかるようになった。もう遅いかもしれないが、まだ間に合うかもしれない。

俺はもう歌えねえんだからさ、この歌を聴いて自分の頭で考えろ、バカヤロー。清志郎はそう言っているような気がする。