モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

山本太郎の思いは、国民ひとりひとりの希望である

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「一人で国会を変えれるんかな?」そんな聴衆の質問への山本太郎の回答。そこには彼の思いが詰まっている。と、同時に、その言葉は、おおくの人々が薄々おかしいと思いながら、どうせ変わらないし、変えられない、と見て見ぬふりし、思考停止してきたことなんじゃないだろうか。

政治家なんて、自分の出世と名声だけを考えている尊敬できない人間たち。選挙演説は嘘とまやかしのオンパレード、税金を使った「ゲーム」でしかない。これまで、本音ではそんな風に思っていても、何もしてこなかったし、声に出すことさえしてこなかった。そんな人は多いのではないだろうか。


そんな白けた空気、未来への夢も希望もない閉塞感を作ってきたのは、これまでの政治だということに、山本太郎は気づかせてくれる。そして、そんな政治を許してきたのは、ひとりひとりの国民なのだということを、直球で訴える。

人々の心に根深く植え付けられ、もはや意識することすらなくなってしまった無力感こそ、山本太郎が変えようとしていることだ。


山本太郎の、この十分足らずの街頭での言葉に、僕は涙した。これまでの人生で、政治家からこれほど胸を打つ言葉を聴いたことがあっただろうか。山本太郎は、政治家になっても市民、とりわけ弱者の気持ちを忘れない、ほんものの政治家だ。


今、彼を応援することは、小さな希望にすぎない。しかし、それは、将来、日本全体に拡がる大きな希望に成長する可能性を秘めている。その小さな希望を成長させるのは、私たちひとりひとりの勇気だ。

多様性の大切さ

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昔のハードディスクを整理していたら、懐かしい映像が出てきました。今から13年前、「IMI」という社会人の大学院で映像を勉強していた頃、当時の同期生と一緒に作った映像です。(当時、畑 祥雄先生、水野五郎先生にはお世話になりました。ありがとうございました!)

この映像の中に、アイルランド飢饉の話が出てきます。19世紀のアイルランドで、ある特定の品種のじゃがいもだけを植えていたために、疫病によってじゃがいもが全滅、多くの人が餓死した、という大災害です。もし、さまざまな品種のじゃがいもを植えていたら、ひとつの疫病でじゃがいもが全滅するようなことはなかったといいます。

つまり、多様性はとても大事だ、というお話しなのですが、このことは、この映像のシナリオを書いたおかげでけっこう心に深く刻み込まれました。

僕はもともと子供の頃から「南総里見八犬伝」や「サイボーグ009」のような、複数のヒーローがそれぞれの特長を活かして敵に立ち向かう、という物語が好きなのですが、それは「多様性」ということだったんだ、と、自分としては、ちょっと大きな発見をしたような気分だったんですね。

実社会でも、今はあまり活躍していない人が、まわりの環境が変わって、人類社会が大変な問題に直面した時、みんなを救ってくれるヒーローになるかもしれない。そんな想像をして、ちょっと楽しくなったりしてます。

で、やっぱり政治の話になるのですが(笑)、さまざまな問題を議論する国会は、国民と同じくらい多様性があるべきだ、と強く思います。どんな思想であれ、意思決定の場に、ある特定の属性や思想をもった人たちしかいない、という状況は、とても危なっかしい。国会をできるだけ多様性のある状態、さまざまな考えをもつ場に近づけることが、国民が選挙を通じておこなう、もっとも懸命な選択ではないかと思うわけです。

フリーエージェント社会の到来

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従来の労働法制で対象になりにくかったフリーランスの権利を保護する動きが先進国で広がってきた。韓国政府は2020年までに失業中の自営業者らが求職手当を受給できるように検討を始めた。フランスも20年までに、フリーランスが健康保険の給付を受けやすくする。働き方の多様化を受けた新たな経済の担い手を支援する狙いだが、国家の社会保障負担が膨らむ懸念もある。


世界中でフリーランス保護の動きが拡がっている。その背後には、「これからの時代は小規模企業・自営業・フリーランスの力がより大きくなる、という世界的な共通認識がある。

米国の作家、ダニエル・ピンクは、今から約20年前、「フリーエージェント社会の到来(Free Agent Nation)」という本を書き、「雇われない働き方」の可能性を訴えた。彼の著書によると、その当時、すでに米国の労働者の約1/3、カリフォルニアにいたっては2/3が「フリエージェント」だった。「フリーエージェント」は最近始まった新しいトレンドではない。数十年も前から着実に進んできた、「大河」的な傾向なのだ。

「フリエージェント」という言葉は、日本人には耳慣れないものだが(唯一使われるのはプロ・スポーツの分野くらいだろうか)、自営業、フリーランス、小規模企業・個人企業の経営者など、人に雇われずに働く人々を総称した言葉だ。

ピンクは、大きな組織の中で、定められた労働時間の下で働くという形態(日本で言う「サラリーマン」)は、古き良き時代の遺物だという。多様性の時代・変化の激しい時代には、自由度の高い自営業・フリーランスの方がメリットが大きい。管理コストを大幅に下げるIT技術の発展も、フリーエージェントに有利に働く。フリーエージェントどうしがアライアンスを組むことが容易になり、大組織の規模の力より、フリーエージェントの、自由度や変化の対応の速さの方が有利になりつつある。

そんなピンクの説得力のある未来予想に、僕は大いに感化された。そして、今は、自分ひとりの企業を「経営」している。フリーエージェントの仲間入りをしたのだ。


日本では、いまだに「正規雇用か非正規雇用か」という議論が続いているが、これはあくまでも「雇用」を前提にした、狭い視野の議論でしかない。そもそも「雇用」されなければ、仕事ができないのだろうか?本当の「働き方改革」は、雇用以外の働き方を増やすことだ、と僕は思う。

すでに旧時代のものとなりつつある大企業優遇政策を続ければ、より自由な働き方を実現しようとしている世界に、日本だけが取り残されてしまう。本当の「改革」は、旧時代のシステムを破壊することも恐れずにやるべきだ。この改革は、現在の大企業も含め、すべての人々にメリットがあるはずだ。

立場の弱い者が強い者に頭を使って挑む姿は、気持ちを高ぶらせる(れいわ新選組の戦略)

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参院比例区は、政党名だけじゃなくて、候補者名でもいいのだ。むしろ、候補者名の方が、より直接的に民意が反映されるね(しかし、投票のやり方のような「国民の常識」は、くどいくらいに説明すべきなんじゃないの、マスコミは?)。


一方、「特定枠」は、合区で選挙区がなくなる議員のために自民党が作ったらしいが、これを逆手にとって、ALS(ふなごやすひこ氏)患者と脊椎損傷(木村英子氏)、二人の候補者を立候補させた、れいわ新選組の戦略は痛快。

「事務所設置や演説会、選挙カーの使用、ポスターやビラの掲示・配布など比例候補としての選挙運動ができません」という特定枠の制限は、移動に制約のある候補者にはマイナスにならない。むしろ、健常者とより対等に戦える。


立場の弱い者が強い者に頭を使って挑む姿は、気持ちを高ぶらせる。頑張ってほしい。

山本太郎は、混迷した日本をまとめ、よりよい未来に舵を切らせる人物かもしれない

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最近の山本太郎の動きは、刺激されることばかりだ。今回の「障害をもつ候補者を比例区名簿で自分より上位におく」「創価学会員やLBGTQなど、多様な属性の候補立てる」という行動に驚くとともに、おそらく今まで日本の政治には感じたことのない「潔さ」と「迫力」を感じた。

それは、当たり前のことをあたり前にやってくれる政治家がようやく出てきたのだ、と言う直観につながっている。


考えてみれば、国会議員が国民の代表なら、その属性は国民全体の属性と、まったく同じとは言わなくても、できるだけ近いほうが民意が反映されるのは当然だ。

その意味で、自営業やフリーランス、障害をもった人やLGBTQ、さまざまな原因で社会と隔離されていると人たちも国会議員になるべきだ。そうでなければ、「社会的弱者」や「メインストリームにいない人たち」「組織をもたない人たち」が本当に望んでいることは、けっして議論されないだろう。これまでの政治家は、外向きの「ポーズ」で一瞬、弱者に目を向けることはあっても、自分ごととしてとらえる人はいなかった。今のように「政治屋」ばかりの国会では、社会が歪むのは当然のことだろう。

山本太郎は今までの「政治屋」とは違う、という直観がある。もしかしたら、彼の行動もまた「ポーズ」なのかもしれない。でも、ここまでやる「ポーズ」なら、本気と区別はつかないし、区別がつかないのなら、それは本気だ。人間の意識は行動によって規定される、と僕は思う。「成せば思う」なのだ。



「日本人は○○○」と言う議論はあまり好きではないが、あえていうなら、僕は「判官びいき」という言葉が、昔から日本人、とりわけ庶民の間で共有されてきたアイデンティティだと信じてきた。

しかし近頃は、「判官びいき」は陰に隠れ、代わりに「よらば大樹の陰」や「長いものにまかれろ」という風潮がますます強くなってきているように思う。強い者に従うのが人間のよりよい生き方だというなら、いまさら「イノベーション」とか「世界一」とかうそぶくのはやめてほしい。隷従は自由を奪い、創造を殺す。今ほど日本人の良くない性質が表に出た時代はないのではないか、と情けなくなる。

ここ数年で学んだのは、「力がすべてだ」という信条の人たちが国のトップに立つと、ここまで世の中は乱れるのか、ということ。僕たちはもう十分学んだ。この教訓を糧に、そろそろ次の時代を作ろう。一刻も早く次の時代に舵を切ろう。


山本太郎の考えは、本物の保守と、まっとうなリベラルの両方に訴えるものだ。先入観をなくして彼の発言を素直に聴き、彼の行動を素直に見れば、彼こそ、現在の混迷した日本をまとめ、市民の先頭に立ってよりよい未来に舵を切らせる人物ではないか、という気がしてくるのだ。

山本太郎は、あきらめていたこと、忘れかけていたことを、もう一度、思い出させてくれる

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山本太郎の魅力は、「政治家は国民の代表である」という、あたり前だけど、あきらめていたこと、忘れかけていたことを、もう一度、思い出させてくれることだと思う。

「彼のパフォーマンスが嫌いだ」という人も、山本太郎の主張していることを聴いてみるといい。彼は、右とか左とかいう枠組みで戦っているのではない。そういう古い観念から逃れて、あたらしい未来を作ろうぜ、と言っているのだ。

彼には学歴はないかもしれない。しかし、学歴がある人間が、必ずしも人間的に尊敬できないことを、この数年間、何度も見てきたではないか。


山本太郎」という政治家は、夢かもしれないし、賭けかもしれない。たとえ夢であっても、ほんものの夢を与えてくれる政治を実現してくれるなら、素晴らしいことではないか。

今日より明日のほうがよくなる、と国民が心の底から思えたら、明日は必ずよくなるだろう。結局、国を変える最前線はひとりひとりの国民だ。夢はその最高のモチベーションだ。人々を自発的に動かし、世の中を変えることができるのは、夢のもつ力を信じるリーダーではないだろうか。

理解は「考えの進化」を体験することにある

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Quoraは気に入っているウェブサイトのひとつで、いくつかの分野をチェックしている。そのひとつ、算数・数学は興味深い投稿が多い。問題や解答が面白いのはもちろんだが、おそらく数学をかなり深く学んだと思われる回答者が一般人に向けて解説・説明する、その表現とプロセスがとても面白いのだ。それは、数学者の頭の中を、少しのぞき見ているような感覚だ。


数学に限らず、どんな学問でも、きれいにまとまった最終的な答だけじゃなくて、答にいたる「筋道」、小さなひらめきからはじめて、具体的に確かめながら少しずつ一般化していく、「考えの進化」のプロセスがおもしろい。そんなプロセスを体験できると、その背景にあるより大きな問題への理解が深まるし、その学問への興味が増し、さらに楽しくなる。それは、推理小説と同じような楽しさかもしれない。


逆に、そういうプロセスを経ずに「学んだ」ものは、自分の中で深く定着しない。「知ってはいるが、使えない」知識にすぎない。学習は体験と結びついていなければならない、という仮説を支持する。

さらに言えば、それは脳の構造とも深く関わっているのだろう。脳の中には、全体の雰囲気をざっととらえるレイヤーから、ひとつのことを細かく論理的にとらえるレイヤーまで、何層ものレイヤーが重なっていて、それらが深く結びつくほど時、深い理解が得られるのではないか。

これは、あくまでも、僕が、自分自身の体験から考えた仮説ではあるけれど、この仮説をさらに「進化」できればいいな、と思う。