モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

音楽が生まれる場所 柳瀬博一のリベラルアーツ入門・牧村憲一

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以前書いたとおり、毎朝・毎夕の「オーディブル通勤」では、対談や講演が一番おもしろい。話し言葉なので聞き取りやすいし、だいたい1時間程度なので、情報の密度が濃いのだ。歩きながら脳を刺激するには、最高のコンテンツだ。


対談のお気に入りは、「柳瀬博一のリベラルアーツ入門」のシリーズだ。東工大リベラルアーツ学科の柳瀬さんが、さまざまな分野の第一線で活躍する人を招いて話を聴く。これまで、「教養」「サイエンスジャーナリズム」「アートxビジネス」「進化論」が公開されている。すべて聴いたが、どれもめちゃくちゃ面白い。聞き手である柳瀬さんの、知的だけれどくだけた感じに、ゲストもリラックスして本音で語っているように思える。僕も、これまで、サイエンスニュースの取材でたくさんの人にインタビューしてきたが、柳瀬さんの幅広い知識と聞き出す力には、とてもかなわない。すごいな、と思う。


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「名プロデューサーが語る『音楽と日本社会』」は、渋谷を拠点にして、音楽制作に長年携わってきた牧村憲一氏が、いわゆる「渋谷系」音楽の系譜を語ってくれる。はっぴいえんど南こうせつかぐや姫荒井由実YMO山下達郎大貫妙子高野寛フリッパーズ・ギターカジヒデキ、DAOKO…。牧村さんの語りは濃密で、よく知ったミュージシャンの名前が次から次と出てくる。対談の中に出てきた以外にも、牧村さんは、ものすごい数のミュージシャンたちと、半世紀にわたって仕事をしてきた。僕たちが憧れた、渋谷カルチャーの裏話は、とりわけ世代が重なる僕には、全身の感覚を刺激するような興奮が満済だ。


もともと渋谷は、東京では「僻地」だったいう。銀座や新宿とは違い、渋谷には文化と呼ばれるようなものは何もなかった。しかし、東京オリンピックを契機にして、渋谷の街の姿は大きく変わっていく。道玄坂宮益坂、公園通り。この3つの坂を起点に、パルコやYAMAHAなど、さまざまな店舗ができ、そこに人があつまり、カルチャーが生まれた。そこから、現在の渋谷系につながる、あたらしい音楽が出てくる。


牧村さんが音楽の世界に入ったのは、フォークの全盛期。一番人気があったのは吉田拓郎で、みんな拓郎の仕事をやりたがったという。「しょうがないので」牧村さんは、人がやらない他のミュージシャンの仕事をやったという。そうして携わった中に、南こうせつかぐや姫がいた。「神田川」が大ヒットし、牧村さんは一躍、最前線の制作者になった(神田川の有名なイントロのバイオリンやギターは、実は当時、最高の演奏者が演奏した、というエピソードも面白い)。


新しいものは、それが生まれた時点では、まだほとんどの人は知らない。それが「新しいもの」の定義なのかもしれない。しかし、人が注目されない時期にコツコツと努力していれば、何かのきっかけでそこに注目が集まった時、すぐに第一人者になれる。他に誰もやっていないのだから。

そんなことは頭ではわかっているし、これまで自分自身でも何度か経験していることでもある。その場、その時間にいる凡人には、新しい方を選択するのは難しいものだ。勇気がない、というのもあるが、それより前に、他の人が注目していないものに注目すらための経験と見識の問題なのだろう。


大滝詠一氏を、あの有名な三ツ矢サイダーのCMに起用したのも牧村氏だ。それがきっかけで、牧村氏はCM音楽の世界に入っていく。自由を求める音楽から、商品を売る音楽への転向に、牧村氏は最初抵抗感があったが、音楽制作のことをもっとも学べる場所はCMだとわかって、あたらしい場所へ入ることを決断したという。

大滝詠一が作った三ツ矢サイダーの歌の録音に、バックコーラスとしてやってきたのが、大貫妙子山下達郎だったそうだ。あたらしい一歩を踏み出したことで、思いもかけない才能に出会ったのだ。


こうしてCM音楽は、あたらしい音楽が生まれる場所になっていく。CM界のスポンサー企業の人たちは、お金に追われた音楽業界のひとと違って、「おおらか」だったと牧村氏はいう。「山下達郎?聴いたことないからだめ」とは言わなかった、と。

ただ、企業にそう考えさせたのは、企業とミュージシャンの間にいた制作者たちだったと付け加える。自分たちを信じて下さい、と心から言える人たちがいたから、そして実際に素晴らしいものを作ってみせたから、さらに先に行けたのだ。こうして、渋谷発のCM音楽が、日本の音楽全体を進化させていった。


牧村さんより前の世代の音楽制作者は大手の会社に所属していた「サラリーマン」だった。一方、最近は、ミュージシャン自身が音楽をプロデュースする時代になっている。その間の牧村さんの時代は、フリーランスの制作者が活躍できた時代だったという(だから、後世の時代からは、牧村さんの時代がうらやましい、と言われるそうだ)。


このように、商売の主体が、企業→専門フリーランス→作り手、と変わっていく変遷は、音楽に限らず、他のあらゆるビジネスでも同じかもしれない。新しい分野は最初、それまでの別の分野に携わっていた会社が、投資として始めることが多いだろう。その分野が離陸し、独り立ちするようになると、大きな組織の庇護がなくてもやっていけるようになる。そこで、フリーランスという職業が成立する。大きくて動きの遅い大企業より、機動力と専門性の高いフリーランスが能力を発揮できるような時期が訪れる。しかし、さらに分野が成熟し、制作や流通の経路が確立し、定形の業務が増えて「外注」できるようになると、作り手自身ですべてをコントロールできるようになる。元来、クリエータはゼロからイチまで、すべてやりたいから、そちらへ進むのは自然なことなのだ。


一昨年、YMOの結成40周年を記念して、YMOの子供の世代にあたるミュージシャンたちがイベントを開いた。これも牧村さんの企画だ。参加したミュージシャンには、ひとりひとり個別に声をかけたのだが、集まってみると実はさまざまな点で、YMOや、そのまわりの人たちとつながりがあることがわかったという。YMC (YMO Children) と呼ばれる所以だ。このことは、牧村さんたちが開拓した渋谷という場が、次の世代を魅了し、文字通り「チルドレン」たちを生み出したきたのだ証だろう。


考えてみれば、音楽に限らず、他の文化や学術も、ビジネスや思想も、開拓者が作った「場」に人々が集まり、新しいものを作り、それが同時代の人たちを魅了し、次の世代につながっていく、というサイクルを経て、確固たるものになっていく。「渋谷系」という名前は後からつけたもので、開拓者たちは最初から「渋谷系音楽を作ろう」と思っていたわけではない(と、牧村さんは言っている)。名前のない不安と、それが故の自由さ。


言葉ではうまく表すことができないが、そういう様々な思いが混合した、ごった煮の空気感があるから、何かが生まれる場となるのではないだろうか。

知への欲求とぶれない姿勢:城山三郎「人間的魅力について」

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実在する人物を主人公にした経済小説歴史小説を多数著した城山三郎が、人間の魅力について語った講演。


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「真珠王」と呼ばれる御木本幸吉。真珠の養殖とブランド化に成功し、後年は豪華な生活をした時期もあるが、もともとは三重県の貧しい漁村の生まれだ。若い頃の御木本は、寺や学校で開かれる講演会に足繁くおもむき、毎回最前列に座って熱心に質問し、講演会の後は講師を宿舎に訪ねることもあったという。生来の積極性に加え、不便な地に生まれたことで、逆に知に飢えていたのだろう。


御木本は最晩年、志摩半島の先端の辺鄙な地に、小さな養殖場と自分の家を建て一人で住んだという。養殖場と自分の家以外、なにもない場所に、御木本は郵便局を作っている。実は、御木本は、家を作る時は必ず、井戸と郵便局を作ったそうだ。井戸は生きていくための水を得るのに必要だ。しかし、なぜ郵便局が必要なのか。それは、御木本が、郵便局は情報の最前線だと考えていたためだ。どんな田舎に住んでいても、郵便局さえあれば、いつでも最新の情報が手に入る。御木本は、それほど「知」というものを大事にしていたのだろう、と城山は言う。


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第27代総理大臣、浜口雄幸(おさち)は、満州事変直前の激動期に日本の国の舵をとった。行政改革・緊縮財政を積極的に進め、政府だけでなく、国民にも倹約を訴えた。彼は終始、筋の通った「ぶれない」強面の政治家であったという。自分自身で「政治家は笑ってはならない」と言っていたというから、相当なものだ。現在の、中身はないのに人気だけで世渡りしていく、ポピュリズムの政治家とは正反対の人物だったのだろう。


浜口は1930年、岡山の駅で狙撃され、駅長室に運び込まれた。その時、ちょうど、ソビエト連邦に発とうとする外務大臣広田弘毅の見送りが行われていた。それを邪魔してはいけない、と浜口は、自分が狙撃されたことを周囲に知らせないようにし、その場にいた多くの人は浜口が撃たれたことに気づかなかったそうだ。


「随感録」という、浜口の覚書のような自著の中に、「男が事をなす」という章がある。男女に関係なく、なにか大きな事をやろうと思った時、どいうことを心がければいいかを書き残した文章だ。


浜口は、事をなす前は、まず周囲の状況をよく観察し、足下をかためよ。そして、いったん事を始めたら、つぎの3つに注意せよ、と書いた。


ひとつめ。信念はうさぎの毛ほども揺らいではならない。 つまり、ぶれてはいけない。

ふたつめ。問題は最後の5分間だ。うんとふんばるべし。 つまり、最後まで気を抜くな。

みっつめ。終始一貫、純一無雑でなければならない。 つまり、欲をもたず、純粋な使命感だけで行え。


この戒めは、今でも、どんなことをやるときでも当てはまるものだろう。


浜口は、最後の年となった1931年、病で床に伏せる中で、必ず国会に立つという約束を守るため、家族を説得し、フラフラの状態で国会に向かった。靴さえ履けない状態だったため、布切れを足に当て、炭を塗って、靴のように見せて国会に立った。


昔は、そんな総理大臣もいたのか、と半分は当時の政治が羨ましく、残りの半分は今の政治が情けなく思う。とともに、もし周囲の環境が変われば、また浜口のような人物が出てくるかもしれない、と、現代の浜口雄幸の姿を想像し、小さな希望も生まれてきた。

ちいさな「不正」を許す社会

Facebookで、ある研究者の方がこんな投稿をされていた。

日本の研究者は,学会参加費を科研費等で請求するにあたって,研究者は昼飯付きランチオンセッションの有無を調べその分を食糧費から差し引き,事務はこれが適正になされていることを三重くらいに確認し..という,時間経費が節約分を多分上回ることをやってます.会計検査院の過去の指摘のせいです.


この投稿には驚いた。研究者の世界では、学会の会費でランチを得ることが「不正」とみなされているのか。そのようなランチが不正だとすると、お菓子やコーヒーはどうなる?記念品は?という疑問も湧いてくる。


そういった、不正の判断基準の曖昧さは、関係者に混乱を招くだろう。しかし、僕がもっと違和感を持つのは、そのような「不正」がないことを、研究者や事務方が何重にもチェックしているという事実だ。コストの面で言えば、そのような確認作業にかかる、見えない人件費を総計すれば、ランチ代を払ってもお釣りが来るかもしれない。


いや、不正の排除はコストの問題ではなく、正義の問題なのだ。そういう意見は当然あるだろうし、それに反論するつもりはない。しかし、学会費でランチを食べるような「小さな不正」をチェックする時間があるのなら、研究や研究環境の改善に時間を使ったほうが、絶対に世の中のためになる、と納税者の一人である僕は思う。


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この話に関連して、ある体験を思い出した。オーストリアリンツの街に滞在した時のことだ。リンツ市内の重要な交通機関が、路面電車だ。主要な道路には一定間隔で路面電車の駅があり、人々は気軽に路面電車に乗り降りできる。初めてリンツを訪れた僕が驚いたのは、路面電車に乗る時、乗車券を見せたり、料金箱にお金を入れる必要がないことだった。


リンツ市の路面電車が無料というわけではない。ちゃんと決められた運賃があるし、路面電車に乗る人は、前もってお金を払って、乗車券を買うことが求められている。ただ、買ったことをチェックするしくみはなく、すべては乗客の良心に委ねられているのだ。


(正確に言うと、乗車券をチェックする仕組みがまったくないわけではないらしい。たまには駅員や乗務員が「きっぷを拝見します」とやってきて、もし、買っていなければ2倍だったか3倍だったか、罰金を取られるのだそうだ。僕は、そういう乗務員に出会うことはなかったが。)


チェックがなければ、当然「フリーライダー」が出てくる。しかし、地元の人はそれでいい、と考えているようだった。その理由を尋ねたら、お金のない人も路面電車に乗れるからね、という。お金がある人は乗車券を買えばいいし、ほとんどの人はちゃんと買っている。でも、市民の中にはお金がない人もいる。そういう人たちも路面電車に乗れるべきで、お金ができたら払えばいい、というのだ。


それを聞いて、「路面電車で乗車券をチェックしないしくみ」は、非公式な弱者救済システムになっているのだ、と理解できた。合法ではないが、市民が合意した助け合いのしくみであり、おそらく行政もある程度目をつぶっているのだろう。この「タダ乗り」は、社会が遅れているが故の不正ではなく、弱い人を助けようという市民の意思の下で行われる、より進んだ社会だからこそ生まれた「不正」ではないだろうか。


つまり、ある種の「不正」は社会のセーフティネットとして機能する。もちろん、まったく「不正」が必要ない社会を作ることができれば、それに越したことはない。しかし、今、完全に理想的な社会が実現できていないのなら、ある種の「不正」を許容することは、道筋は違っていても、目指すべき理想社会に近づくことなのかもしれない。リンツ路面電車の場合、「タダ乗り」は弱者の救済であり、社会全体の互恵のしくみなのだ。


法は単なる約束事であり、必ずしも正義や善と同一ではない。法と正義を近づける努力は必要だが、不完全な法をすべて正義とみなすことは危険だ。そんなふうに言うこともできるだろう。


少なくとも、ある面では社会に正義や善をもたらすかもしれない「不正」をすべて敵視し、一方で、より大きな、本当の不正を見逃していないか、十分注意しなければならないのではないか。たとえるなら、小さな害虫にばかり目を向け、それだけを駆逐すれば、生態系全体のバランスが壊れて、結局人類が滅んでしまうようなものかもしれない。


そんな経験があって、僕は、小さな「不正」を許す社会を支持するようになった。もちろん、その背後には、許されるべき「不正」と、許してはならない不正を区別できるよう、市民ひとりひとりがしっかりと考え、見識を持つことが前提ではあるが。


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冒頭の、知人の研究者の投稿が、「小さな不正にとらわれて社会全体への善を損なってしまう」事例なのかどうかは、わからない。しかし、以前から持っている感覚的な意見を言うなら、この国では、大きな視野で見れば社会のためになるかもしれない、小さな「不正」をやみくもに排除する言動が良しとされ、その傾向がどんどん強まっているような気がしてならない。たとえば、最近の「自粛警察」もそのひとつだ。そういう狭い視野の考えがはびこることで、世の中の息苦しさをより強くし、自主性や創造性を萎えさせているように思えてならないのだ。

江藤淳「菊池寛と芥川賞」

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江藤淳菊池寛芥川賞」。菊池寛の「弟子」であった小林秀雄の、そのまた弟子であった江藤淳氏が語る、菊池寛。1987年10月の菊池寛生誕百周年記念講演会での録音。

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日本人なら知らない人はいない、直木賞芥川賞。この偉大な文学賞が創設されたのは1935年(昭和10年)。その発案者は、作家であり、雑誌「文藝春秋」の創刊でもある菊池寛である。その前年の1934年、直木三十五など、同士で友人の作家たちが相次いでなくなったことを寂しく思った菊池は、直木の名前をつけた大衆文学賞を作ることを考える。同時に、純文学の新進作家には、芥川龍之介賞を贈ることにした。


この経緯を記した菊池の随筆「話の屑篭」には、「芥川、直木を失った本誌(文藝春秋)の賑やかしに亡友の名前を使おうというのである」と、冗談か謙遜のようにも取れる表現がある。しかし、菊池の本心としては、尊敬する友人を失った思いを、何か形にして残そうと考えたのではないだろうか。この随筆で菊池は、まず直木三十五賞のことを書き、それに付け加えるように、直木より先に亡くなった芥川龍之介の賞について書いている。これは、直木より芥川を軽く考えていたというのではなく、逆に、菊池にとって、若い頃からの友人である芥川だからこそ、そのような表現をしたのではないだろうか。


菊池と芥川は、旧制一高の同級生であるが、菊池は一度高等師範へ行ってから一高に入り直しているので、芥川より4つ年上。だから同級生とはいっても、菊池は兄貴か「おじさん」のような存在だったのだろう。「野党」で反体制的な菊池と、スマートで官僚的な芥川は性格も作風も対照的で、一高時代はほとんど交わらなかったらしい。しかし、同じ文学の道に進んだ二人は少しずつ近くなった。表はともかく、本音ではお互いに信頼しあっていたのではないだろうか。特に、年下で、か弱い芥川は、年上で経済力のある菊池を頼っていたようだ。


芥川が1927年に自死した後、菊池は「芥川の事ども」という追悼記を書いている。この中で、菊池はつぎのように亡友を振り返っている。

死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけていたという。しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らしてくれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼を訪ねなかったのである。彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付きは、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。


菊池らしい、簡潔で無駄のない文章はけっして情に訴えるようなものではないが、兄貴分の旧友として、芥川の苦しみに気がつかず、助けてやれなかった、菊池のやりきれなさを感じてならない。


同時に、僕は、相手の才能を心から尊敬し、信頼もできる友人をもった菊池が、とても羨ましく感じた。文学であれ、他のどんな分野であれ、志や価値観を共有できる、本音で語り合える友人や仲間をもつことは、何ごとにも代えがたいことではないだろうか。才能があり信頼できる友がいれば、自分も成長することができる。自分が成長すれば、相手もさらに磨かれる。そのような友人と雑談するだけでも、さまざまな気づきがあり、やる気が起きてくる。沈んだ心が、再び浮かび上がる気分になる。


直木賞芥川賞が、創設から85年経った今でも日本人の心を掴むのは、そのようなほんものの信頼と尊敬が土台にあるからなのだろう。


芥川が菊池を訪ねた時、もし菊池が在籍していれば、後世の僕たちは、もっと素晴らしい芥川作品を読むことができたかもしれない。そう考えるともちろん残念ではあるが、一方で、その悲劇をきっかけに菊池が創設した芥川賞が、後世にわたって数多くの才能を育ててきたのだ。菊池と芥川の才能と信頼する心は、これからもずっと、人々に届き続けるだろう。

熱意と厳しさと寛容:松下幸之助「私の自叙伝」

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今朝の「オーディブル聴講」の講師は、松下幸之助。「私の自叙伝」と題した、ひとり語りで、オリジナルは昭和37年のNHKのラジオ番組だそうだ。


録音は松下幸之助松下電器の社長を退任した翌年で、少し自由になった立場で、自分が事業をはじめたきっかけやその時の出来事を振り返る内容。その思い出は構成の私たちにとって、「商売の真髄」といえるものになっている。


少年の頃働いていた自転車屋でのエピソード。いつもなら自転車を販売するのは番頭の仕事だが、ちょうど番頭が不在だったので、幸之助が売りに行くことになった。相手は大きな蚊帳問屋。当時まだ13歳だった幸之助は、以前から自分自身で自転車を売りたいと思っていた。自転車屋の親方に「幸吉、お前が売ってこい」と言われて、とても嬉しかったという。

問屋に出向いた幸之助は、先方に一生懸命、自転車のことを説明する。それを中で聴いていた旦那さんが出てきて、幸之助の頭をなでながら、「お前の熱心さに免じて自転車を買ってやろう」という。幸之助はとても喜んだ。しかし旦那は、「ただしその値段から1割引で売って欲しい」ともちかけた。幸之助は、これまで番頭さんが1割やそこら値引きして売っているのを知っていたので、「わかりました1割引でお売りします」と旦那に伝えた。


自転車屋にもどった幸之助は、さっそく、蚊帳問屋の旦那さんに1割引で自転車がうれました、と報告する。幸之助は、てっきり親方に褒められると思っていたが、親方は、幸之助にこう返す。自転車を売ったのはいいが、最初から1割引で売ってはいけない。それが商売というものだ。5歩引きでもう一度交渉してきなさい。しかし、すでに自転車を売った幸之助は納得できず、親方の前で泣き出してしまう。


そこへ問屋さんの番頭が、自転車はどうなったのかを見にやってきてた。親方は、今丁度その話をしていたんです。自転車を1割引でお売りしたというので、お前はいったいどちらの小僧なんだ、と叱ってるところなんです、と伝えた。それを聴いた番頭さんは幸之助に、今後、お前がいる限り、自転車は必ずここで買うことを約束する、と言ったそうだ。


この体験で、商いは品物の値段だけではない、とわかったと幸之助は言う。問屋の旦那や番頭は自転車の値段ではなく、幸之助の贔屓、つまり、ファンになってくれたから、買ってくれたのだ。価格や品質は商売では大事な要素だ。しかしそれだけではだめで、商売が成功するためには、人間同士の精神的なつながりが大切だということを、この経験から幸之助は学んだという。



自転車屋ではこんな話も紹介している。幸之助が15歳の時のこと。仕事がよくでき、親方にも可愛がられていた先輩がいた。ある時、その先輩が、魔が差したのか、商品をちょろまかして勝手に売ったことがあった。それが親方にばれて、親方は彼を叱り、先輩も悪かったと謝った。それでその場は収まり、親方はその先輩を許すことにした。


しかし、幸之助の気持ちは収まらない。これは許しがたいことだと強く感じた幸之助は、親方に、私は悪いことをする人と一緒に仕事をすることはできないからお暇を下さい、と申し出る。親方はとても驚いた。なにもそこまですることはない、と幸之助をなだめながら、親方も反省し、結局その先輩は辞めることになった。そんなことがあった後、店の雰囲気は引き締まり、その後、急速に発展したという。


今思うとそこまですることはなかったかもしれないし、辞めさせられた先輩には申しわけなかった、と幸之助は言う。しかし、あの時、自分の言動が店に改革を起こしたのだ。そういう厳しさが、今日の日本にも必要ではないだろうか。不正を知りながら曖昧模糊としてやっているところに、日本の弱点があるのではないか。そう、幸之助は問いかける。



一方で、幸之助はこんなことも言っている。

自転車屋での奉公の後、「電気の時代」を感じた幸之助は、大阪電灯(現関西電力)勤務を経て、松下電器を創業する。商売は順調に拡大し、3年めには社員が40人くらいになった。従業員が増えてくると、中には不正を働くものも出てくる。それを知った幸之助は、不正に手を染めた者を辞めさせるべきか、かなり悩んだという。


そこで幸之助はこう考える。今、この国で悪いことをして刑務所に入っている人は10万人ほどいる。悪いことをしたが、運良く刑務所には入っていない人はその5倍、50万人はいるだろう。当時日本の人口は5,000万人だから、100人に1人は悪いことをしていることになる。しかし、その悪人に、天皇はけっして出ていけとは言われていない。彼らも同じ日本に居続けることができている。いくら徳をもった人であっても、悪人を善人にすることはできないが、日本という国はそんな悪人を受け入れている。


このことに思い至って、気持ちがすっと楽になった、と幸之助は言う。商売は、善人だけを使うのではない。悪人も使うのがただしい商売だ、と。


その後、幸之助は、安心して人を使い、大胆に任せられるようになった、という。もともと自分は体が弱いので、人にやってもらうしかない。それもまた、商売の成功につながったのだろう、と幸之助は振り返る。


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この短い語りの中で紹介されるエピソードは、商売をする者が大切にしなければならないことを、教えてくれている。商売では商品やお金も大切だ。しかし、それだけでは商売は発展しない。その背後にあって、商売を支えているのは、人の熱意や人同士のつながりである。そして、正しさや倫理観を失ってはいけない。その一方で、寛容と信頼も大切なのだ。


幸之助が教えてくれる、ひとつひとつのことは、誰しも頭ではわかっていることかもしれない。しかし、それを身をもって体験し、実感として理解しなければ、本当の商売はできないのだ。


今朝の小一時間のオーディブル通勤は、駄目経営者の僕に、厳しく喝を入れてくれながら、暖かく包み込んでくれるような、心地よい時間だった。

僕が「オーディブル聴講」を始めたわけ

少し前、自転車を盗られた。

毎日、自宅からオフィスまで、約4kmの距離を自転車で通勤していた。その日は昼から雨になって、帰宅の頃になっても降り続けていたので、朝乗ってきた自転車をおいて電車で帰ることにした。翌朝、再び電車で仕事場に来てみると、昨日置いたままにしたはずの自転車はなかった。


どこかに置き忘れたのだろうか、と記憶をたどってみたが、そもそも前の日は昼からずっと雨だったので、自転車に乗るはずもない。昨日の朝、オフィスのビルの前においたのは間違いない。もしかしたら撤去されたのかな、と思って自転車をおいた場所の近くをみても、撤去したことを書いたものは何もない。これまで何度か不法駐輪した自転車を撤去されたことはあるが、撤去された時は必ず、どこそこで預かっているので取りに来なさい、という旨の通知がおかれていたが、今回は、そいうものはまったく見当たらない。


それでも念のため、JR駅前の交番にいって(不法駐輪なので恐る恐る)自転車が撤去されたのですが、とおまわりさんに聴いてみた。手前で何か書いていた女性の警察官がカウンターに出てきて、最近は新型コロナの影響で自転車の撤去はやってませんね、という。盗られたのなら盗難届けをだしてもらえますか、というから、そうします、と答えたら、届けるには防犯登録がいりますよ、という。


そうですか、では防犯登録の書類をもってもう一度来ます、と交番を出たものの、防犯登録の書類がどこにあるのか心当たりがない。自転車を買った時に防犯登録はしたはずだが、それ以来、防犯登録の書類は見たことがない。保証書と一緒にどこかに置いたはずだが、まったく記憶がない。


そうこうしているちに1週間ほどたってしまい、防犯登録の捜索と盗難届は挫折することになった。そこで今度は、この現状を自分に納得させるために自己説得にかかる。あの自転車はもうかなり長い間乗っていたよね、だから新しい自転車を買えばいいでしょ、ともうひとりの自分が誘惑してくる。しかし、ちょっと待て。そもそも電車通勤から自転車通勤に変えたのは、自分の健康のため(より正確に言うと減量のため)と、コスト削減が理由だった、ともうひとりの僕が考える。毎日往復で300円かかる電車代が、自転車なら、ただになる。一ヶ月20日仕事場に行くとすると、月に6,000円、1年で72,000円の「経費削減」だ。これなら、十分自転車の代金に見合う。


自転車にはもう数年乗っているから、十分元は取り返したとも言えるのだが、いったん削減した経費がまた増えるのには抵抗がある。こういう時は経営者の自分がしゃしゃり出てきて、むだな経費をかけるなよ、と脅しはじめる。とにかく、あたらしい自転車を買うのはなんだか釈然としない。もし新しい自転車を買ってから、盗られた自転車がでてきたらどうしようか。その時、どちらを売ったほうが得だろうか。そもそもどこに売ればいいのか。などという、楽観的だか悲観的だかわからない、無用な心配が生まれてくる。


そこで、しばらく、歩いて通うことにした。


片道約4kmは徒歩で約1時間。少し早く歩くと50分強。歩き始めた当初は、自転車と同じルートを通っていたが、徒歩ならもっと入り組んだ細い道や階段を通ってもいいのだ、と気がついてからは、多少距離は長くなるが、見知らぬ住宅街の中にある小さな居酒屋や安いパン屋、昭和時代の古い看板や朝の風俗街など、これまで見えなかったものを見つけられて、けっこう楽しくなってきた(ちなみに、朝の風俗街は意外に開いている店が多い。ようやく店じまいの時間なのか、夜勤明けのお客さんのためなのかはわからないが、店の前でやれやれという表情でタバコを吸う店員や、見た目にはまったく普通のかっこうで店に出入りする若い女性がいたりして、朝の風俗街は徒歩ルートの中でも、もっとも変化に飛んだメインスポットになっている)。


しばらくはそうして、徒歩で「観光」を楽しんでいたが、通る道も限られるので、だんだんと発見も少なくなって、飽きてくる。それに、徒歩は、自転車と違ってスピードも遅いので、歩くことにそれほど神経を使わなくていい。普通の運動神経があれば、ほぼ自動的に歩くことができる。大脳は暇なのだ。毎朝、毎夕の小一時間という貴重な時間を、何もせずに過ごすのはもったいない。毎日、起きて活動している時間が16時間だとすると、その8分の1の時間を、単調な徒歩に費やしていいのか、というおせっかいな計算が働く。この時間を無駄にすることなく、有効活用しなければいけないのではないか!という、凡人の生真面目さが叫びだすのだ。


そこで思い出したのが、1年前くらいから契約している、Amazonoのオーディブルという、オーディオ・ブック、つまり、本の朗読コンテンツだった。スマートフォンで朗読を聴きながら歩く。毎朝、毎夕の2時間弱の時間を、オーディブル聴講が、「健康で文化的な、最高な生活」に変えてくれる。なんと素敵なアイデアだろう!


当初は、一般の書籍の朗読を聴いていたが、実際歩きながら聴いてみると、書籍の朗読はなかなか頭に入ってこない。書籍の言葉はやや硬く、難しい言葉もあるので、聴いただけでは意味が取れないことが多くあって、そこで理解がとまってしまう。あるいは、横を車が通るとその騒音で声が一瞬遮られて、意味がわからなくなる。一度理解が途切れると、何をいったのだろうと考えているうちに、言葉は次へ行ってしまって、置いてけぼりなってしまう。書籍の言葉は正確だが無駄がないから、聴く側も流れるように吸収しないと理解ができないのだ。書き言葉は聴くものではなく、読むのが正しい、ということが体験としてわかった。これも発見といえば発見だ。


耳で聴くのに書籍より他にもっといいものが無いだろうかと考えて、見つけたのが、対談や講演を録音したコンテンツだ。オーディブルではそういうのも販売している。当然のことながら、話し言葉は聴きやすい。話し言葉は聴くために生まれたのだ。しかも、対談や講演の長さはたいてい1時間くらいなので、歩いて小一時間の通勤にぴったりだ。


こうして、毎朝、毎夕の「オーディブル聴講」が始まることになったのだが、実際にやってみると、これがなかなかいい。文学や歴史といった人文学から、最新のテクノロジーや先端科学まで、さまざまな分野の研究者の対談や、すでに故人となった文化人の講演を聴いていると、少し大げさにいうと、時空を超えて人類の最高の叡智に触れているような気がしてくる。月並みな言葉だが、感動する。毎日、そうだったのか!と思うことばかりなのだ。この歳になっても、あたらしい知に触れるのは、とても興奮することなのだ。


話の内容だけでなく、伝え方の上手さに感心したり、話し手のユーモアに思わず笑ったり(毎日歩きながらニヤニヤしているので、怪しい人に思われていないか心配ではある)、あるいは、講演が行われた頃の時代を懐かしく感じることもある(文芸講演のコンテンツは1980年代から2000年代まででのものが多いので、話の内容や話し方から、その頃の社会の空気も伝わってくる)。


とにかく、対談や講演の内容は、いずれも、これを自分一人で聴くなんて罪深いことだ、絶対に他の人に伝えなければいけない、と思うくらいに面白い。そのため、書きたいことが多すぎて、とてもここには書ききれないので、機会をあらためて書くことにしたい。つまり、この文章は、これから書く、対談・講演覚書の「枕」であり、予告編なのである。


というわけで、<次へ続く>。

バック・トゥ・ザ・フューチャーの”メイド・イン・ジャパン”

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映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の有名なシーン。

1855年に埋めた「デロリアン」を100年後の1955年に掘り出すが、上手く動かない。
小さな部品が壊れてしまっていたたためだった。それに気が付いた1955年のドクはその部品を手に取り、苦々しげにこう言います。

『やっぱり”メイド・イン・ジャパン”だ』

1955年のドクの言葉を聞いた1985年のマーティーはきょとんとした顔で返します。

『ドク、日本の製品は最高だぜ』」


1985年当時、このマーティーのセリフに、僕はちょっとした溜飲を下げる思いをもったものだ。まだ社会経験もろくにない学生だったくせに、日本の製品は世界で称賛されていることに誇らしさを感じたのだ。

その数年後、僕は、あるものづくり企業に入社した。それと同時に、日本のものづくりに対する「誇らしさ」の思いは、すこしずつ変わっていった。

入社してすぐ感じたのは、1まわり、あるいは、2まわり上の人たちは、自分たちの会社と自分たち自身に強いプライドを持っていたことだ。実際、その会社は、日本の高度経済成長をささえてきたと自他ともに認める会社のひとつだったし、かつては、学生が就職したい企業のナンバーワンになったこともあった。人気絶頂の頃に入社した先輩たちは、学歴も高かった。

僕が入社した当時は、もっとも社員数が多かった頃に比べて、社員数は3分の2ほどに減っていた。「構造不況」業種と言われ、数年前に大規模な人員カットを行っていた。「首切り」にあわなかった人たちも、赤字部門から「横移動」で違う部署に異動になったため、不慣れな職場で能力を十分発揮できていないように見えたし、同時期に入った若い先輩たちも、お世辞にも夢や活気にあふれているようには見えなかった。もっとも、当時の日本は「バブル」に入りかけていたので、それなりに好況で業績的には回復しつつあったのだが、本質的な課題はなくなったわけではないことはわかっていたように思う。

僕自身は、少しずつ仕事を覚えて、社内のさまざまな人たちと接するようになり、製品の品質を支えているのは、年齢が上の人たちの中でも、比較的学歴が低いが、それ故に長らくものづくりの現場にいて、ものづくりを身を持って熟知しているベテラン技術者たちだ、とわかってきた。

ベテランが歳を取り、若手が自律的に経験をつめないこの状況だと、この会社の製品の品質は下がる一方だろう。それが、入社数年のころの正直な思いだった。この状況は、もしかしたら、日本の他の企業も同じではないか。日本全体の問題なのかもしれない。そんなことを思っていた。


あれから30年以上が経った。もし今、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がリメイクされたら、上のシーンは間違いなく変更されるだろう。日本の代わりに「中国」になるんだろうな、と多くの人は諦め顔でいうかもしれない。

ただ、僕は、ドクとマーティーの発言が逆にならないなら、まだましだと思う。2020年のマーティーが壊れた部品を「やっぱり”メイド・イン・ジャパン”か」といい、1990年のドクが「マーティー、日本製は最高だぜ」という。そんなシーンは、日本人としては見たくない。

そんな不名誉なシーンが作られるかどうかは別にして、もう長らく言われてきたように、日本の企業は一刻も早く変わらなければならない。そのために大事なのは、ひとりひとりの人々が能力を最大限にはっきできる社会のしくみだ。過去の栄光や、企業の規模や、金とコネで政治とつながっていることで、しかもブラックボックスの中で企業の業績が決まるようなことはあってはならない。そのようなことが、もし社会の中にあるのなら、まずそういう「不正なしくみ」を壊し、透明で公正なしくみに作り変えることが必要だ。

社会の正常な発展を阻害するという意味において、不正に関与している人たちは「反社会勢力」なのだ、という決意が、この国のすべての人々と、国を導く政治に必要だと思う。