モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ウィルスは私たちに「働く」ことを考え直させるだろう

今日、うちのオフィスに、神戸大学の学生がやってきた。学生の「長期インターン」を広めたいと、友達とベンチャー企業を興したという。その「営業」に訪れたのだ。

一通り事業の話を聴いた後(長期のインターンを広めることで、ミスマッチをなくそうという事業自体は、なかなか興味深かった)、新型コロナウィルスの影響で今はインターンも控えるところが多いだろうね、そもそも就職活動自体も控えているでしょう、と振ると、実は彼は今年3回生になるが、ベンチャーを続ける気はなく、できれば大企業に就職したいという。しかし、就職活動が始められず、困っているんだ、と教えてくれた。(この時点から、「営業」ではなく、学生の「相談」になってきた。)


わざわざ零細企業に来てくれたので、「大丈夫、そのうち混乱はおさまるよ」といった、通り一遍の励ましを伝えてもつまらないと思ったので、今回の混乱で、社会は「働く」ということを根本から考え直すことになるかもしれないね、という話をした。今まで通りの就職活動ができなくなった学生たちや、強制的にリモートワーク・在宅ワークをやらされた労働者たちは、「働くとは何か」を考えざるを得ない。そうすると、今までのように大きな組織に雇用され、毎朝出勤して夜に帰宅する、というような働き方以外の働き方もあるんじゃないか、と気づいて、きっと意識が変わるに違いない、と。

そして、今この瞬間は、君にとって逆風だと思うかもしれないけど、もしかしたら社会が大きく変わることになるかもしれない。それは若い人たちにとって大きなチャンスになるかもね、というと、それまで「型通りの優等生」っぽい彼の眼が、少し輝いたような気がした。



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なぜ書くのか?(G.オーウェルの遺言)

全体主義国家の恐怖を描いた近未来小説、「1984」の著者として知られるジョージ・オーウェルは、「なぜ書くか?」という短いエッセイの中で、文章を書く理由(動機)には、次の4つがある、と述べている。

  • 「単なるエゴイズム」。これは、有名になりたい、人から尊敬されたいという願望は、人間のあらゆる営みにつきまとう、表に出すことは少ないが、誰もが持っている、もっとも普遍的なモチベーションだろう。
  • 「美的熱意」。文章や言葉の美を追求する姿勢は、アーティストとしての作家を突き動かすことは間違いない。逆言えば、「美的熱意」がなければ、作品と呼ばれるものを生み出すことはできない。
  • 「歴史的衝動」。有史以来、あらゆる時代において、歴史を記録する文章が綴られ、人類の大きな資産となった。個人のエゴとは別に、人類の存続に貢献することも、遺伝子に組み込まれた人間の本能であるに違いない。
  • 「政治的な目的」。作家がどれくらい意図しているかどうかは別として、時に、一冊の本や一遍の文章は世の中を動かし、時代を変えてきた。「歴史的衝動」が過去を書き留め、未来に託すことだとすれば、「政治的な目的」は今、現在の、より直接的な変革を求める欲求だ。

たまに文章を書く僕にとって、オーウェルの4つの「書く理由」はいずれも納得できるものだ。オーウェルが述べている通り、何かを書く時は、これらのどれかひとつの動機に動かされているというよりは、それぞれの強さ・弱さの違いはあっても、4つの理由すべてが混在した動機に突き動かされているのだと思う。

意外なことに、オーウェル自身は、「最初の三つの動機が四番目の動機よりも強い人間である」と自己分析している。「平和な時代に生まれ落ちていたなら、私は華麗な文体とかあるいは単に記述的な本を書いていたかもしれない」と。

オーウェル第二次世界大戦やスペイン内戦の時代に生きた、という理由だけでなく、それらに当事者として強く関わったことは、彼に大きな影響を与えたはずだ。その体験から得たある種の衝撃は、繊細な感受性を持つ天才にとって、避けられないこどだったのだろう。オーウェルは、息苦しさと怒りの中で文章を書いたのかもしれないが、当時の世の中の不正や欺瞞が「1984」や「動物農場」という文学作品として残されたことは、僕たち後世の者にとって大きな資産となった。


オーウェルの死からちょうど70年が経つ。今、オーウェルの著作を読んでみると、オーウェルの生きた時代と現在の世の中の空気が、とてもよく似ていると感じる。私たちは、再び、対立と全体主義の時代に戻ろうとしているのだろうか。不正と欺瞞が権力の一部として当然のごとく使われ、弱者は言葉を発することができず、その言葉さえ奪われようとしているのだろうか。

オーウェルが残した「遺言」を理解し、未来に活かせるかどうかが、今、僕たち21世紀を生きるすべての人に問われている気がする。

頭の良い人は

頭の良い人は、自分がすべてを知っていないことを知っているから、知らないことを求めて質問する。たとえ相手の言うことの99は知っていても、知らなかった1を知るために。

 

頭の良くない人はそのことを知らないから、質問する人のことを無知だと見下し、横柄な態度を取る。自分が何でも知っていると勘違いして、何も学ぼうとしない。

 

そうして頭の良い人はさらに賢くなり、頭の良くない人は、何も知らないまま、知らないことに目を向けることさえなくなっていく。

 

そんな風景を、今まで何度も見てきた気がする。

 

弱者だからこそ、卑怯なことはしない。

弱者だからこそ、卑怯なことはしない。
そうでなかったら、いいところがなくなる。


これは、糸井重里の「思えば、孤独は美しい。」にある言葉だ。


なるほどな、と思った。と同時に、何かひっかかるところもあった。


この言葉は、卑怯なことをしない生き方をしている人は弱者になりやすい、ということを裏返して言っている。

あるいは、強者になりたければ卑怯なことをしなければならない、ということを僕たちが思っている、ということを前提にしている。

それはおかしいのではないか。


卑怯なことをしない人たちが強者、とは言わなくても、すくなくとも弱者ではない世の中であってほしい。

もし今の世の中がそうではないのだとしたら、この世の中の方がおかしいのだ、と思いたい。


そんなことは虚しい理想論なのだろうか。でも、僕は、もうしばらくはあきらめないでいたいと思う。

死んだ気になれば何でもできる

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死んだ気になれば何でもできる―――そう思えるのは、元気だからだ。

死を選ぼうとしている人は、冷静で客観的な視点を失っている。だから他者が必要なのだと思う。外から見た自分に気づかせてくれる他者が一人でもいれば、人間は必ず生きられる。


死んだ気になれば何でもできる、というのは真実だと思う。もし普段から「死んだ気」になれれば、何も怖くない。そういう意味で、死を意識することはけっしてネガティブなことではなく、むしろ最高にポジティブなことなのかもしれない。


「死にたい」と思う気持ちが沸き起こってきたなら、それはあたらしい自分に変わろうとする決意であり、勇気なのだ。物理的に死ぬなんて、もったいない。死んだ気になってやりたいことをやればいい。


必要なのは、そのことを、他者がそっと教えてあげることなのだ。

創造とは伝達と合成である

自分が「これは自分の信念だ」と思っていることも、実は自分で考え出したことではなく、誰かから与えられたものだったりする。


自分が考えたことだ、と信じていても、それは昔、読んだ本に書いてあったことだったり、誰かに言われたことだったり、他人がやっていたこどだったりする。気づいていようがいまいが、真の「オリジナル」なんてない。かなりの「思想家」であっても、自分自身の思考の中で見つけたことなんて、ほとんどないんじゃないだろうか。


ただ、ある考えが100%外から与えられたもの、ということでもないと思う。外から与えられたものを内に取り込む時、自分自身の体験や別な考えと組み合わせて、少し変化しているはずだ。ある考えが人から人に伝わっていく時、「考え」は少しずつ変わっていく。


つまり、人間は「伝達マシーン」であると同時に「合成マシーン」でもある。普段、意識するかしないかは関係なく、人間は常にあたらしい考えを外から取り込み、それを頭の中でミキサーみたいに混ぜて、またあたらしい考えを作っている。その考えを、また他の人に伝えて、そこで合成されて、考えはさらに変化していく。


伝達と合成。人間の創造力を分解すれば、結局、この2つの単純な作業を、繰り返し、ひたすら続けているだけなんじゃないだろうか。

人類は有史以来、壮大な「伝言ゲーム」をやっているだけなのかもしれない。でも、それはけっして単調でつまらない作業ではなく、カオス理論のように、単純な作業から複雑な結果が現れる、「人知を超えた」な営みなのだろう。

創造力とは、しがらみを忘れて何が大事なのかをかんがえること

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イタリア選手は無念だろうな。たとえば観客なしで前日にやるとか、別のスタジアムでやるとか、できなかったのかな。

「安全」や規則はもちろん大事だけど、なにか問題が起きた時、しがらみを忘れて、何が大事なのか、何ができるのかを考えて、臨機応変に対応するのが、創造力であり、団結力であり、思いやり、なんじゃないだろうか。