モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「仮説」的学問の意義(「エビデンス」主義へのちょっとした反論)

Facebookである研究成果の記事を投稿したら、ある方からコメントをもらった。その返信に書いたことは、僕がここ数年考えていたことなので、ここにあらためて残すことにした。(発端となった具体的な記事も、その方のコメントもここには書いていないので、初めて読む方には背景がわかりくいと思うが、そこは許して欲しい)


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実は私も同じことが気になりました。■■■を、どう調べられるのだろうか、と。
ただ、心理学や医学など人間に関わる学問はその性質上、どうしても曖昧さは残るのは仕方ないのかな、とも思います。最近は機械学習なんかも元のデータが定性的だと同じかもしれません。
ある種の学問は、物理学から見ればすべて「仮説」レベルかもしれません。


私は心理学に詳しいのでもないですが、物理学から見れば、実験心理学は「ツッコミどころ満載」であるのはわかる気がします。私も一応、物理学系の教育を受けたので、他の学問の「エビデンス」がエビデンスになっていないことを、気持ち悪く感じることもよくあります。

なので、おそらく私は、ほとんどの面で■■さんに同感だと思うのですが、だから逆に、最近感じてきた、逆な(自省的な)面を少し書きます。

私はずっと「データの可視化」に興味があって、一時期仕事でも頑張って取り組んでいました。しかし、だんだんと、可視化の問題よりも、データの問題の方が気になり始めました。当然のことながらデータがなければ可視化できないわけですが、可視化を行なっていくうちに、可視化するために、とりあえず手に入るデータを使ったり、使いやすいデータを恣意的に選択したりといった、本末転倒的なことになってしまっている気がしたのです。

不十分なデータと知りながらそれを可視化するのは、「フェイク」とは言わないまでも、不誠実なことだと思いました。

しかし、「十分信頼できる」データだけで何かやろうと思っても、ほとんど何もできないこともわかってきました。「確実」と考えられるデータで「安全な」可視化をしても、面白くないだけでなく、世の中の本当に狭いことしか伝えられません。これもまた別な意味で「不誠実」です。

つまりは、世の中のほとんどのことは「データ」になっていないので、「エビデンス」を示すことが難しい。中でも、人間の内面的なことについては、人々の関心の強さとデータの弱さの乖離が、もっとも大きな分野かもしれません。


そういうことから、エビデンスにとらわれすぎて、今はまだつかみどころがない本質に目を向けないことも危険ではないか、という思いが強くなってきました。総合的な広い視野がなくなり、「たこつぼ」の中にさらに閉じこもるような気がして。なので、物理学のようなより厳密な学問から見れば「仮説」にすぎなくても、「仮説」を示すための学問もあっていいのではないか、と思っています。

とはいえ、それは程度の問題であって、思ったことをなんでも放言すればいい、とはまったく思っていません。最初に書いたように、あくまでも物理学の考え方をベースにしつつ、もし、今はそこから外れることだとしても、その可能性を否定もできないのであれば、どうやって厳密な学問にしていくか、という議論が進むための議論をしてほしい、と思っています。