モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

ちいさな「不正」を許す社会

Facebookで、ある研究者の方がこんな投稿をされていた。

日本の研究者は,学会参加費を科研費等で請求するにあたって,研究者は昼飯付きランチオンセッションの有無を調べその分を食糧費から差し引き,事務はこれが適正になされていることを三重くらいに確認し..という,時間経費が節約分を多分上回ることをやってます.会計検査院の過去の指摘のせいです.


この投稿には少々驚いた。研究者の世界では、学会の参加費から会議のランチ代を出すことが「不正」とみなされているのか。そのようなランチが不正だとすると、学会で出るお菓子やコーヒーはどうなる?記念品は?という疑問も湧いてくる。


そういった、不正の判断基準の厳格さや曖昧さは、関係者に混乱を招くだろう。しかし、僕がもっと違和感を持つのは、そのような「不正」がないことを、研究者や事務方が何重にもチェックしているという事実だ。コストの面で言えば、そのような確認作業にかかる、見えない人件費を総計すれば、ランチ代を払ってもお釣りが来るかもしれない。


いや、不正の排除はコストの問題ではなく、正義の問題なのだ。そういう意見は当然あるだろうし、それに反論するつもりはない。しかし、学会費でランチを食べるような「小さな不正」をチェックする時間があるのなら、研究や研究環境の改善に時間を使ったほうが、絶対に世の中のためになる、と納税者の一人である僕は思う。


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この話に関連して、ある体験を思い出した。オーストリアリンツの街に滞在した時のことだ。リンツ市内の重要な交通機関が、路面電車だ。主要な道路には一定間隔で路面電車の駅があり、人々は気軽に路面電車に乗り降りできる。初めてリンツを訪れた僕が驚いたのは、路面電車に乗る時、乗車券を見せたり、料金箱にお金を入れる必要がないことだった。


リンツ市の路面電車が無料というわけではない。ちゃんと決められた運賃があるし、路面電車に乗る人は、前もってお金を払って、乗車券を買うことが求められている。ただ、買ったことをチェックするしくみはなく、すべては乗客の良心に委ねられているのだ。


(正確に言うと、乗車券をチェックする仕組みがまったくないわけではないらしい。たまには駅員や乗務員が「きっぷを拝見します」とやってきて、もし、買っていなければ2倍だったか3倍だったか、罰金を取られるのだそうだ。僕は、そういう乗務員に出会うことはなかったが。)


チェックがなければ、当然「フリーライダー」が出てくる。しかし、地元の人はそれでいい、と考えているようだった。その理由を尋ねたら、お金のない人も路面電車に乗れるからね、という。お金がある人は乗車券を買えばいいし、ほとんどの人はちゃんと買っている。でも、市民の中にはお金がない人もいる。そういう人たちも路面電車に乗れた方がいい、お金ができたら払えばいい、というのだ。


それを聞いて、「乗車券をチェックしないしくみ」は、非公式な弱者救済システムになっているのだ、と理解できた。合法ではないが、市民が合意した助け合いのしくみであり、おそらく行政もある程度は目をつぶっているのだろう。この「タダ乗り」は、社会が遅れているが故の不正ではなく、弱い人を助けようという市民の意思の下で行われる、より進んだ社会だからこそ生まれた「不正」ではないだろうか。


つまり、ある種の「不正」は社会のセーフティネットとして機能する。もちろん、まったく「不正」が必要ない社会を作ることができれば、それに越したことはない。しかし、今、完全に理想的な社会が実現できていないのなら、ある種の「不正」を許容することは、道筋は違っていても、目指すべき理想社会に近づくことなのかもしれない。リンツ路面電車の場合、「タダ乗り」は弱者の救済であり、社会全体の互恵のしくみなのだ。


法は単なる約束事であり、必ずしも正義や善と同一ではない。法と正義を近づける努力は必要だが、不完全な法をすべて正義とみなすことは危険だ。そんなふうに言うこともできるだろう。


少なくとも、ある面では社会に正義や善をもたらすかもしれない「不正」をすべて敵視し、一方で、より大きな、本当の不正を見逃していないか、十分注意しなければならないのではないか。たとえるなら、小さな害虫にばかり目を向け、それだけを駆逐すれば、生態系全体のバランスが壊れて、結局人類が滅んでしまうようなものかもしれない。


そんな経験があって、僕は、小さな「不正」を許す社会を支持するようになった。もちろん、その背後には、許されるべき「不正」と、許してはならない不正を区別できるよう、市民ひとりひとりがしっかりと考え、見識を持つことが前提ではあるが。


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冒頭の、知人の研究者の投稿が、「小さな不正にとらわれて社会全体への善を損なってしまう」事例なのかどうかは、わからない。しかし、以前から持っている感覚的な意見を言うなら、この国では、大きな視野で見れば社会のためになるかもしれない、小さな「不正」をやみくもに排除する言動が良しとされ、その傾向がどんどん強まっているような気がしてならない。たとえば、最近の「自粛警察」もそのひとつだ。そういう狭い視野の考えがはびこることで、世の中の息苦しさをより強くし、自主性や創造性を萎えさせているように思えてならないのだ。