モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

僕が「オーディブル通勤」を始めたわけ

少し前、自転車を盗られた。

毎日、自宅からオフィスまで、約4kmの距離を自転車で通勤していた。その日は昼から雨になって、帰宅の頃になっても降り続けていたので、朝乗ってきた自転車をおいて電車で帰ることにした。翌朝、再び電車で仕事場に来てみると、昨日置いたままにしたはずの自転車はなかった。


どこかに置き忘れたのだろうか、と記憶をたどってみたが、そもそも前の日は昼からずっと雨だったので、自転車に乗るはずもない。昨日の朝、オフィスのビルの前においたのは間違いない。もしかしたら撤去されたのかな、と思って自転車をおいた場所の近くをみても、撤去したことを書いたものは何もない。これまで何度か不法駐輪した自転車を撤去されたことはあるが、撤去された時は必ず、どこそこで預かっているので取りに来なさい、という旨の通知がおかれていたが、今回は、そいうものはまったく見当たらない。


それでも念のため、JR駅前の交番にいって(不法駐輪なので恐る恐る)自転車が撤去されたのですが、とおまわりさんに聴いてみた。手前で何か書いていた女性の警察官がカウンターに出てきて、最近は新型コロナの影響で自転車の撤去はやってませんね、という。盗られたのなら盗難届けをだしてもらえますか、というから、そうします、と答えたら、届けるには防犯登録がいりますよ、という。


そうですか、では防犯登録の書類をもってもう一度来ます、と交番を出たものの、防犯登録の書類がどこにあるのか心当たりがない。自転車を買った時に防犯登録はしたはずだが、それ以来、防犯登録の書類は見たことがない。保証書と一緒にどこかに置いたはずだが、まったく記憶がない。


そうこうしているちに1週間ほどたってしまい、防犯登録の捜索と盗難届は挫折することになった。そこで今度は、この現状を自分に納得させるために自己説得にかかる。あの自転車はもうかなり長い間乗っていたよね、だから新しい自転車を買えばいいでしょ、ともうひとりの自分が誘惑してくる。しかし、ちょっと待て。そもそも電車通勤から自転車通勤に変えたのは、自分の健康のため(より正確に言うと減量のため)と、コスト削減が理由だった、ともうひとりの僕が考える。毎日往復で300円かかる電車代が、自転車なら、ただになる。一ヶ月20日仕事場に行くとすると、月に6,000円、1年で72,000円の「経費削減」だ。これなら、十分自転車の代金に見合う。


自転車にはもう数年乗っているから、十分元は取り返したとも言えるのだが、いったん削減した経費がまた増えるのには抵抗がある。こういう時は経営者の自分がしゃしゃり出てきて、むだな経費をかけるなよ、と脅しはじめる。とにかく、あたらしい自転車を買うのはなんだか釈然としない。もし新しい自転車を買ってから、盗られた自転車がでてきたらどうしようか。その時、どちらを売ったほうが得だろうか。そもそもどこに売ればいいのか。などという、楽観的だか悲観的だかわからない、無用な心配が生まれてくる。


そこで、しばらく、歩いて通うことにした。


片道約4kmの道のりは徒歩で1時間弱。少し早く歩くと50分強。歩き始めた当初は、自転車と同じルートを通っていたが、徒歩ならもっと入り組んだ細い道や階段を通ってもいいのだ、と気がついてからは、多少距離は長くなるが、見知らぬ住宅街の中にある小さな居酒屋や安いパン屋、昭和時代の古い看板や朝の風俗街など、これまで見えなかったものを見つけられて、けっこう楽しくなってきた(ちなみに、朝の風俗街は意外に開いている店が多い。ようやく店じまいの時間なのか、夜勤明けのお客さんのためなのかはわからないが、店の前でやれやれという表情でタバコを吸う店員や、見た目にはまったく普通のかっこうで店に出入りする若い女性がいたりして、朝の風俗街は徒歩ルートの中でも、もっとも変化に飛んだメインスポットになっている)。


しばらくはそうして、徒歩で「観光」を楽しんでいたが、通る道も限られるので、だんだんと発見も少なくなって、飽きてくる。それに、徒歩は、自転車と違ってスピードも遅いので、歩くことにそれほど神経を使わなくていい。普通の運動神経があれば、ほぼ自動的に歩くことができる。大脳は暇なのだ。毎朝、毎夕の小一時間という貴重な時間を、何もせずに過ごすのはもったいない。毎日、起きて活動している時間が16時間だとすると、その8分の1の時間を、単調な徒歩に費やしていいのか、というおせっかいな計算が働く。この時間を無駄にすることなく、有効活用しなければいけないのではないか!という、凡人の生真面目さが叫びだすのだ。


そこで思い出したのが、1年前くらいから契約している、Amazonoのオーディブルという、オーディオ・ブック、つまり、本の朗読コンテンツだった。スマートフォンで朗読を聴きながら歩く。毎朝、毎夕の2時間弱の時間を、オーディブル聴講が、「健康で文化的な、最高な生活」に変えてくれる。なんと素敵なアイデアだろう!


当初は、一般の書籍の朗読を聴いていたが、実際歩きながら聴いてみると、書籍の朗読はなかなか頭に入ってこない。書籍の言葉はやや硬く、難しい言葉もあるので、聴いただけでは意味が取れないことが多くあって、そこで理解がとまってしまう。あるいは、横を車が通るとその騒音で声が一瞬遮られて、意味がわからなくなる。一度理解が途切れると、何をいったのだろうと考えているうちに、言葉は次へ行ってしまって、置いてけぼりなってしまう。書籍の言葉は正確だが無駄がないから、聴く側も流れるように吸収しないと理解ができないのだ。書き言葉は聴くものではなく、読むのが正しい、ということが体験としてわかった。これも発見といえば発見だ。


耳で聴くのに書籍より他にもっといいものが無いだろうかと考えて、見つけたのが、対談や講演を録音したコンテンツだ。オーディブルではそういうのも販売している。当然のことながら、話し言葉は聴きやすい。話し言葉は聴くために生まれたのだ。しかも、対談や講演の長さはたいてい1時間くらいなので、歩いて小一時間の通勤にぴったりだ。


こうして、毎朝、毎夕の「オーディブル通勤」が始まることになったのだが、実際にやってみると、これがなかなかいい。文学や歴史といった人文学から、最新のテクノロジーや先端科学まで、さまざまな分野の研究者の対談や、すでに故人となった文化人の講演を聴いていると、少し大げさにいうと、時空を超えて人類の最高の叡智に触れているような気がしてくる。月並みな言葉だが、感動する。毎日、そうだったのか!と思うことばかりなのだ。この歳になっても、あたらしい知に触れるのは、とても興奮することなのだ。


話の内容だけでなく、伝え方の上手さに感心したり、話し手のユーモアに思わず笑ったり(毎日歩きながらニヤニヤしているので、怪しい人に思われていないか心配ではある)、あるいは、講演が行われた頃の時代を懐かしく感じることもある(文芸講演のコンテンツは1980年代から2000年代まででのものが多いので、話の内容や話し方から、その頃の社会の空気も伝わってくる)。


とにかく、対談や講演の内容は、いずれも、これを自分一人で聴くなんて罪深いことだ、絶対に他の人に伝えなければいけない、と思うくらいに面白い。そのため、書きたいことが多すぎて、とてもここには書ききれないので、機会をあらためて書くことにしたい。つまり、この文章は、これから書く、対談・講演覚書の「枕」であり、予告編なのである。


というわけで、<次へ続く>。