モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

科学の不定性を認識することは、「信仰」から脱却することだ

以前、JSTサイエンスニュースの「科学と裁判」でインタビューさせてもらった、東北大学の本堂毅さんのグループが新しい本を出版されるという。「科学の不定性と社会 ― 現代の科学リテラシー 」という本だ。

www.shinzansha.co.jp


本の内容は、Amazonの商品説明にある「~~~「科学」を過信せず、しかし科学を活かす社会とは?~~~」という言葉が端的に示しているように、本堂さんがずっと主張してこられた、「科学は何でも解決できる」「科学には唯一の答しかない」というのは誤解であり、科学は本来不定なものである、ということを指摘するもののようだ。そして、その「不定性」の中で意思決定を行うにはどんな姿勢が必要なのか、ということを、具体的な事例をみながら解説している。

とても楽しみな本だ。

なぜなら、物理学者であり、長らく科学教育に携わってきた本堂さんの視点は、「科学(技術)と社会はどんどん密接につながっているのに、逆に、科学は、人々の営む社会からは見えにくくなって、どんどんブラックボックス化しているのではないか?」、という僕の問題意識をと深くつながっているように思うからだ。


さらに言えば、「多様な不定性と意思決定」という視点は、本来、科学のものだけではなく、技術(テクノロジー)や、さらに、政治・経済、人文系の学問などあらゆる「知」に共通するものではないかと思う。

逆に、そういう視点が欠けたものは、知とは呼べない、単なる「信仰」ではないだろうか。もし日々の暮らしで遭遇する「ブラックボックス」が気にならなくなったら、すでに信仰に陥っているということ。「信仰」は「思考停止」と同義である。


人類の進化の程度を測る指標は、どれだけ遠くのこと、先のことを考えられるか、すなわち、どれだけ時空を越えた思考ができるかである、というのが僕の仮説だ。

その指標に従えば、自分の周りのことだけを考え、目先のことに翻弄される現代人は、数十年前の人類よりも進化しているとは思えないし、むしろ退化しているかもしれない。


本堂さんの本が、あらゆるものは不確実であることを知り、だからこそ、「信仰」に走りがちな心を意識して、自分の頭で考えなければいけないのだ、ということを再認識するきっかけになればと思う。