モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

勝手に貧しくなっていく日本

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10年前、大手建築設計会社に務める友人にこんな話を聞いた。その友人は、手がけていたマンションのCG制作を中国のCG会社に発注した。ところが、できあがってきたCGを見るとどうも違和感がある。たとえば、中庭にあるはずのテニスコートがテニスコートに見えない。コートらしき場所の上にプレーヤーらしき人たちはいるが、どうもテニスをやっているように見えないのだ。そこで彼は、そのCGを作ったクリエーターになぜこうなったのかを聞いてみた。すると、そのクリエーターは決まり悪そうに、実はテニスを見たことがないんだ、と告白したのだそうだ。

その時、友人は、文化レベルに関わるものは、制作コストの安さだけじゃなくて、ある程度豊かなくらしをしている人に作ってもらわないとだめだよな、と言った。


そんな笑い話から10年たった今、中国人と仕事をして同じような経験をすることはほとんどなくなったと思う。それどころか、中国は今や、アジアの映画産業の中心は自分たちだと自負するまでになり、センスのいい映像を世界に発信している(日本の映像関係者は認めないかもしれないが)。


コンテンツ業界でそういう変化を見聞きしながら僕が実感するのは、(国の間の文化の違いがあることは前提とした上で)海外と日本の間で、CGや映像の制作技術の差はもちろんのこと、その背景にある作り手の「豊かさ」の差もどんどん縮まっている、ということだ。いや、すでに追い抜かれているかもしれない。(実は「しれない」という表現は、日本人としてそれを認めたくない気持ちの現れであって、本音ではすでに「追い抜かれている」と思っている)


これは、コンテンツ業界だけのこととも思えない。


上の記事からも読み取れるように、過去、日本の経済的繁栄を支えてきたのは日本人の勤勉さだ。勤勉さとは、真面目さと長時間労働の掛け算だと思う。つまり、人の資質と努力に頼ってきたのだ。

真面目さも労働時間も、当然限界があるわけで、ある豊かさから、さらに上に行くためには、社会全体の「構造転換」が必要になる。仕事の流れや流通のしくみといった経済構造の中から無駄を省き、それによって余ったリソースをまだ生産性が低い仕事の改善や新しい分野の開拓にむけることが、未来の豊かさの種になるのだ。


ところが、1980年代の終わりから1990年代初めに日本の経済が栄華を極めた後、長期間にわたる経済の凋落が続く中でも日本は、今までの大企業中心の(政治力を含む)「人力」に頼るしくみを大きく変えることはなかった。未来の豊かさに向けて新しい芽を育てることを怠ってきたのだ。その結果、現代の社会を支えている重要な分野ーたとえばコンピュータ・AI、携帯電話、自然エネルギーなどーも、日本は技術開発で先行していたにも関わらず、「社会実装」=すなわち、人々の豊かさに直結する最終フェーズで、その多くは撤退するか、遅れを取ってきた。コンピュータもスマートフォンもその他の新しい製品も、今や日本は海外製品のユーザーになってしまった。このことは、日本がすでに下請けになっていることの現れだ。


そして、まだ日本がかろうじて世界最先端にいると思われている分野—ロボット、材料開発などーも存在感はどんどんなくなっている。これは僕の憶測ではなく、その分野にいる専門家に聞いたことだから、そんなに間違っていないと思う。


こういう状況でも、日本はこの先も大丈夫、日本はまだ経済大国だ、と言える根拠がどこにあるのか、僕にはまったくわからない。



そして、もうひとつ「豊かさ」について考えなければいけないのは、豊かさは相対的なものだということだ。たとえば、1000年前の人々と比べれば現代人のほとんどは相対的に豊かなはずなのに、人々は今現在でも「俺は豊かだ」「私は貧しい」と感じてしまう。卑近な例で言えば、自分の年収は変わらなくても、隣の人の年収が増えれば、貧しく感じるのと同じことだ。


この記事でも「『相対的に日本だけがどんどん貧しくなっていっている』ように映っている」と表現しているように、貧富は相対的である。さらに言えば、経済というもの自体がある意味「相対的」なものだと思う。先進国だけでなく、アジアやその他の新興国の伸びよりも、日本の伸びが小さければ、それは「日本は貧しくなった」と実感されるだろう。さまざまな経済指標がある中で、どれを見るかで「豊かさ」は変わる。「貧富」は「幸福度」と同じく、最終的には人々の実感で測るしかない、と僕は思う。その意味で、日々豊かになっている、と感じる日本人はいったいどれくらいいるだろう?


「相対的に貧しくなっていく日本」について、僕が実感するのはそんなことだ。僕は経済の専門家ではない。けれども、古い下町で、小さな会社を経営者する身として、様々な属性の人たちと会っている方だと思う。そういう日々の体験からくる、危機感、といっていいかもしれない。


ただ、付け加えたいのは、日本がこれから海外の下請けになることは、そんなに悪いことではないとも思っている。なぜなら、海外の下請けになることによって、自分たちがおかれている環境を、より広い視野で客観的に実感できるし、たとえ下請けであれ、中小企業の多くが直接海外と取引するようになれば、意識は確実に変わると思うからだ。それは本当の意味での日本の「開国」につながるかもしれない。

そうなれば、制度疲労を起こしてもなお、ごまかしながら維持し続けている古い仕組みを破壊し、一部の人たちだけの豊かさが、国民全体の豊かさに変わっていく時代が来ると期待できる。


なお、僕は現存する社会の仕組みをすべて破壊しろ、とアナーキーなことを言っているのではない。人々の意識が変わり、真の「開国」が実現できれば、まずいものは自然に崩壊するし、逆に、良いものは海外に出ていくチャンスも増えるはずだ。そのような全体最適化が行われると期待しているのだ。

今行われようとしている、政府が旧来の利権と癒着し、恣意的に行う「自由化」は、真の開国ではないし、ほんものの豊かさにつながることではないと思う。トップダウン、すなわち政府主導の豊かさ改革ではなく、ボトムアップ、すなわち国民から自発的に産まれる動きを社会全体に広げる改革を一国もはやく実現しなければならない、と思っている。


最後に、僕が思う、もっとも恐ろしいシナリオは、将来、日本の豊かさが改善されない一方で、海外から日本へ下請けの仕事さえ来なくなり、日本が世界から孤立してしまうことだ。その状態は、庶民が「豊かか貧しいか」と評価することさえできない、まるで太古へ逆戻りしたような閉ざされた社会だ。そんな未来だけは避けたい、と強く思っている。