モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

言葉は思考を支配する

Facebookのあるグループでこんな投稿があった(個人名は伏せている)。

確かに、○○さんの言うように、セクハラよりはセクシャル・ハラスメントさらに言えば「性的嫌がらせ」という日本語を使った方が軽く流されず問題意識が高まるように思いますね。


なるほど、たしかにそうだなと思った。もともと言葉とは、あるものごとが先にあって、それを人々の間で共有するために、あるいは未来の人のために記録するために作られたもののはず。すなわち、先に言葉があって、言葉にあわせて「モノやコト」が作られるのではない。そんなことは当たり前だと、誰もがわかっている。


しかし、実際には、あるモノゴトにどんな言葉をつけるかで、そのモノゴトの印象はかなり変る。そして、言葉が与える印象が、そのモノゴトの本質にまで影響する。たとえば、「性的嫌がらせ」と呼ぶか、「セクシャル・ハラスメント」と呼ぶか、あるいは「セクハラ」と呼ぶかで、もともとはひとつの、具体的な出来事に対するイメージや深刻さが変わるのではないだろうか。同じ様に、「パワハラ」という言葉では軽く流されてしまう出来事も、「優越的な立場を利用したいじめ」と表現すれば、簡単には見過ごせなくなるかもしれない。


言葉が思考を変える、という恐ろしさから思い出したのは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」だ。「真理省」で働く主人公、ウィンストン・スミスの仕事は、世の中のあらゆる記録を、「ビッグブラザー」による支配に都合がいいように改ざんすることだ。不都合な言葉は記録から抹消され、同時に歴史的事実も消え去る。あるいは、異なる事実が作られる。真理省の上司は、「ある思考を無くすには、ただ、それを表現する言葉をなくせばいい」という。「1984」を読んで、なるほどそのとおりかもしれない、と思い、同時にもっとも恐ろしく感じたのがこの言葉である。


言葉は時代とともに変わっていく、という。それは単に偶然の産物ではなく、その時代やある思想の影響を受けて、言葉はそれらを反映する。そして、言葉を作り、人々が共有することで、その時代の「思考」や「空気」が、確立されていったのではないだろうか。

逆に言えば、言葉を支配すれば、「思考」や「空気」をコントロールすることができる。これは本当に恐ろしいことだ。


「わかりやすい」とか「力強い」という表面的なことだけで、安易なキャッチフレーズや耳障りのいい言葉に流されてはいけない。その言葉が意味すること、想起させることを客観的にとらえ、その言葉を使うことで、捻じ曲げられたものや失われたもの、隠されたものがないかを、常に考えることが必要ではないだろうか。とりわけ、広告代理店が政治に入り込み、SNSではフェイクニュースが大量に流れている「印象操作の時代」には、私たち市民は、ひとつの言葉を選ぶ時は、逆に避ける時も、もっと慎重になるべきかもしれない。。

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クレーマーからの脱却

以前、ダグラス・ラシュコフと彼の著書"Life Inc."のことを書いた。彼はこの社会と人々の人生が、いかに「企業」に支配されているかを説き、「脱企業の社会」を訴えた。


ラシュコフが"life Inc."を世に出してから12年が経つ。彼の主張の通り、世の中は変わってきたのだろうか。人々は、人間性を奪う「企業主義」から逃れ、個人や地域での生活を見直し、生き方を変えたのだろうか。

残念ながら、僕にはそう思えない。確かに、環境問題や経済格差、人種差別など世の中の問題が表に出ることは、以前に比べて多くなった。しかし、それらの問題を正面から捉え、あたらしい考え方のもとに行動を起こした人々は、少数にとどまるのではないか。見かけ上の景気回復によって、雇用率やGDPといった数値は改善したかもしれないが、それは人々を開放したのではなく、さらに「企業主義」を強める結果になったのではないだろうか。


世の中にはびこる「クレーマー」の数は、社会の息苦しさを反映するバロメーターだと思う。息苦しさは、クレーマーが訴える問題にあるのではない。彼らが自分に不快なことを問題だと思う、その心自体が問題なのだ。クレーマーは、自分が感じる息苦しさを他者に転嫁することで、なんとか自分の人生を意味あるものに思おうとしている。本当の問題を直視し、それに対して行動を起こす代わりに。その多くは、いじめやパワハラと通ずる、汚い心の表れだ。

誤解がないように付け加えたいのは、自分のためではなく、世の中をよくしようという抗議であれば、クレーマーと呼ばれることはない、ということだ。もしあなたが直接行動を起こさないとしても、クレーマーと改革者を区別できる見識を持つ努力はしなければならない。


沈みゆく船の上で、他人よりいい場所を奪い合っても仕方がない。遅かれ早かれ、死は訪れる。死を避けるためには、船が沈まないようにみんなで力をあわせて修理をするか、一刻も早く別の船に乗り移る、という大きな決断が必要だ。そのためには「自分が死なないためには」という小さな視点を、「誰もが死なないようにするためには」という思想に変えなければならない。そこから、より強く、大きな解決策が生まれるはずだ。


monoomoi.hatenablog.jp

「えんとつ町のプペル」と自由通貨

えんとつ町のプペル」を観た。

 

クリテイテイブとファンタジーの面では、間違いなく第一級の映画だ。それ故にそれほど話題になってないことに違和感があるわけだが、そのことは置いておくとして、そんな映画作品としての素晴らしさとは別に気になったのが、映画に出てくる「通貨L」。これが何なのかはネタバレになるから詳しくは書かないが、とにかく、素晴らしいクリテイテイブ性やファンタジーあふれるストーリーの中で、この「通貨L」が心に引っかかった。そんなところに注目するのは少し偏った見方かもな、とも思った。しかし、映画の後、ネットを見ると、僕と同じような人は結構いるようだ。そして、原作者の西野氏のブログを読むと、彼自身「通貨L」は、この物語の中でけっこう重要なものと考えているらしいことがわかった。

「通貨L」の出典は、シルビオ・ゲゼルが提唱した自由通貨らしい。時間とともに価値が減る通貨。完全に直感でしかないが、今、見直す価値がある考えかもしれない。そんな気がするのである。

「資本論」は今こそ読むべき本

昨年から「資本論」の解説本をいくつか読んでいます。「資本論」って、仕事という人間の行為を通して、資本主義の中で失われていく人間性を取り戻すにはどうすればいいのかを教えてくれる本だったのだ、とわかりました。読みすすめるほど、腑に落ちることばかり。間違いなく、今、この時代に読むべき本です。

なぜ、やりがいや充実感のない仕事がはびこって、社会にとって大事な仕事をしている人たちが長時間、低賃金で働いているのか。それはマルクスの時代から変わらない(資本主義社会の)事実であり、問題なんですね。マルクスの分析は、今でも通用する、どころか、今こそ頼るべき人類の知の結晶だと思いました(それはある意味、人類が進歩していないという、情けないことでもありますが)。

精神的労働と肉体的労働が一致するのが望ましい仕事であり、それを「分業」が妨げている、という指摘も納得します。

他にも、「そうだったのか」と思うことばかり。

これまで漠然と感じていたこと、考えていたことに、大きな筋道をもらった気がします。

生存者バイアス(今、無いものを見ろ)

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上のイラストは、第二次世界対戦中、ナチスドイツの対空射撃を受けた連合国軍の航空機上の弾痕跡を示したものだ。

このデータをもとに、軍は最初、弾痕による損傷の多い部位を優先して強化しようとした。

ハンガリー生まれのユダヤ人数学者、アブラハム・ウォルドは、これに異を唱えた。彼は「これは、帰還できた航空機が受けた損傷跡です」と指摘した。「強化すべきは、弾痕跡の無い部位です。なぜなら、そこに弾を受けた航空機は、戻って来られなかったのですから」。


これは「生存者バイアス(Survivorship bias)」と呼ばれる錯誤である。人は、生き残ったものに注目してしまう。しかし、本当に注目すべきは、生き残ることができなかったものなのだ。



出典:Facebook Post of Michael Rose, University of California
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物足りなくなる未来と人間の素朴な美しさ

たとえば、美術館で、まだコンピュータがない時代の手書きのデザイン画を見ると、たとえそれが人間の素晴らしい才能によって創られたものであっても、何か古めかしさを感じてしまう。そこには、当時の道具や、人間そのものの制約があるからだ。


同じように、今、素晴らしいと感じている音楽や舞台のライブパフォーマンスも、近い将来、まったく物足りなく思うのかもしれない。未来の僕は、昔はこれで満足してたんだな、と言っているのだろうか。

 

‥‥と書きつつ、人間は人間のすることに一番関心があるわけで。才能ある人が出会った時に生まれるものは、それが素朴であるほど、眩しく感じるのもまた真実。
—-“Here comes the sun. I say it’s all right