モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

会下山公園を淀川長治さんが紹介したら

今日、ご紹介するのは、会下山公園という公園なんですね。この公園、1903年に作られました。1903年というと明治36年ですね。すごく古い、古い公園なんですね。実は、あの平家物語にも「会下山」という名前、出てくるんですね。私、それを知って、たいへん驚きました。


まあ、それなのに、この「会下山」、神戸でも、なんと読むのか知らない人が多いんですねー。「えげやま」って読むんですね。実は私も、昨日まで知らなかったんです。ちょっと恥ずかしいですね。でも、今はわかるんですよ。それはそうですねー。知っているから、紹介しているんですねー。


この会下山公園、すごく広くて、素敵な公園なのに、まあ、なんと、あんまり人がいないんですねー。もったいないですねー。だから、行ってみると、男子高校生が我が物顔でバスケットボールとかしてるんですねー。私、正直言って、ちょっと邪魔だな、と思いました。でもこの男子、タバコを吸ったり、繁華街をぶらついたり、家にこもってゲームしてるより、はるかにはるかにいいですね。こういう高校生が将来公園ファンになって、公園を盛り上げてくれるといいですね。


みなさんも、この会下山公園、ぜひ行ってみてくださいね。それぞれの人が、私はここがいい、僕はここが気に入った、という発見が、必ずあると思います。私も、ぜひまた行ってみようと思います。


毎日歩いていると、いろいろな発見があるんですね。ほんと、歩くって、いいですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。


(映画の伝道師、淀川長治さんに敬意を込めて)

追記 この投稿をした翌日、小松政夫さんの訃報に驚いた。小松さんの淀川長治に比べると、まつつくつたないパロディですが許してください。小松さんへの感謝を込めて、この投稿を小松さんに捧げます。

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「途中のもの」に目をむける

徒歩通勤になってからの変化は色々あるけれど、その中でも、多くのことに関係する、少しおおげさにいうと「生き方が変わった」といえるもののひとつは、「途中」に目を向けるようになったことだと思う。


以前は、移動は、僕にとって、目的地に行くための手段でしかなかった。すなわち、移動時間は無駄な時間で、短ければ短いほどいい、と思っていた。


しかし、歩くことが「デフォルト」になると、当然のことながら、移動に時間がかかるようになる。時間がかかるようになると、不思議なもので、移動の時間を楽しまなければ損した気分になってくるのだ。徒歩というのは、生後1年に満たないころから行っている、人間にとっての基本動作である。人間を人間足らしめているのは、二足歩行だ、という見解も聞いたことがある。それはすなわち、歩行は人間にとってとても自然な行為であって、歩行にはほぼ「自動運転」モードで対応できるということだ。大脳はほとんど使われず、手持ち無沙汰、というか、「考え無沙汰」なのである。加えて、心理面の変化として、どうせ時間がかかるんだったら、少しくらい遅くなっても一緒だろい、という思考になってくる。途中で足を止めて寄り道するのに躊躇しなくなる。


そういうわけで、歩いている途中は、自然と周りに目を向けるようになった。そうすると、今まで見えていたのに見ていなかったものに気づく。歩いて行ける距離にこんなに新しい風景があったのか、という発見は、なかなか興奮するものだ。新しい発見を期待してさらに歩き、さらに多くのものに出会うようになる。


「途中のものに目をむける」という行為はけっして無駄なことではなく、とても重要な行為なのだ、と今日も歩きながら考えている。



(写真は、徒歩の途中で出会った、素敵な風景たち。)

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木星と土星

今月の後半、クリスマス近辺に、木星土星が、夕方の西空に並んで見えるそうだ。その見かけの距離は月の直径の5分の1まで近づくというから、肉眼だと「超明るい二重星」のように見えるはずだ。

これだけ近づくのは「1226年3月4日の夜明け前以来」(CNN.co.jp)という。これは本当に希少な体験だ。


僕は小学生の頃、天文少年だった。隣町の天文科学館に足繁く通い、「天文ガイド」と「天文年鑑」と「子供の科学」の天文コーナーを、ページがしわくちゃになるくらいに読んだ。天体写真家、藤井旭さんの「星空の四季」という写真集が大好きで、何度読んだ(というか眺めた)かわからないほど読んだ(というか眺めた)。


小学校3年の時、天体望遠鏡を買ってほしい、と親に要望した。しかしその願いは受け入れられず、それなら自分でなんとかしてやる!と決意し、家にあった虫眼鏡をお茶の缶にとりつけて自作の天体望遠鏡を作った。光軸もぶれぶれ、レンズの色収差もひどくて、金星がなんとなく三日月形に見えるかな?程度の「望遠鏡的なもの」でしかなかった。率直に言って、この工作は技術的には失敗だったが、「僕は天体観測を本気でやりたいんです」というアピール力にあふれていたという点では大成功で、その翌年、小学校4年生の時に、ついに天体望遠鏡を買ってもらえたのだった。


初めての天体望遠鏡をまず向けたのは月。その次が、木星土星だったと思う。実際、小さな天体望遠鏡で天体っぽく見えるのはこの3つしかなくて、ほとんどの天文少年は同じ道をたどるのではないだろうか。藤井旭さんの写真集では美しく見える他の惑星や星雲や星団も、小さな望遠鏡では、ほとんど何も見えないのだ。だが、逆に、月と木星土星は何度見たかわからない。コンディションのいい夜に、木星土星の縞模様がおぼろげに見えたりする(気がする)と、もう大興奮だった。


その頃、木星土星の観測に絶好の季節は、秋から冬だった。虫の声がきこえる秋の庭、茜色から真っ黒に変わる夜空に、王者のようにひときわ明るく輝いていた木星。空気が透明な、芯から冷える冬の夜、近くの公園で観た土星。とおりすがりの仕事帰りの大人に「ちょっと望遠鏡見せて」と声をかけられて、見せてあげたら、思ったより大したことないな、と言われてショックを受けた。僕は、この望遠鏡で見えるのはこの程度なんですよ、と表向きは目上の人に丁寧に受け答えしながら、内心では、これだけ見えるだけでもすごいんだ。この大人はわかってないな、と憤慨した。



あれから数十年がたち、今は、夜空を見上げることもほとんどなくなった。それでも、木星土星の接近のニュースに、なにか心躍るものを感じるのは、今でも、木星土星は「別格」だと思っているからなのだろう。当時、たまに弟と将棋をやっていたからか、木星土星は「惑星界の飛車と角」というイメージがあって、それはいまでも変わらない。


この年末は、寒さを我慢して、久しぶりに夜の空を見てみよう。

ケムール人のO君

大学時代、同級生のO君は、「わたしゃ(と自分のことを呼んでいた)、夜な夜な、ケムール人の真似して夜道を歩いてんだ。道行く人がみんな、怪訝そうな顔するのが面白いんだ」とつぶやいた。

 

僕たちは「アホなことすんな」と言った。しかし、O君の奇行は、何か世の中に足らないものを補ってくれていたのかもしれない。僕たちは、O君を揶揄いつつ、そんな気がしていた。

 

もしかしたら、あの時のO君は、バランスを崩した地球に潜り込んだ、本物のケムール人だったのかもしれません(←石坂浩二の声で)。

 

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青臭い理想がなければ、生きるのは面白くない

2020年11月27日の毎日新聞に、こんな記事が載りました。(正確に言うと、読んだのは、毎日新聞の元記事を引用した、Livedoor NEWSの記事です)

京都大(京都市左京区)で27日、シンボルの百周年時計台記念館に学生らが登って垂れ幕を出すなどし、制止する職員らとトラブルになった。京都府警の機動隊が大学構内に入って警戒に当たり、周辺は一時騒然となった。けが人や検挙者はなかった。

 京大では、学生寮の一つ「熊野寮」の祭りで、学生らが時計台に登ることが恒例になっている。これに対し、京大側は「危険な企画」「建造物侵入として刑法に抵触する行為」とし、時計台に登ろうとすれば「警察に通報するなどの法的措置を含め、厳正に対処する」と25日に告示を出していた。

 学生らが27日昼、時計台に、はしごをかけると、もみ合いが発生。機動隊員らが現れ、正門から学内に入った。学生らは時計台の上でマイクを握り、周辺ではビラを配布。大学側の「対話拒否の姿勢」を批判するなどした。

 府警は毎日新聞の取材に「通報があり、危険防止のため学内に入った。警備態勢の詳細は明かせない」と説明した。【中島怜子、千葉紀和】


この記事を読んで、なんだかすごく嫌な気持ちになりました。そして、Facebook

「機動隊が出てくるようなことじゃないでしょ。立て看撤去といい、ほんと、つまらない世の中になったわ。」

反射的にに投稿しました。


そうしたら、ある方が、次のようなコメントをつけてくれました。仕事で少し面識のある(それ故、Facebookでも「ともだち」である)、著名な方。そして京都大学の大先輩です。

○○ 禁止することを禁止する!!! 熊野寮の恒例のお祭りですよ。何故、今更、禁止するん!?! しかも、易易とおまわりさん、それも機動隊さんを、学内に入れるの!?!


それをきっかけに、Facebook上で次のようなやりとりをしました。

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○○さん、熊野寮のお祭り、なんですね。それは知らなかったですが、そういう「お祭り」的な雰囲気って、創造力の源泉だと思います。それが、想像力のない人たちによって「排除」され、萎縮してしまうのではないかと歯がゆいです。こんな時、たとえば森毅さんがいたら、京大の自由の気風を、ユーモアと皮肉をこめて表現してくれたんじゃないか、と思いました。

〇〇 おっしゃる通りです。熊野寮一期生で、森一刀斎先生に統計学の単位を、有名な問題だけに答えて戴いた学生としては、愕然といたします。森先生の有名な問題とは、「ブラインド・デートした時に美人に当たる確率について論ぜよ」というもので、他の「ちゃんとした」問題に答えられなくても、この問題だけに、どのように答えても、単位をいただけるというものでした。この問題だけに答えて、他の「ちゃんとした」問題は凡庸な問題でつまらんので答えず、優を貰ったやつが居るという伝説の問題でした。今だったら、それこそ、女子学生やLGBTQの方々に吊るし上げられますので、森先生のことですから「美人に」のところを「美男美女に」と改定されてらっしゃると思いますけどね(^^;


○○さん、熊野寮一期生とはすごい!私にとってはレジェンドです(笑)!
森毅さんは、私もぎりぎり重なっている世代で、公式非公式の講演を何度か聴きましたし、2回生の時、数学の講義も取りました。試験問題は、村上さんの時ほどとんがっていないと思いますが、確か「彼女(彼氏)に変分法とは何かを説明せよ」みたいな問題だったと思います。一応、単位くれました(笑);。
熊野寮のお祭りにしても、森さんの試験問題にしても、今の時代はそういうのを見て「けしからん」という輩がたくさんいそうですが、「そんなことを言うやつの方がけしからん」という感覚を無くさないようにしたいと思ってます。村上さんの投稿で勇気づけられました(ˆˆ);。

〇〇 1965年4月、熊野寮は完成しておらず、1ヶ月ほど銀閣寺のそばの高校の先輩の下宿に転がり込んでおりました。完成したと言ってもA棟と食堂と厨房と事務室だけでした。B棟、C棟がその1年後くらいに完成したような気がします。その顛末は、京大広報誌「紅萌」の34号に寄稿してありますので、ご一読下さい。 https://www.kyoto-u.ac.jp/.../kur.../documents/kurenai34.pdf


〇〇さんの寄稿、面白くて、なにかジーンときました。「壁に穴」「寮費値上げ反対決議」「不夜城京大熊野寮」「極左暴力学生」(笑)。。。頷いて、大笑いして、そういう時代を少し羨ましく思いました。


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〇〇さん(上の文章を注意深く読めばだれだかわかりますが)とのやり取りで、忘れていた大学時代のことが蘇ってきました。時間が無限にあると思っていたあの頃、人間は自由な存在で、一人ひとりが能力を磨き、発揮すれば、世の中はよくなる、と漠然と思っていました。「世の中」というのが何なのか、深く考えることなく。

その頃の思いは、今も変わらないと思います。ただ、「現実」というものに限界を感じながら、それでも、束縛があるからこそ、自由でありたいという気持ちを無くさないようにしたい、という思い。それは、青臭い、理想論かもしれません。でも、青臭い理想をなくしたら、生きていくのは面白くない。そう思うんですよね。

そんなことを思い出させてくれた、○○先輩に、感謝です。さすが、熊野寮一期生!