モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

あらゆるものごとは重層的である:「初夏の対談」遠藤周作

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「私は講演があまり上手ではありません」 つぶやくように話し始める、遠藤周作氏。登壇者とは思えない話しぶりは、謙遜というより「やる気の無さ」を感じてしまう。しかし、この「やる気の無さ感」は、人間のさまざまな面を見てきた小説家の巧妙な演出であり、この講演のテーマそのものなのだ。


ある目的で(その目的ときっかけは講演の中で語られている)、遠藤氏は、かつて富士山の麓にあるハンセン氏病棟を訪ねたことがあった。そこで20年働くベテラン看護師の案内で病棟の中を歩いていると、廊下の突き当りを一人の年取った男の人が歩いて横切った。入所しているハンセン氏病患者らしい。看護師さんはその老人に声を書け、彼の曲がった手を取って、「この手で包帯巻きを手伝ってくれるんです」と言いながら、その手を優しくなでた。この看護師さんは優しい人だ、と遠藤氏はとっさに思う。しかし、その老人の顔をみた遠藤氏は、そこに、看護師さんが気づいていない、苦痛の表情を読み取った。それは、外から来た見知らぬ男の前で、自分の弱い姿を見せなければならない苦しさだったのだろう、と遠藤氏はいう。


この出来事は遠藤氏に、あらゆるものごとはひとつの面だけでは評価できない、ということを気づかせる。看護師さんの行為は、愛に満ち溢れたすばらしいものだ。しかし、それが、本人が気づくことなく、相手に苦痛を与えていることもあるのだ。すばらしい愛情の中にも、相手の苦痛に気づかないような面がある。その理由はわからない。虚栄心や自己満足から出てくるのかもしれないが、それはわからない。ただ、人の顔はひとつではない。内面があり、外面があり、それらが何十にも重なったものが一人の人間の顔だ。遠藤氏は、そういうことに気がついた。



遠藤氏は子供の頃「後熟児」だっという。これは遠藤氏の造語で、「早熟児」の反対の意味だ。学校の勉強はできなかった。「早い」の反対は、と聞かれて「いやは」と答えるような子供だったそうだ。特に算数が苦手で、テストはいつも白紙で出していたという。それをみた秀才の兄が、白紙はいけない、何かかくように、というので、色々と考えて、次の試験では、問題の答に、「そうである」「まったくそうである」「僕もそう思う」と書いて出したそうだ。そして先生に殴られた。


そんな笑い話の後、遠藤氏は、もし今、自分が先生で、そんな答案を出した子がいたら、すくなくとも5点はやる、という。そういう解答を思いつくのも、ひとつの才能だろう、と。自分はその才能のおかげで、小説家になれたのだ。先生が殴ったのは、ものごとをひとつの面で考えるからにすぎない。すべてのプラスにはマイナスがあるし、どんなマイナスにもプラスがあるはずだ。それを引き出すのが親や教師の役目だ、と遠藤氏はいう。


こんなエピソードも語る。ある時、息子が口下手で、まわりの人と仲良くなれずに困っている、という母親が相談に来た。以前なら、おもしろい話をいくつか覚えてそれを話せばいい、というようなアドバイスをしただろう。しかし、ものごとには多面性がある、ということを悟った遠藤氏は、こうアドバイスしたという。口下手とうことは、聴くのは上手だということでしょう。おしゃべりな人は人の話を聞かないものだ。人の話を聴く人は人に好かれる。だから自分の得意な面を出して、周りの人の話をどんどん聴きなさい、と。しばらく後、母親から礼状が届いたという。


(講演は苦手だが、対談は上手いと遠藤氏は自己分析する。一般に、おしゃべりな人は対談は下手だという。たとえば大屋政子さんは、彼女が話して、遠藤氏が話して、また大屋さんが話し始める時、さっき自分が話したところから話し始める。つまり、彼女は遠藤氏の話をまってく聞いておらず、自分の話したいことを話しているだけで、これでは対談にならない)



「初夏の雑談」というタイトルも、話しぶりも、余談のシニカルなジョークも、聴衆にはやる気が無いように見せながら、聴き終わってみると、ひとつのテーマの下で1時間の講演を組み立て、しっかりとメッセージを伝えている。そんな遠藤周作さんの講演スタイルもまた、ものごとは一つの面からだけでは評価できない、ということを体現している。さすが一流の小説家だ。