モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

知への欲求とぶれない姿勢:城山三郎「人間的魅力について」

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実在する人物を主人公にした経済小説歴史小説を多数著した城山三郎が、人間の魅力について語った講演。


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「真珠王」と呼ばれる御木本幸吉。真珠の養殖とブランド化に成功し、後年は豪華な生活をした時期もあるが、もともとは三重県の貧しい漁村の生まれだ。若い頃の御木本は、寺や学校で開かれる講演会に足繁くおもむき、毎回最前列に座って熱心に質問し、講演会の後は講師を宿舎に訪ねることもあったという。生来の積極性に加え、不便な地に生まれたことで、逆に知に飢えていたのだろう。


御木本は最晩年、志摩半島の先端の辺鄙な地に、小さな養殖場と自分の家を建て一人で住んだという。養殖場と自分の家以外、なにもない場所に、御木本は郵便局を作っている。実は、御木本は、家を作る時は必ず、井戸と郵便局を作ったそうだ。井戸は生きていくための水を得るのに必要だ。しかし、なぜ郵便局が必要なのか。それは、御木本が、郵便局は情報の最前線だと考えていたためだ。どんな田舎に住んでいても、郵便局さえあれば、いつでも最新の情報が手に入る。御木本は、それほど「知」というものを大事にしていたのだろう、と城山は言う。


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第27代総理大臣、浜口雄幸(おさち)は、満州事変直前の激動期に日本の国の舵をとった。行政改革・緊縮財政を積極的に進め、政府だけでなく、国民にも倹約を訴えた。彼は終始、筋の通った「ぶれない」強面の政治家であったという。自分自身で「政治家は笑ってはならない」と言っていたというから、相当なものだ。現在の、中身はないのに人気だけで世渡りしていく、ポピュリズムの政治家とは正反対の人物だったのだろう。


浜口は1930年、岡山の駅で狙撃され、駅長室に運び込まれた。その時、ちょうど、ソビエト連邦に発とうとする外務大臣広田弘毅の見送りが行われていた。それを邪魔してはいけない、と浜口は、自分が狙撃されたことを周囲に知らせないようにし、その場にいた多くの人は浜口が撃たれたことに気づかなかったそうだ。


「随感録」という、浜口の覚書のような自著の中に、「男が事をなす」という章がある。男女に関係なく、なにか大きな事をやろうと思った時、どいうことを心がければいいかを書き残した文章だ。


浜口は、事をなす前は、まず周囲の状況をよく観察し、足下をかためよ。そして、いったん事を始めたら、つぎの3つに注意せよ、と書いた。


ひとつめ。信念はうさぎの毛ほども揺らいではならない。 つまり、ぶれてはいけない。

ふたつめ。問題は最後の5分間だ。うんとふんばるべし。 つまり、最後まで気を抜くな。

みっつめ。終始一貫、純一無雑でなければならない。 つまり、欲をもたず、純粋な使命感だけで行え。


この戒めは、今でも、どんなことをやるときでも当てはまるものだろう。


浜口は、最後の年となった1931年、病で床に伏せる中で、必ず国会に立つという約束を守るため、家族を説得し、フラフラの状態で国会に向かった。靴さえ履けない状態だったため、布切れを足に当て、炭を塗って、靴のように見せて国会に立った。


昔は、そんな総理大臣もいたのか、と半分は当時の政治が羨ましく、残りの半分は今の政治が情けなく思う。とともに、もし周囲の環境が変われば、また浜口のような人物が出てくるかもしれない、と、現代の浜口雄幸の姿を想像し、小さな希望も生まれてきた。