モノオモイな日々 Lost in Thought

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江藤淳「菊池寛と芥川賞」

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江藤淳菊池寛芥川賞」。菊池寛の「弟子」であった小林秀雄の、そのまた弟子であった江藤淳氏が語る、菊池寛。1987年10月の菊池寛生誕百周年記念講演会での録音。

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日本人なら知らない人はいない、直木賞芥川賞。この偉大な文学賞が創設されたのは1935年(昭和10年)。その発案者は、作家であり、雑誌「文藝春秋」の創刊でもある菊池寛である。その前年の1934年、直木三十五など、同士で友人の作家たちが相次いでなくなったことを寂しく思った菊池は、直木の名前をつけた大衆文学賞を作ることを考える。同時に、純文学の新進作家には、芥川龍之介賞を贈ることにした。


この経緯を記した菊池の随筆「話の屑篭」には、「芥川、直木を失った本誌(文藝春秋)の賑やかしに亡友の名前を使おうというのである」と、冗談か謙遜のようにも取れる表現がある。しかし、菊池の本心としては、尊敬する友人を失った思いを、何か形にして残そうと考えたのではないだろうか。この随筆で菊池は、まず直木三十五賞のことを書き、それに付け加えるように、直木より先に亡くなった芥川龍之介の賞について書いている。これは、直木より芥川を軽く考えていたというのではなく、逆に、菊池にとって、若い頃からの友人である芥川だからこそ、そのような表現をしたのではないだろうか。


菊池と芥川は、旧制一高の同級生であるが、菊池は一度高等師範へ行ってから一高に入り直しているので、芥川より4つ年上。だから同級生とはいっても、菊池は兄貴か「おじさん」のような存在だったのだろう。「野党」で反体制的な菊池と、スマートで官僚的な芥川は性格も作風も対照的で、一高時代はほとんど交わらなかったらしい。しかし、同じ文学の道に進んだ二人は少しずつ近くなった。表はともかく、本音ではお互いに信頼しあっていたのではないだろうか。特に、年下で、か弱い芥川は、年上で経済力のある菊池を頼っていたようだ。


芥川が1927年に自死した後、菊池は「芥川の事ども」という追悼記を書いている。この中で、菊池はつぎのように亡友を振り返っている。

死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけていたという。しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らしてくれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼を訪ねなかったのである。彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付きは、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。


菊池らしい、簡潔で無駄のない文章はけっして情に訴えるようなものではないが、兄貴分の旧友として、芥川の苦しみに気がつかず、助けてやれなかった、菊池のやりきれなさを感じてならない。


同時に、僕は、相手の才能を心から尊敬し、信頼もできる友人をもった菊池が、とても羨ましく感じた。文学であれ、他のどんな分野であれ、志や価値観を共有できる、本音で語り合える友人や仲間をもつことは、何ごとにも代えがたいことではないだろうか。才能があり信頼できる友がいれば、自分も成長することができる。自分が成長すれば、相手もさらに磨かれる。そのような友人と雑談するだけでも、さまざまな気づきがあり、やる気が起きてくる。沈んだ心が、再び浮かび上がる気分になる。


直木賞芥川賞が、創設から85年経った今でも日本人の心を掴むのは、そのようなほんものの信頼と尊敬が土台にあるからなのだろう。


芥川が菊池を訪ねた時、もし菊池が在籍していれば、後世の僕たちは、もっと素晴らしい芥川作品を読むことができたかもしれない。そう考えるともちろん残念ではあるが、一方で、その悲劇をきっかけに菊池が創設した芥川賞が、後世にわたって数多くの才能を育ててきたのだ。菊池と芥川の才能と信頼する心は、これからもずっと、人々に届き続けるだろう。