モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

小保方さんの実験ノートと記録することの大切さ

少し前、世間を賑わした「STAP細胞事件」。理化学研究所小保方晴子さんが発見したSTAP細胞は、実は捏造だったのではないか、という疑惑が強まり、さまざまな検証が行われた。STAP細胞が存在しないという結論にいたった、その傍証のひとつに、実験に関する記録、いわゆる「実験ノート」が明瞭に取られていなかった、ということがあった。実験に携わる研究者は、かならず自分が行った実験の記録を取る。しかし、小保方さんの実験ノートには、STAP細胞を発見したときの実験条件や観察結果が、少なくとも他の研究者が納得できるレベルで記述されていなかった、というのだ。


あたらしい物質を探すような研究は、実験条件の組み合わせが膨大にあるから、しっかりとした記録を取らないと後で再現実験もできない。それは生命科学の専門外の僕でも容易に想像できる。他の分野の実験でも、程度は違うが同じようなものだ。研究や開発では、記録は何よりも大事、なのだ。


記録を取るのは自分の備忘録のためだけではない。他の人々と知見を共有したり、後世の人に引き継ぐためには、言葉で記録することが必須になる。人類の叡智は記録されてはじめて価値があるといえる。記録することによって、人類のさまざまな活動が発展してきたのだ。


一方で、今の政治を観た時、その「記録」軽視はあまりにひどい。叡智の結晶であるべき記録が、ゴミのように扱われている。過去も現在も、自分に都合の良いように捻じ曲げる政治に、よりよい未来を期待できるはずがない。


ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が逆説的に指摘しているように、言葉は人類の貴重な財産なのだ。言葉がなくなれば、思想もなくなる。言葉という人類の貴重な宝を守るために、記録を放棄してはならない。