モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

「中身より外見」時代への憂い

https://note.mu/jacknakamura/n/nc491ecf5b7fb

 

先日、仕事でお世話になっている方から、「もっとちゃんとした服装をしなさい。いくら中身があっても、外見が悪ければ人は目を向けてくれないよ」と言われた。そのニュアンスから、けっして批判的なものではなくて、僕のことを思って言ってくれているのだと感じた。最近、僕は仕事の場所でもラフな格好で行くことが多いので、すこし上の世代のその人は、損をしていると感じてアドバイスをくれたのだろう。

 

自画自賛になるが、僕はプレゼンテーションは上手いほうだと思う。正確に言うと、以前は上手かったと思う。でも、プレゼンを重ねるうちに、中身がまだ足りないのに外見を取り繕って、実際よりもよく見せて評価される、ということに、一種の罪悪感というのか、嫌悪感のようなものが芽生えてきたのだ。そして、外見に手間と時間をかけるより、中身の質を高めることに労力を注ごう、と思うようになった。

 

たとえば、上で引用した、グレタさんとマララさんのプレゼンを比較する投稿。マララさんの洗練された話し方と比較して、グレタさんの話し方は愚直で、多くの人には届かない、と筆者は言う。ある一面を見ればそうかもしれない。しかし、僕は、このような意見を堂々と述べる人がいることに、とても残念な気持ちをもってしまう。

 

文章を書いた本人に悪気はないと思う。彼は、グレタさんの意見を反発なく世の中に受け入れてもらいたいために、自分の知識と経験からアドバイスしたくなったのかもしれない。ただそれはまさしく「一面的」な味方だ。中身の是非には触れず、外見や技術についての意見を堂々と述べることこそ、コミュニケーションの本質から外れていると思う。

 

これは、評価しやすいものしか見ない、「マニュアル主義」教育の弊害なのかもしれない。たとえば、会社の面接でも、何をどう考えるかよりも、いかに相手の共感を呼ぶ表現をするかのほうが大事だ、と考えているんじゃないかと憂える。(ただ、それは若者が悪いのではなく、学校でそういう教育しかせず、面接する方も表層的なことしか見ない、上の世代が悪いということなんだろう。)

 

 
コミュニケーション能力が大事だと言うことに異論はない。しかし、コミュニケーション能力を「テクニック」の次元だけで捉えるのは、コミュニケーションを活性化するどろころか、ますますコミュニケーションの質を落とすことに加担するだけだ。その結果、社会はますます空虚になっていく。

 

僕は米国での海外勤務の経験がある。その時、自分自身の体験として知ったのは、ネイティブの相手がこちらの話を聴くか聴かないかは、けっしてこちらの英語の上手い下手ではない、ということだ。今、僕が話している中身に価値がある、と相手が考えているから、話を聴いてくれるのだ。たとえ英語が下手でも、伝えようとしていることに価値があると思えば、彼らは真剣に聴いてくれる。

 

一方、日本では中身より形式が重視される。ときには中身なんかどうでもよくて、形式さえ整っていれば評価される。それが上に書いた、面接のテクニックようなものを助長する風潮の背後にあるのではないだろうか。日本は昔からタテマエ社会だと言われるが、昨今、さらにタテマエ社会になっているような気がしてならない。若者と話していると、そつなく、「正しいこと」を述べる人が多い。でもそれは、本当に自分自身が考え、感じたことなのだろうか。正直なところ、そんな疑問を持つことも多い。若者たちの本音は、公の場で本音を語るなんてありえない、ということなのかもしれない。

 

日本の「タテマエ」は、海外の「ポリティカル・コレクトネス」とは全く違うものだ。ポリティカル・コレクトネスは社会全体の自由平等や民主的な考えから生まれたものだが、日本のタテマエは上下関係などの古い考え方や、責任回避というネガティブな思考、「場の空気」という得体のしれないものに根ざしているように思う。

 

昨今叫ばれている、起業家マインドの不足や政治への関心の低さ、社会全体にただよう息苦しい雰囲気なども、「中身より外見」という考え方に、その根っこがあるのではないだろうか。

 

人々の間に信頼を取り戻し、毎日生きているのが楽しいという世の中にするには、まず「外見より中身」と考える人を増やすことではないだろうか。

 

だから、今日、仕事の場でTシャツを着ている僕を見て、あなたが不快に思っても、少し我慢してまずは話を聞いてほしい。