モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

政治への無関心という病

昨日の夕方、ある政党の街頭演説を聴きに行った。

百貨店の前の歩道の一角でマイクを握って演説する候補者を、僕は少し離れた場所から見ていた。足早に通り過ぎていく、通勤帰りと思われる人たちの向こうで、ひとりの女性が政党のチラシを通行人に配っているのが目に入った。普段着の姿から、街頭演説の現場に来て、飛び込みで手伝っている人のようだった。その両横には、小学生くらい男の子と女の子が、寄り添うように立っている。おそらく彼女の子どもなのだろう。年齢が上の男の子は、母親を手伝おうと、時折、少し恥ずかしそうな声で、お願いします、と通行人に声をかけていた。小さな女の子は、まだ選挙というものが何なのかわからない様子で、母親のスカートの裾を握って、退屈な時間を我慢しているようだった。


演説を聴いていたのは小一時間ほどだったろうか、彼女たちの前を通り過ぎていった人は、百人以上いただろう。女性は、通行人一人ひとりに「〜をお願いします」と丁寧に声をかけながら、チラシを差し出す。しかし、チラシを手にとったのは、ほんの数名だった。

ごめんね、チラシはけっこうです、という態度を取る人はまだましで、ほとんどの人は彼女と目を合わせることすらしない。まるで、彼女が存在がしていないかのように、前を向いたまま無表情で通り過ぎていく。それはとても奇妙な光景だった。私はあなたには関心はないのだから、あなたも私にちょっかいをかけないで。無表情で、無関心で、冷淡な、他人を排除する態度。

そんな風景をしばらく見ているうちに、僕は、だんだんと心が重たくなってきた。


通行人の中には、他の政党を支持している人もいるだろうが、ほとんどは政治には無関心なのだろう。あるいは、政治に無関心であることを装っているのかもしれない。チラシを受け取ることで、自分が政治に興味があると他人に思われたら困る。そう考えているのかもしれない。

この、政治に関心をもたない方がいい、政治に関心がないと思われる方がいい、という空気は、いったいいつから生まれたのだろう。政治に関心を持つ、持たないは個人の自由だ。しかし、たとえそうだとしても、昔は、政治に関心のないことには多少の罪悪感を伴っていたのではないか。今はこの政党について知識も関心もないけれど、話は聴いてみよう、という態度が、普通の人間の態度ではなかっただろうか。


人の話を聴こうともせず入口でシャットアウトして、政治に関わろうとする市民をまるで異世界からやってきた生物を見るかのように、言葉を交わすことすらしない。自分のまわりの狭い世界しか見ず、その外で誰が何をやっているのかにはまったく無関心。そんな人々が増えているのなら、悲しいことだ。「悲しい」というのは控えめな言い方で、本音では、とても恐ろしいことだと思っている。

この、政治への人々の無関心が拡がった責任は、まさに政治にあるのではないか。これまでの政治が大きな間違いを犯してきた、ということの現れではないだろうか。政治への無関心は、自分のいる国を、国民の心の中にある願いとは異なった方向に進ませる。心のなかにある願いさえ、やがてなくなってしまうかもしれない。それは、今の日本が抱える様々な問題の根源にある「病」ではないか。



チラシを配り続ける彼女の前を無表情で通り過ぎる人々を睨みながら、「お前らみんなバカじゃねーの?」と僕は何度かつぶやいた。でも、本当は「今の政治、バカじゃねーの?」と言うべきだったかもしれない。