モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

記憶力と洞察力は反比例する(のではないだろうか)

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長い間、体感的、直感的にずっと信じていることがある。それは、記憶力がいい人は洞察力が低いのではないか、ということだ。

その考えは、半ば脅迫概念のようになり、若い頃は洞察力を高めるために不要なことは覚えないようにしよう、と思っていたほどだ。正直に言うと、歳をとった今でもそう思っているのだが、最近はあえて忘れる努力をするまでもなく、勝手に忘れていく。残念ながら、洞察力が向上したようにも思えないが。

とにかく、僕は「記憶力と洞察力は反比例する」という自分勝手な仮説を打ち立て、そういう視点でまわりの人たちを見てきたように思う。その結果、少なくとも仮説を否定するような事実は見つけられなかった。もちろん、記憶力と洞察力をあわせた、能力全体のレベルの高低はある。しかし、ほとんどの人は、記憶力派か洞察力派か、どちらかに分けられるように感じてきた。


一般論で言えば、文系は「記憶力派」、理系は「洞察力派」だ(注)。理系の中でも、数学・物理は「洞察力原理主義」と言える。極端に洞察力に重きをおき、記憶力なんて意味ないね、と記憶力を迫害しているのだ。僕も、おそらくこちらの派に近いようだ。


ただ、僕は洞察力派だというだけで、記憶力と洞察力のどちらが偉い、というわけではない。コンピュータが、CPUとメモリの両方がないと成り立たないように、記憶力と洞察力の両方が組み合わされることで、よりよい発想・思想が導かれるのは間違いない。

実際、僕は、若い頃から、記憶力に優れた友人のことを頼りにし、尊敬してきたし、今でも、記憶力に優れた仲間が近くにいると、とても心強い。


そういうことを考えると、人と協力しあうことの意味も明瞭になり、納得できる気がする。

まあ、そもそも、こういうことを考えることが「洞察力派」の特性なんだろう。


(注)断っておくとが、僕は「文系・理系」という分け方には違和感があり、そういう分け方には反対だ。2つに分けるとするなら、「記憶力学部・洞察力学部」に分ければいいと思う。それが、おおよそ「文系・理系」に重なっているだけで、必ずしもぴったりと重なっているとは思っていない。