モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

公的機関はクレームを恐れるな!

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今朝の朝日新聞に、映像作家の吉開(よしがい)菜央さんが、自らの映像作品の一部を黒く塗りつぶして、東京都内の美術館のメディアアート展で公開したという記事が載っていた。

女性の指がとれ落ちる様子や肉体の描写に対して、施設を運営するNTT東日本から「東京五輪パラリンピックを控え、障害者への配慮に欠ける」「不快な表現があり、公開できない」と迫られた末の苦渋の決断だという。


僕はこの作品を観ていないので、その是非を確信を持って言うことはできない。しかし、彼女の映像表現が「公序良俗に反しない範囲にある」という前提で意見を述べるなら、NTT東日本の対応は、息苦しい世の中をさらに息苦しくする行為だと思う。それは、最近ますます強くなっている「事なかれ主義」の現れとしか思えないからだ。


「誰かが傷つくことはやるべきではない」という意見はあるだろう。しかし、「誰かが傷つくことはやらない」のなら、おそらく何も言えないし、何もできなくなる。どんなことを言っても、必ず傷つく人はいる。「完全な配慮」など、現実にはあり得ない。

たとえ、傷つく人がいるとしても、その意見や行為が、少なからぬ人に新しい視点をあたえたり、何かを考えさせるものであるならば、それを公開し、共有するべきだと思う。極端に言うなら、その言葉や行為が「不謹慎」くらいなら、押さえつけるべきではないと思う。「不謹慎」とは、常識にてらして不適切ということ。よりよい未来を見すえて現状を変えようという意見なら、現在は「不謹慎」と言われるだろう。現時点では「不謹慎」な考えほど、あたらしい気づきを与えてくれる可能性も大きい。意見や行為にフィルターをかけることは、よりよい未来への変化の芽を自ら摘んでいるようなものだ。


とりわけ、国家や行政などの公的機関、そして公に準ずる行為を行う大企業は、個人の意見にフィルターをかけることに慎重であるべきだ。

公的な機関の役目は、中立な意見「だけ」を伝えることではない。さまざまな個人が持っている、さまざまな意見(左も右も、革新も復古も)をできるだけもらさず、世の中に伝える場所を提供する姿勢。それが、公的機関に求められる「中立」であり、中立であるためには、あらゆる意見を伝えることよう努力するべきだ。特定のフィルターを掛けることは、中立とは真逆の行為だと思う。


行政や大企業がフィルターをかけたいのは、クレームを恐れているからだ。でもなぜクレームを恐れるのだろう?

たとえば美術館で作品を展示する時、美術館は、個人である作家に場所を提供しているただけであって、その作家の意見や行為を代弁しているわけではない。だから、もし誰かが美術館にクレームを付けても、「作品の内容は私たちの関与することではありませんし、するべきでもありません」と言えばいいだけだ。作品を展示している美術館には、何の責任もない。


クレーマーの側も、自分の考えを伝えたいのなら、美術館に電話やメールをするのは筋違いだ。直接、作家に言えばいい。もっとも、その作品を、時間をかけ、考え抜いて創った作家と議論する勇気と見識があれば、だが。


以上が僕が日頃感じている「違和感」だが、誤解しないでほしいのは、けっして行政や大企業にクレームをつけているのではない、ということだ。むしろ、だれかがクレームをつけても、あなたたちの責任ではないのだから、「知ったこっちゃない」という態度をつらぬけばいいのではないですか、と伝えたいのだ。


たとえ自分たちが正しいと思っていても、面倒なことに巻き込まれたくない、と言うのなら、向けられたクレームや反対意見を隠さずに、逆にすべての人にオープンにすればいいのではないか。もし、あなたたちのやっていることが正しいなら、クレームを付ける人よりも、擁護する人のほうが多いはずだ。社会に、こんな問題があるんだ、あなたたちはどう思いますか、と問えばいい。少数のクレーマーの意見に従うより、はるかに確実な答が得られるだろう。

もしクレームを公開しても、誰も意見を言ってくれない、と考えているなら、それについてはクレームを付けたい。お互いを信じる態度を率先して示すことが、公的的な組織の重要な役目ではないですか、と。もう一度いうが、公共のミッションは責任を取ることではない。今、こんな問題があるのだ、ということを明らかにし、さまざまな方法で、市民の間の議論を促すことなのだ。