モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

仕事は人間を向上させる、もっとも大切な行為である

女性や失業者、障害者たちは「私たちに働く機会を!」と訴える。

一方で、多くの雇用者たちは「残業も休日出勤もやめてくれ!」と叫ぶ。


そんな世の中を日々見ながら、大きな矛盾、というか、根本的な疑問を感じている。それはここ十年くらい、ずっと考えている疑問だ。


いったい、人間にとって、仕事とは何なのだろうか ――――?


「仕事」と呼ばれるものが人間にとって何なのか、僕にはよくわからなかった。

すくなくともそれは、人々にとって楽しいことではなく、辛いことになっているように見える。その傾向は年々強まっているように感じられる。

仕事は、やらずに暮らしていけるならやらないでおきたい「苦痛」「害悪」なのだろうか。それでも人々が仕事をするのは、生きていくため、収入を得るために仕方がないからだ。そんな考え方が強まっているように思う。

マルクスは、労働者は「労働」を切り売りし、それを資本家が搾取している、と言った。労働は奴隷を作るために、社会が発明した巧妙なしくみなのだろうか。



逆に、もし仕事をしなくても暮らしていける世の中が実現したとしたら、人々は幸せだろうか。そんな世の中で、人々はいったい何をやって暮らしていくのだろう?そんな人生に意味はあるのだろうか?


インドの経済学者、クマラッパはこう述べている。「仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。 <中略> 仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上する上で最高の舞台となる」。



僕はクマラッパの言っていることを支持したい。仕事は、知性と感性を高度に発展させた動物が本能的に行う行為であり、人間がもつ素晴らしい能力をさらに高める高度な営みであり、人類という種が継続・進化していくための重要な行動である。最近僕はそう思っている。


ミツバチは毎日蜂蜜を集める。でもそれはけっして義務感からやっているのではないし、ましてや奴隷だとあきらめてやっているのでもない。彼ら(?)にとって蜂蜜を集めるのは自然な行動であるし、その行為によって、ミツバチという種が永続できる。

それと同じく、仕事は、人間にとって、人間であるための自然な行為なのだ。それは、微視的に見れば、生産とコミュニケーションという技術といえるかもしれないが、もっと大きな視点では、人間という種を存続、発展させる基本的な行為なのだ。




仕事が人間の基本的な行為であるなら、なぜ、今、仕事が社会的な問題となっているのか。仕事が人々の重荷になり、精神を病み、最悪の場合、仕事が原因で自死にいたるような悲劇がおきているのだろうか。

それは、仕事そのものが問題なのではなく、仕事を行うために作ったシステムの老朽化、すなわち、形骸化した組織が問題なのだと思う。本来、「人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出す」はずの仕事が、組織のせいでまったく逆のものになっている。仕事という行為は崇高なものだが、その行為を行う「場所」が悪さをしている。


だから今、僕たちは、仕事をつづけるために別の場所を探すか、見つからなければ、新しく作ればいいのだ。その第一歩は、会社や組織がなければ仕事はできない、という先入観を捨てさることだと思う。


クマラッパのいうような仕事を体現している人々に、たとえば、職人がいる。職人は、お金を得るためだけにモノを作っているのではない。自分自身の手でモノを作ることは、自分自身の喜びなのだ。そして、作られたモノを通じて、他の人々も少し幸せになる。それがまた職人の喜びとして加わる。そこでは、お金は目的でも主役でもない。人々の感謝の表れであり、職人が仕事を続けていくための糧にすぎない。



政治に目を向けるなら、「働き方改革」などと空虚な言葉で、残業を規制したり、正社員を増やしたりするのは、現在の疲弊した「働き方」をごまかしながら延命するだけで、人間の本質的な幸福にはつながらないと思う。そもそも間違った場所で働いているのだから、小手先のごまかしではなんともならない。間違ったことに目を向けているうちに、もっと大きな重要なことを忘れてしまい、手遅れになってしまうかもしれない。


仕事は人間を疲弊させ、不幸にするものではない。人間を非人間化するものではない。その逆に、仕事は、人間が人間であるために、もっとも大切な行為だ、ということを再認識すること。そして「この仕事は私にとって生きがいだ」と思える人を一人でも増やす世の中をつくらなければいけない。

ひとりひとりが、小さな執着心と間違った先入観をすてれば、大きな対価が得られると思う。