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モノオモイな日々 Lost in Thought

過去の覚書、現在の思い、未来への手がかり

日本国憲法前文の美しさ

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先日、中学校の同窓会があり、ある同窓生と40年ぶりに話をした。彼女は今、某大学で政治学を教えているという。政治学者なんて普段めったに出会うことはないものだから、好奇心から研究の話などをいろいろと聞いた。そして、中学校の社会の授業の話になり、ふと「社会の授業で憲法前文を覚えさせられたよね」という話になった。

そう、中学校の頃の僕たちには「覚えさせられた」というのが本音だ。あまり意味もわからない、ただ古めかしい文章を一生懸命、暗記した。それは漢字や英単語を覚える作業とかわらない。でも、何度も繰り返し口にするうちに、「前文って悪くないよな(上から目線な言葉だが、中学生にとってはかなりの賞賛の表現である)」と思うようになった。


もちろん最初は、長たらしく、堅い言葉が並んだ時代遅れの文章だと思ったのだが、その言葉が繰り返し体に入ってくるうちに、こんなに美しい言葉は他にないかもしれない、と感じるようになった。「美しい」といっても、情緒や官能を感じるたぐいのものでは、もちろんない。そこにあるのは、力強さや潔さから生まれる美しさ、といえる。世の中を変えようという熱意や、今までとはまったく違う新しい世の中に対する期待、そして、そういった理想を実現できるはずだという希望。そんな、前を向いて行動しようとする人間からにじみ出る美しさだ。日本国憲法前文は、僕たちの(先祖の方々の)決意の文章なのだ。

生ぬるい世の中に生きている僕には、とてもこんな文章は書けない、と思った(そして今でも、まったく同じことを思う)。


もう一度前文を読み返してみた。今はもう、中学の時覚えたような感覚を持つことはできないが、この文章が美しいと思う気持ちは変わらない。40年前、日本国憲法前文を「暗記させられて」よかった、と今は心から思える。


だから、この憲法を変えることが許されるのは、終戦直後の人たちに負けない熱意と希望、理想がある人間だけであって欲しいと思う。なにより、この憲法の持つ「美しさ」を理解できる者であってほしい、と。


憲法制定70周年の憲法記念日に、そんなことを思った。


(昨今、与党が公開した、憲法改正草案には、なんら美しさを感じなかった。それはおそらく、書き手の「熱意」や「思想」が、人類が進むべき方向とはまったくずれているからだと思う。そのことだけは付け加えておきたい。)